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豊功神社(下関市長府宮崎町)

豊功神社(とよことじんじゃ)は 神話伝説の島として知られる゛満珠・干珠島゛の2島を展望する絶景の宮崎の地に鎮座します 元々は 忌宮神社の境内にあった゛豊功社〈長府藩初代藩主毛利秀元以下を祀る〉゛をここに遷し 祀られていた串崎若宮〈櫛崎八幡宮〉・宮崎八幡宮・松崎八幡宮を〈大正6年(1917)6月〉合祀して 社号を豊功神社と改称したものです

忌宮神社(下関市長府宮の内町)長門国二之宮

忌宮神社(いみのみやじんじゃ)は 第14代仲哀天皇が熊襲ご平定の為 穴門(長門)豊浦宮を興し7年間政務をとられた旧趾です 天皇は筑紫国 香椎宮で崩御せられ 神功皇后は喪を秘して武内宿禰に御遺骸を奉じて豊浦宮に帰らしめ 殯斂(仮埋葬)せられた ご懐妊中の神功皇后は 新羅征討ご凱旋の後 天皇の御神霊を豊浦宮に鎮祭されたのが当社の起源と『日本書紀』に記されています

地御前神社(廿日市市地御前)

地御前神社(じごぜんじんじゃ)は 飛烏時代(593年)佐伯鞍職によって宮島を遥拝する対岸に創建されたと傳 地御前は「本土の地にある神の御前」「ヂノゴゼン」と云い〈神の島として崇められ かつて人があがる事は許されなかった〉厳島を沖の御前「オキノゴゼン」と云った 延喜式内社 安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(名神大)(いつきしまの かみのやしろ)の祭祀が行われた処とも傳

嚴島神社(宮島)・摂社・末社などについて

嚴島神社(いつくしまじんじゃ)の境内・境外の要所 摂社(せっしゃ)・末社(まっしゃ)を記載しています

嚴島神社(廿日市市宮島町)〈安芸国一之宮〉

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は 推古天皇元年(593)佐伯鞍職(さえきのくらもと)によって創建された 延喜式内名神大社(927)安囈国 佐伯郡 伊都伎嶋神社(いつきしまの かみのやしろ)です 平成八年(1996)世界文化遺産に登録された社殿群〈国宝及び重要文化財に指定〉は 仁安三年(1168)太政大臣 平清盛公によって造営された寝殿造りの様式が礎となっています

古宮址天孫降臨神籬斎場(霧島市霧島田口)

古宮址天孫降臨神籬斎場(ふるみやあと てんそんこうりんひもろぎさいじょう)は 昔の霧島神宮の跡で 神宮は 始め高千穂ノ峯と御鉢(噴火口)との中間゛脊門丘(セタオ)゛に奉斎後〈約1400年前〉噴火で悉く炎上の為 この地に再建されましたが ここも〈約1000年前〉噴火で燃えてしまい 霧島町の゛待世゛に遷され 凡そ480年前〈現在の霧島神宮〉に建て替えられています

東霧島神社(都城市高崎町)

東霧島神社(つまきりしまじんじゃ)は 第5代孝昭(こうしょう)天皇の御世に創建されたと伝わり その後 霧島山の噴火などにより神殿などは焼失・埋没し荒廃したが 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です 963年 天台宗の僧 性空上人が再興した ゛東霧島大権現宮゛と称される霧島六所権現の一つです 

霧島東神社(高原町祓川)

霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)は ゛天之逆鉾゛〈高千穂峰の山頂の天孫降臨伝説の地〉を社宝とし 第10代崇神天皇の御代 霧島山を信仰する社として創建と伝わり 山頂は飛地境内となっています 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社で 天暦年間(947~957)には 性空上人が別当寺 錫杖院を建立し 霧島六社権現のひとつとなりました

霧島神宮(霧島市霧島田口)

霧島神宮(きりしまじんぐう)は 旧記に 欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間 脊門丘(セタヲ)に奉斎され 後 御山の噴火の為 悉く炎上し 天暦年間(950)性空上人が高千穂河原に再興奉遷した 後 文暦元年(1234)の大噴火で 社殿 僧坊寺が災禍に遭い 今から500年程前に現在地に鎮座しました 式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です

霧島岑神社(小林市細野)

霧島岑神社(きりしまみねじんじゃ)は 社伝に 往古 高千穂峰(矛峰)と火常峰(御鉢)の間 脊門尾(セタオ)に鎮座と伝わり 延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です その後 韓国岳 大幡山 御鉢 新燃岳の噴火で相次いで神殿を焼失しては造営を繰り返し 明治6年(1872)夷守神社を霧島岑神社に合祀した上で 現在地〈夷守神社の社地〉に霧島岑神社が遷座されました

八幡神社(能美市鍋谷町)

八幡神社(はちまんじんじゃ)は 古代の豪族 和気公と江沼臣春日部の先祖が居住し 各々の祖神・白山比咩神・蟹淵ノ神・水無谷の風ノ神などを祀ったのが始まりと伝 天平勝宝元年(749)興福寺領となり 後 八幡神を勧請 明治40年に7社を合祀 その一つに式内社 能美郡 滓上神社の論社 滓谷神社があります 境内には 家立(やだ)ちの大事業を行った 杉本庄兵衛の徳をたたえ 鍋谷の祖霊(それい)として祀(まつ)られています

滓上神社(小松市中海町)

滓上神社(かすかみじんじゃ)は 社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり もと現在地の北方200mの平地に在ったが 明治十七年(1884)の大洪水で被害を受け 明治二十二年(1888)ここ森山の高台に遷座しました 発祥の地は ここから東南へ2km程の゛奥の宮゛とされ 延喜式内社 加賀国 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)の論社です

布勢神社(魚津市布施爪)

布勢神社(ふせじんじゃ)は 社伝に 創立は第26代 継体天皇(507~531)の時とあります 鎮座地の布施川流域は 阿古屋野古墳群などの遺跡が多数あり 古代 北陸道の布勢驛があった 新川東部では最も早く拓けた地域とされます 延喜式内社 北陸道 越中国 新川郡 布勢神社(ふせの かみのやしろ)とされます

熊野神社(立山町栃津)〈雄山神社 前立社壇の旧鎮座地〉

熊野神社(くまのじんじゃ)は 立山三山を遙拝できる段丘゛神宮山゛に鎮座します 中世に勧請された社地の遺跡〈壮大な建築物の礎石が出土〉があり 東斜面には 磐境(いわさか)〈古代の祭祀遺跡〉があり 立山三山を遙拝する岩峅寺立山信仰を形成した可能性を示唆します 密教が立山に入り込む以前の遙拝信仰の拠点ともされ 雄山神社 前立社壇の旧鎮座地とも伝わります

雄山神社 峯本社〈立山大権現〉(立山頂上 雄山山頂)

雄山神社 峯本社〈立山大権現〉(立山頂上 雄山山頂)は 海抜一万尺(3003m)北アルプス立山の主峰雄山の岩頭に鎮座します 古来・富士山・白山と共に信仰される日本三霊山です 延喜式内社 越中國 新川郡 雄山神社(をやまの かみのやしろ)の峯本社です

雄山神社 中宮祈願殿(立山町芦峅寺)

雄山神社 中宮祈願殿(おやまじんじゃ ちゅうぐう きがんでん)は 社伝に 文武天皇の大宝元年(701)景行天皇の後裔 越中国司 佐伯宿禰有若公の嫡男 有頼少年が白鷹に導かれ熊を追って岩窟に至り 雄山大神の神勅を奉じて開山造営された霊山と伝わります 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています

雄山神社 前立社壇(立山町岩峅寺)

雄山神社 前立社壇(おやまじんじゃ まえたてしゃだん)は 平安初期に開山造営され立山信仰の拠点となった霊山 立山寺(岩峅寺)で 立山に入山する者の身の穢れや罪を湯立ての神事にて祓い 道中の無事を祈願した神仏習合の地です 雄山神社は 現在では・立山頂上峰本社・芦峅中宮祈願殿・岩峅前立社壇の三社殿から成り立つ宗教法人となっています

伊佐須美神社(会津美里町宮林甲)

伊佐須美神社(いさすみじんじゃ)は 『古事記』第10代 崇神天皇の段に゛四道将軍派遣の時 建沼河別と 其の父 大毘古命が相津(あいづ)にて行き逢った゛と記され 社伝には この時 天津嶽に伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神を 国家鎮護の神として奉齋した事に始まると伝えます 延喜式内社 陸奥国 会津郡 伊佐須美神社 名神大(いさすみの かみのやしろ)です

佐波神社(西伊豆町仁科)

佐波神社(さわじんじゃ)は 巨船を造り崇神天皇に献上したとされる゛鴨ケ池(かまがき)゛と呼ばれる池の辺り〈現在の゛鴨ヶ池遺跡゛仁科港の一部(船溜まり)〉に鎮座していましたが 明応7年(1498)に発生した゛明応東海地震の津波゛に流され 御神体が現在の鎮座地に漂着したと伝わります 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の論社です

山神社〈山王神社〉(西伊豆町大沢里)

山神社〈山王神社〉(やまじんじゃ)は 創建年代などは不祥です かつて゛子ノ神を宇波明神゛゛山王を山神゛と称していたらしく 延喜式内社 伊豆國 那賀郡 佐波神社二座(さはの かみのやしろ ふたくら)の内一座とする説があります 又同じく式内社の瓺玉命神社(みかたまのみことの かみのやしろ)の論社ともされています

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