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星宮社〈境内 式内社 上知我麻神社・下知我麻神社〉(名古屋市南区本星崎町宮西)

星宮社(ほしのみやしゃ)は 社説に創始は 舒明天皇(629~641年)頃 七星が天から降り 神託により当地〈往古の千竃郷〉に社を建てたと云う これが 宮簀媛命の父・母を祭神とする今の境内社゛上・下知我麻神社゛で 熱田神宮内の両社も もとはここにあったと云う 星宮社は 星崎城築城の時 この地に移したとも伝わります

上知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〈昭和24年(1949)熱田神宮の境内に遷座〉

上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)は もとは「源太夫社」と称し ここから200メートル程南に鎮座していましたが区画整理によって 昭和24年(1949)熱田神宮境内に遷座しました 祭神は尾張國造 乎止與命(おとよのみこと)を祀る 延喜式内社 東海道 尾張國 愛智郡 上知我麻神社(かむつ ちかまの かみのやしろ)とされます

下知我麻神社(名古屋市熱田区神宮)〈延喜式内社・熱田神宮境内摂社〉

下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)は 祭神 眞敷刀俾尊(ましきとべのみこと)は 宮簀媛命(みやずひめのみこと)の母神にあたり 俗に「紀太夫社」(きだゆうしゃ)と称され 鎮座地も古くから この地であったと伝わります 延喜式内社 東海道 尾張國 愛智郡 下知我麻神社(しもつちかまの かみのやしろ)とされます

多度大社(桑名市多度町多度)〈本宮 多度神社・別宮 一目連神社〉

多度大社(たどたいしゃ)は 古代 社殿背後の多度山を神体山とし 数多の磐座・御神石があり 創祀は神代に遡ると推測されています 社伝では 雄略天皇の御代〈五世紀〉の創建と伝えます 『六国史』には 神階の奉授・官社列したことが記され 『延喜式』には 伊勢國 桑名郡 多度神社(名神大)(たとの かみのやしろ)と所載があります

竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〈製鉄の神 天目一箇命を祭神とする延喜式内社〉

竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う

津秦天満宮(和歌山市津秦)〈合祀 延喜式内社 麻爲比賣神社〉

津秦天満宮(つはたてんまんぐう)は 筑紫安楽寺天満宮〈太宰府天満宮〉より菅原道眞公の画を勧請とも 当地の農民が北野天満宮(京都)に参詣時の霊夢により社殿を建てたとも云う 又 式内社 麻爲比賣神社(まゐひめの かみのやしろ)は 享保年中(1716~1736年)津秦村に石碑を建て再興され大正7年(1918)に合祀されました

菅田神社(近江八幡市中小森町)〈菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀る 延喜式内社〉

菅田神社(すげたじんじゃ)は 御祭神は 天津日子根命の御子で 鍛冶屋の祖とも伝えられている天目一命(あめのまひとつのみこと)です 古代には この子孫である蒲生稲置や菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀り 蒲生平野一帯を治めていたとされます 延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社です

菅田神社(大和郡山市八條町)〈製鉄の神 天目一命を祀る 延喜式内社〉

菅田神社(すがたじんじゃ)は 古代 製鉄・鍛冶を営んだ菅田首(すがたのおびと)が 『新撰姓氏録〈弘仁6年(815)〉』に載る祖神「菅田首 天久斯麻比止都命之後也」を祀ったとされます この祖神゛天久斯麻比止都命(あめのくしまひとつのみこと)゛は 鍛冶の神゛天目一箇神(あめのまひとつのかみ)゛と同神とされます

猿投神社(豊田市猿投町大城)〈国史見在社・延喜式内社〉

猿投神社(さなげじんじゃ)は 主祭神 大碓命〈第12代 景行天皇の第一皇子 日本武尊と双生児〉を祀り 社伝によれば 第14代 仲哀天皇元年(192)勅願により現在地に鎮座と伝わる 『六国史』にも神階の奉授が記さる国史見在社 『延喜式』には 式内社 参河國 賀茂郡 狭投神社(さなげの かみのやしろ)と所載されます

廣澤神社〈広沢天神〉(豊田市猿投町小黒見)〈延喜式内社〉

広沢神社(ひろさわじんじゃ)は 創祀年代など不祥ですが 江戸時代までは 廣澤天神(ひろさわてんじん)と呼ばれたと云う 明治42年(1909)猿投神社境内に合祀されたが その後再びもとの廣澤の地に復祀 猿投神社の末社として現在に至っています 延喜式内社 参河國 賀茂郡 廣澤神社(ひろさはの かみのやしろ)の論社です

勝占神社(徳島市勝占町中山)〈延喜式内社・旧 郷社〉

勝占神社(かつらじんじゃ)は 古代この附近一帯は海で 出雲系海人の豪族が支配し その祖神 大己貴命を海に突き出た中山の東端の景勝地に祀ったのが発祥とされます 播磨風土記 宍禾郡 御方里の條 葦原志許乎命の黒葛(くろかつら)の伝承にも関連があるとも云う 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 勝占神社(かつらの かみのやしろ)です

加津良神社(八尾市萱振町)〈『日本三代実録』加津良神・『延喜式』加津良神社〉

加津良神社(かつらじんじゃ)は 延喜式内社 河内國 若江郡 加津良神社(かつらの かみのやしろ)で 古よりこの地に鎮座しており〈明治期に旧 栗栖神社に合祀されたが 戦後 旧地に復活〉鎮座地名の萱振(かやふり)の名について゛祭事に神前にて松明(たいまつ)を振て神をいさむるなり 故に萱振の名あり゛と云う

加都良神社(多可郡多可町中区天田)〈延喜式内社の参考論社〉

加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建年代は明らかではなく 隣接する高寺山量光寺は 推古天皇(593〜628)の御願所として創建されたと伝えます 又 一説に天保4年(1833)間子の加都良神社の祭礼の席次順のことより 不和を生じて 氏子が分離し 霊代を隣接する高寺山量光寺 本堂に鎮座し 仮殿上棟と遷座が行われたとも伝わります

加都良神社(多可郡多可町中区岸上)〈御遷幸の祭事を執行した御旅所〉

加都良神社(かつらじんじゃ)は 加都良神社(多可町中区間子)が創建の時 大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり ゛その時 御駐泊ありし所なり゛とし 往古 祭日には 加都良神社(多可町中区間子)から この所まで神幸があり 御旅所として年々御遷幸の祭事を執行していた所と伝わります

加都良神社(多可郡多可町中区間子)〈延喜式内社 論社〉

加都良神社(かつらじんじゃ)は 創建は聖武天皇 天平元年(729)大和国の袖振山から「勝手神社」(奈良県吉野町吉野山)の神を勧請したと伝わり 江戸時代には「勝手大明神」と呼ばれました 延喜式内社 播磨國 多可郡 加都良乃命神社(かつらのみことの かみのやしろ)は 所在不明でしたが 明治以降 式内論社となっています

鹿島神社(松山市北条辻)〈神功皇后創建の古社 瀬戸内海の海防の要衝 鹿島〉

鹿島神社(かしまじんじゃ)は 瀬戸内海の海防の要衝 北条の鹿島に鎮座します その創建は 神功皇后が三韓征討の途次 風早の浦鹿島に投錨し 武甕槌神 経津主神を勧請奉斎し 戦勝と道中の安全を祈願し出陣したと伝承があり その折 里人が神功皇后に 米の上に真鯛をのせて炊いたもの〈北条鯛めし〉を献上したとされます

國津比古命神社(松山市八反地)〈延喜式内社〉

國津比古命神社(くにつひこのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に物部阿佐利命が 風早の国造に任じられ 饒速日命 宇麻志摩遅命を祭祀せられたのが創建とされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 國津比古命神社(くにつひこのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 櫛玉比賣命神社が鎮座します

櫛玉比賣命神社(松山市高田甲)〈延喜式内社〉

櫛玉比賣命神社(くしたまのひめのみことじんじゃ)は 応神天皇の御代に勅令を奉じ 物部阿佐理命が風早の国造となり 天道姫命及び御炊屋姫命を奉齋したとされる 延喜式内社 伊豫國 風早郡 櫛玉比賣命神社(くしたまひめのみことの かみのやしろ)です 同じ境内には 夫婦神とされる式内社 國津比古命神社が鎮座します

青衾神社(名古屋市熱田区白鳥)〈熱田神宮の境外摂社〉

青衾神社(あおぶすまじんじゃ)は 古来 熱田神宮の海藏門の外にあると伝えられる 延喜式内社 尾張國 愛智郡 青衾神社(あをふすま かみのやしろ)です 熱田神宮には 本宮をはじめ・別宮1社・摂社8社・末社19社が祀られ 境外には 摂社4社・末社12社が祀られており その境外摂社4社の内の一つです

八劔宮(名古屋市熱田区神宮 熱田神宮境内)〈熱田神宮 別宮〉

別宮 八劔宮(べつぐう はっけんぐう)は 熱田神宮境内の南に鎮座し 熱田神宮の本宮と同じ御祭神をお祀りし 社殿も本宮と同じ造りで 年中祭儀も同様に執り行われます 社伝には 元明天皇の和銅元年(708)寶劔を新たに鋳造し創祀されたと云う 延喜式内社 尾張國 愛智郡 八劔神社(やつるきの かみのやしろ)です

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