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鉾衝神社(笛吹市八代町米倉)〈『延喜式』鉾衝神社〉
鉾衝神社(ほこつきじんじゃ)は 社伝には 仁徳天皇 四年(424年頃)の創立と云う 御祭神 天鈿女命を祀る 延喜式内社 甲斐國 八代郡 桙衝神社(ほこつきの かみのやしろ)と伝わります 中世 矛立明神と称し 甲斐名勝志に載って以来 鉾衝明神と改め 明治元年 現社名の延喜式 鉾衝神社に復称して 明治六年郷社に列しました
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柴宮神社(甲府市善光寺)〈御室山の山頂 石祠(玉諸社)の合祀先〉
柴宮神社(しばみやじんじゃ)は 本神社の東北にある御室山〈月見山の別名〉の山頂 石祠(玉諸社)を相殿に合祀してあります この御室山の山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とされ いつの頃か柴宮神社の第一攝社となり 現在は合祀されています
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玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)〈゛御室山゛山頂 石祠(玉諸社)の遥拝所〉
玉諸神社(たまもろじんじゃ)拝殿跡(はいでんあと)は 御室山の遥拝所とされます この御室山は゛國に大なる変が有る時 此山大きに鳴といふ 輕き時には少しなるといふ゛と伝わる御神体の゛御室山゛〈月見山の別名〉です 山頂の祠は 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の当初の鎮座地とも云われています
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玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮『延喜式』玉諸神社〉
玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 社記に 甲斐国の上代 酒折宮の北方 三室山の山上に祀られ 日本武尊が東征の帰路 酒折の宮に滞り国中の反乱を鎮め 景勝の地に国玉神を祀られたのが創始と云う 又 一つの珠を埋め 上に杉一株を植ゑられた これを玉室杉と称し玉諸の名起ると云う 式内論社 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)です
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玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉
玉諸神社 奥宮(たまもろじんじゃ おくみや)は 社伝によれば かつて高さ7尺 周囲6尺8寸の水晶の玉が神体として祀られおり この神体が神社名の由来と云う 玉諸神社(甲州市塩山竹森)の北東約600m竹森山(水晶山)中腹に奥宮として鎮座する 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です
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玉諸神社(甲州市塩山竹森)〈『延喜式』玉諸神社〉
玉諸神社(たまもろじんじゃ)は 創建勧請の年代は不祥ですが 祭神は 天羽明玉命〈八坂瓊五百箇御統玉(やさかにのいほつみまるのたま)を造った神〉を祀り 高さ七尺余(約212cm)周囲六尺八寸(約206cm)許りの水晶を御神体としていると伝わる 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です
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老尾神社(匝瑳市生尾)〈匝瑳郡の総鎮守『延喜式』老尾神社〉
老尾神社(おいおじんじゃ)は 式内社 老尾神社(をいをの かみのやしろ)です 社伝には 経津主神の御子 阿佐比古命を祭神として 崇神天皇の御宇 神田を附し恆例の祭祀はこの時より初まると云う 又『續日本後紀』に物部小事(おごと)大連が坂東を征した功勳により 鎮座地 匝瑳郡は建郡されたと記され 祭神は小事とする説があります
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蘇我比咩神社(千葉市中央区蘇我)〈『延喜式』 蘇賀比咩神社〉
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)は 日本武尊が東征の際 走水海で暴風雨に遭い 后の弟橘姫が同道して来た五人の姫達と共に身を海中に投じ それを鎮めました 社伝には その一人 蘇我大臣の娘 蘇我比咩は浜に打上げられ 里人により蘇生し都に帰った これを知り応神天皇が国造に任命した蘇我氏により 春日神・比咩神を祀り創建と云う
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橘樹神社(茂原市本納)〈『三代實録』橘樹ノ神『延喜式』橘樹神社〉
橘樹神社(たちばなじんじゃ)は 『古事記』に「日本武尊の后・弟橘比賣命が走水の海に身を投じて 七日の後 后の櫛が海辺に依りき その櫛を取りて御陵を作り治置きき」と記され 社伝では 尊が后の櫛を納めた御陵を作り 橘の木を植えたのが創祀と伝える 延喜式内社 上総國 長柄郡 橘神社(たちはなの かみのやしろ)です
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姉埼神社(市原市姉崎)〈『三代實録』姉前ノ神『延喜式』姉﨑神社〉
姉埼神社(あねさきじんじゃ)は 社伝には 日本武尊が御東征の際 走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫の犠牲によって無事上総の地に着かれ この地 宮山台でお妃を偲び 風神 志那斗弁命を祀ったのが創建と云う その後 景行天皇が日本武尊を祀った 延喜式内社 上緫国 海上郡 姉埼神社(あねさきの かみのやしろ)です
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島穴社原地碑(市原市島野)〈式内社 島穴神社の旧鎮座地〉
島穴社原地碑(しまあなしゃげんちひ)は 社伝には日本武尊が東征の時 風神 志那津比古命を祀り創建 景行天皇が日本武尊・倭比賣命を合祀 昔 この地〈この丘〉にある深坎(しんかん)から常に清風が起り 島穴の社名の由来となった 延喜式内社 上緫国 海上郡 嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)の旧鎮座地で天正3年に現在地に遷座
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島穴神社(市原市島野)〈『三代實録』嶋穴ノ神『延喜式』嶋穴神社〉
島穴神社(しまあなじんじゃ)は 第12代 景行天皇の御代 日本武尊が東征の時 走水の海で暴風に遭われ 弟橘姫命が大和国の風鎮神 龍田の神を拝み 海中に身を投じ暴風が止んだ 無事に上陸ができた尊は 妃のご祈誓に従い ここに風鎮の神 志那都比古尊を祀られたと云う『延喜式』嶋穴神社(しまあなの かみのやしろ)です
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飽富神社(袖ケ浦市飯富)〈『三代實録』飯富ノ神『延喜式』飫富神社〉
飽富神社(あきとみじんじゃ)は 第二代 綏靖天皇元年創建と云う 古代の中央豪族 飫富(おふ)氏にちなんだ社名「飫富神社」であったが文字の誤伝から「飯富(いいとみ)神社」「飽富(あきとみ)神社」と代わったと云う 『三代實録』には 飯富ノ神と記され 『延喜式』には 上緫國 望陀郡 飫富神社(おふのかみのやしろ)と記されます
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遠賀神社(鶴岡市外内島字明神川原)〈『延喜式』遠賀神社〉
遠賀神社(おがじんじゃ)は 中世に赤川が乱流していた所「外内島(とのじま)」に鎮座します この地名の語源は 赤川の旧称である外川と内川の間にできた島という説 名請人 戸内大夫(とのうちだゆう)(神主)と関連するとの説もあります 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)の論社です
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遠賀神社(鶴岡市遠賀原字高間々)〈『延喜式』遠賀神社〉
遠賀神社(おがじんじゃ)は 遠賀神社と云ふ額面が殘っていたとあり これを説として 稻荷は「タウガ」と読み 遠賀も亦「タウガ」と訓む 故に中世には 遠賀神社を稻荷神社とし 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)であるとされていました
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遠賀神社(鶴岡市井岡字和田)〈『延喜式』遠賀神社〉
遠賀神社(おかじんじゃ)は 延喜式内社 出羽國 田川郡 遠賀神社(をかの かみのやしろ)とされ 古くは岡山の岩台に鎮座したが 天長年間(825年)当地に遷座したと云う 中世に至り神佛混淆し 井岡寺を創設し 別當を置き゛岡大権現゛と称していたが 明治維新の際 神佛分離により 延喜式 遠賀神社と改称しました
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劔刀神社(伊豆の国市戸沢)〈『延喜式』剱刀乎夜爾命神社〉
劔刀神社(たちじんじゃ)は 『伊豆国神階帳』に所載の「従四位上 たんかいの明神」で 延喜式内社 伊豆國 田方郡 剱刀乎夜爾命神社(つるきたち をやにのみことの かみのやしろ)の論社です 祭神について 剣刀乎夜爾命(たちおやにのみこと)とされますが 一説には 日本武命と草薙劔とも云われます
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赤王神社(三島市大場)〈『延喜式』大朝神社・剱刀乎夜爾命神社〉
赤王神社(あかおうじんじゃ)は 昔は赤王明神と云い 赤王山に鎮座したが洪水に流れて現在の地に止り ここに祀られるようになったと云う 一説には 延喜式内社 伊豆國 田方郡 大朝神社(をほあさの かみのやしろ)とも 延喜式内社 伊豆國 田方郡 剱刀乎夜爾命神社(つるきたち をやにのみことの かみのやしろ)ともされます
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肥田神社(田方郡函南町肥田)〈『延喜式』引手力命神社の論社〉
肥田神社(ひたじんじゃ)は 明治44年(1911)村社 若宮神社に村社 皇后神社を合祀して 肥田神社と改称 本来の祭神については 皇后神社〈三島大神の妃 阿波咩命〉若宮神社〈阿波咩命の御子神 肥田王子〉と伝わり この肥田王子は 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とされます
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引手力男神社(伊東市十足)〈『延喜式』引手力命神社〉
引手力男神社(ひきたぢからおじんじゃ)は 社伝には 往昔 第42代文武天皇の御代(697~707年)役小角が大島に遠流の折 手力山に来て通法を修業した由が記され 手力山の中に石造りの小祠が建立されていたと伝わる 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)の論社です