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土宮〈豊受大神宮(外宮)別宮〉

土宮(つちのみや)は 外宮鎮座以前から山田原に祀られていた鎮守神でした 外宮が鎮座した後 宮域の゛地主神゛となり その後 大治3年(1128)宮川の洪水から外宮を守る堤防の守護神として゛別宮゛に昇格しました ご祭神は大土乃御祖神(おほつちのみおやのかみ)で 神域内の御池にかかる「亀石」を渡った西側に 他の宮とは異なり〈外宮鎮座以前の姿のまま〉社殿は東を向き鎮座します

風宮〈豊受大神宮(外宮)の境内 別宮〉〈お伊勢さん125社〉

風宮(かぜのみや)は 鎌倉時代 蒙古襲来・2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)の時 伊勢の神風を吹かせ給い 国難を救ったと伝えられ 皇大神宮(内宮)の風日祈宮(かざひのみのみや)とともに 末社の格「風神社(かぜのかみのやしろ)」から 正応6年(1293)豊受大神宮(外宮)別宮に昇格し゛風宮゛と号します

風日祈宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

風日祈宮(かざひのみのみや)は 鎌倉時代 蒙古襲来・2度の元寇(1274年文永の役・1281年弘安の役)の時 伊勢の神風を吹かせ給い 国難を救ったと伝えられ 豊受大神宮(外宮)の風宮(かぜのみや)とともに 末社の格「風神社(かぜのかみのやしろ)」から 正応6年(1293)皇大神宮(内宮)別宮に昇格し゛風日祈宮゛と号します

月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉〉

月讀宮・月讀荒御魂宮・伊佐奈岐宮・伊佐奈彌宮は 各々が皇大神宮(内宮)の別宮で 明治6年(1873)現在の四つ宮並列した形で鎮座しました 『皇太神宮儀式帳(804年)』には「月讀宮一院 正殿四区」と一宮に四殿と記し 『延喜式〈927年〉』には「伊佐奈岐宮・伊佐奈彌社が瑞垣を巡らしたー院」「「月讀宮・月讀尊荒御魂社で一院」と二宮であったと記されています

葭原神社(伊勢市中村町)〈皇大神宮末社〉

葭原神社(あしはらじんじゃ)は 『日本文徳天皇實録』天安2年(858)2月に官社に預った記録がある古社で 皇大神宮(内宮)の末社16社のうち 第3位の末社です 『延喜式神名帳』所載 伊勢國 度會郡 荻原神社(貞)(をきはらの かみのやしろ)の論社ですが 中世に廃絶しました 明治6年(1873)現在地〈内宮の別宮゛月讀宮゛境内〉に再興されました

瀧原宮・瀧原竝宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

瀧原宮(たきはらのみや)・瀧原竝宮(たきらのならびのみや)は 二つの内宮の別宮が並列して鎮座します 御船倉を有するなど他の別宮と異なる点が多々あり゛大神の遥宮(とおのみや)゛として大きな信仰を集めます 倭姫命の創建で 元伊勢とも伝えられ 内宮を連想させる神域内の樹齢数百年を越える杉の木立の参道と谷水の流れる御手洗場は太古の信仰へと誘います

荒祭宮〈皇大神宮(内宮)別宮〉

荒祭宮(あらまつりのみや)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』に「荒祭宮一院 大神宮の北にあり 相去ること二十四丈 大神宮の荒御魂宮と称す」とあり『延喜太神宮式〈延長5年(927)〉』に「荒祭宮一座 大神の荒魂」とも見える古社です 天照大御神の荒御魂を祀り 内宮に所属する十所の別宮のうち 第一に位しています

お伊勢さん125社について〈神宮は正式名称 伊勢神宮125社の総称〉

゛伊勢神宮〈お伊勢さん〉゛ その正式名称は 二文字゛神宮゛(かみのみや or じんぐう)で 125のお社の総称とされます〈内訳は゛正宮〈内宮・外宮〉2所・別宮(わけみや)14社・摂社(せっしゃ)109社・末社(まっしゃ)24社・所管社(しょかんしゃ)34社・別宮所管社8社゛〉

豐受大神宮〈外宮〉(伊勢市豊川町)〈伊勢神宮〉

豊受大神宮(とようけだいじんぐう)は 今から約1500年前 内宮の御祭神 天照大御神のお食事を司る御饌都神(みけつかみ)として 丹波国から現在の地にお迎えされました 御饌殿では 今日も神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭が続けられています 内宮に対して外宮と並び称され 衣食住 産業の守り神としても崇敬されています

皇大神宮〈内宮〉(伊勢市宇治館町)〈伊勢神宮〉

皇大神宮(こうたいじんぐう)は 私たち日本人の総氏神「伊勢へ行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と全国の人々で賑わう伊勢詣が有名です 通称を゛伊勢の内宮(ないくう)゛鎮座は゛垂仁天皇26年〈今から2000年前〉 御祭神は゛皇祖神 天照大御神゛御神体は皇位のしるし三種の神器の一つ゛八咫鏡(やたのかがみ)゛です

咸古神社(富田林市龍泉)〈弘法大師空海が 加持祈誓し龍神を呼んだ社〉

咸古神社(かんこじんじゃ)は 『龍泉寺縁起』弘仁14年(823)この地を訪れた弘法大師空海が加持祈誓し 龍が再来 池が戻り3つの小島が現れた・弁財天・聖天・吒天を祀り 牛頭天王を鎮守社としたのが創建と云 江戸時代には鎮守社 牛頭天王社 明治に咸古神社と改称 明治42年(1909)相殿に式内論社 咸古佐備神社が合祀された

事代主神社(阿波郡市場町大字伊月字宮の本)〈延喜式内社〉

事代主神社(ことしろぬしじんじゃ)は 『日本書紀〈養老4年(720)〉』神功皇后紀に此の神の事が記載されているので それ以前からの鎮座と伝わる古社です 鎮座地の伊月(いつき)は 事代主神を斎(いつき)祀る所から来ているとのこと 延喜式内社 阿波國 阿波郡 事代主神社(ことしろぬしの かみのやしろ)であるとされます

蛭子神社(勝浦町沼江一楽)〈大将軍神社の境内社〉

蛭子神社(えびすじんじゃ)は 大将軍神社(勝浦町沼江一楽)の境内に祀られています 勝浦町沼江地区には 二つの゛ゑびすさん゛を祀る神社があり 二つ共に延喜式内社 阿波國 勝浦郡 事代主神社(ことしろぬしの かみのやしろ)の論社とされていて その内の一つになります

生夷神社(勝浦郡勝浦町大字沼江字田中)〈延喜式内社〉

生夷神社(いくいじんじゃ)は 『新撰姓氏錄』゛長公(おさのきみ)は 大奈牟智神兒 積羽八重事代主命之後也゛と記載されている 長の地は 阿波国 那賀郡の地に由縁があるので その氏人〈長〉の祖神として祀られたものであろうとされています 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 事代主神社(ことしろぬしの かみのやしろ)の論社です

朝立彦神社(徳島市飯谷町小竹)〈延喜式内社〉

朝立彦神社(あさだちひこじんじゃ)は 延喜式内社 阿波國 勝浦郡 阿佐多知比古神社(あさたちひこの かみのやしろ)です 江戸時代には 護王権現(ごおうごんげん)と称し 明治四年 朝立彦神社と改しました 境内には 年中水が涸れず 祈雨の神として霊験がある゛御甕(オカメ)゛〈現 「お亀の池」〉と云う 二尺余の岩穴があります

服部神社(鳥取市福部町海士)〈三代實錄 服部神・延喜式内社 服部神社〉

服部神社(はっとりじんじゃ)は 『續日本紀』元明天皇 和銅五年(712)秋七月の条に因幡国にて綾錦を織られたと記載があり その頃の創立と思われ 又『三代實録』貞観十六年(874)五月の条に服織神 從五位上と神階の奉授が記される国史見在社であり 式内社 因幡國 法美郡 服部神社(はとりのかみのやしろ)でもあります

駒形神社(御前崎市御前崎)

駒形神社(こまがたじんじゃ)は 延喜式に載る白羽官牧の地と伝えられ 社伝には゛往古沖で遭難した九十頭の馬の内一頭が岸にたどりついた地とされる 残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと云う 白羽神社の元宮とされる゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

白羽神社(御前崎市白羽)

白羽神社(しろわじんじゃ)は 社伝によれば゛旧社地は 御前崎市御前崎(厩崎)字本社に安閑天皇元年(531)11月鎮座 仁明天皇 承和元年(834)3月神様のお諭しにより宮処を廻り相応の処を定め 承和四年(837)2月現地に遷座した゛とあります 延喜式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

服織田神社(牧之原市静波)

服織田神社(はとりだじんじゃ)は 社伝には゛景行天皇の七年に勧請された゛とあり 鎮座地は 往古は服織田村と言われたが柏原町と改められたと宝暦八年の検地帳に記載されています 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の式内社 遠江國 蓁原郡 服織田神社(はとりたの かみのやしろ)の論社です

服織神社(浜松市東区豊町)

服織神社(はたおりじんじゃ)は 古くは 天竜川沿いのこの辺には〈織物に関係した職人が集団〉服部(はとりべ)が住んでいたと伝わる 元明天皇の和銅元年(708)出雲国から 神様をお迎えして造られたのが創建と伝わる 延喜式内社 遠江國 長上郡 服織神社(はとりの かみのやしろ)とされます

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