朝熊神社(あさくまじんじゃ)&朝熊御前神社(あさくまみまえじんじゃ)は 五十鈴川と朝熊川の合流する東岸丘にあり 垂仁天皇27年(BC3)倭姫命が石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀ったのが創祀と伝える 皇大神宮(内宮)の27摂社の内 第1摂社です『延喜式神名帳』では 伊勢国 度會郡 朝熊神社(あさくまの かみのやしろ)と記されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
朝熊神社(Asakuma shrine)
朝熊御前神社(Asakuma mimae shrine)
【通称名(Common name)】
・小朝熊
・朝熊社
・小朝熊神社
・さくらの宮
【鎮座地 (Location) 】
三重県伊勢市朝熊町字櫻木2566-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈朝熊神社〉
《主》大歳神(おおとしのかみ)
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)
※『皇太神宮儀式帳』では3柱
《主》櫻大刀自神(さくらおほとじのかみ)〈大歳神の子〉
苔虫神(こけむしのかみ)
朝熊水神(あさくまのみずのかみ)
※『倭姫命世記』では 上の3柱に その親神を含め6柱
〈・神櫛玉命(かみくしたまのみこと)・保於止志神・大山罪命(おほやまずみのみこと)〉を含めて6柱
〈朝熊御前神社〉
《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・朝熊平野の守護神かつ五穀と水の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
鎌倉時代中期の神道書『倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)』には
「詔〈天皇の命〉を受けた倭姫命(第11代垂仁天皇の皇女)が 宮地〈皇大神宮〉を求め各地を巡幸した時 垂仁天皇27年(BC3)石と化した大歳神(おほとしのかみ)を祀る社を建てたのが 朝熊神社の創祀と伝えます
倭姫命が垂仁天皇27年(BC3年)今の志摩市磯部町で真鶴〈マナヅル〉がくわえていた一株から千の穂が出ている稲を得たことを慶び 小朝熊山に大歳神をお祀りしたことから始まると伝えられる〈神宮司廳 1979〉
室町時代の内宮禰宜(ねぎ)荒木田氏の『氏経卿(うじつねきょう)神事記』『内宮引付』・文正2年(1467)・明応元年(1493)朝熊神社にて祭礼がなされた記載あり
後の戦国時代の動乱期に衰微・廃絶し 本来の鎮座地は不明となる
江戸時代初期 寛文3年(1663)大宮司・河辺精長(かわべきよなが)により朝熊神社は 現在地に復興〈その際 掘り出された石の上に古鏡あり〉
発見された古鏡は 朝熊神社の西側に建てられた「鏡宮」と称されていた御前社に奉祀され その後 朝熊神社の隣に朝熊御前神社が建てられた
その時 鏡宮神社は現在地に移され 朝熊神社から独立した神社となって 明治9年(1876)に内宮末社とされた
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝 下』〈昭和18年(1943)〉に記される内容
【抜粋意訳】
朝熊神社(あさくまじんじゃ)
鏡宮神社を拜し、朝熊川の假橋を渡ると、朝熊神社の小高き丘とお森とが眼の上にそびえてゐる。皇大神宮の第一の攝社で、古來から尊信厚き神社である。朝熊(あさくま)といふのは、朝熊山に源を発する、朝熊川に沿ふ小部落であって ,この川、浅く隈(くま)をなして曲り曲って、流れて來るを以て、アサクマと稱されたものである。石階を登ると社殿が二つある。向って右 (東 )なるを朝熊神社といひ、左 (酉 )なるを朝熊御前(あさくまみまへ)神社といってゐる。
先づ朝熊神社の方から述べると ,古く儀式帳には小朝熊(こあさくま)神社ともいはれ、御祭神は ,神櫛玉命(かみくしたまのみこと)の御子・大歳神(おほとしのかみ)の御子の櫻大刀自神(さくらおほとじのかみ)と、苔虫神(こけむしのかみ)と大山罪命(おほやまずみのみこと)の御子、朝熊水神神(あさくまのみづのかみ)との三柱の神を御祭り申上げてゐる。何れも朝熊平野の田圃の守り神として五穀の神と水の神とを御祭り申上げたものである。
垂仁天皇の御代、倭姫命によって奉齋された神社である。朝熊御前神社(あさくまみまえのじんじゃ)
朝熊神社と相並んで、向って ,その左 (西 )にある神社を ,朝熊御前神社といふ。同じく皇大神宮の攝社である。延曆儀式帳の小朝熊神社の條に、前社一處とある神社がそれで ,前社といふのは、本社の御前にある附属の神社を指すものである。御祭神は朝熊御前神神(あさくまみまへのかみ)と申上げてゐる。
〇
この朝熊神社の邊りは、櫻木の里神(さくらぎのさと)の名所に接し、前に五十鈴、朝熊の二川を控えた丘陵で、神の森は千古の斧鉱を入れず、まことに山紫水明の地である。昔、こゝを訪ひし坂十佛の大神宮参詣記の中に、こゝの景色を次のやうに述べてゐる。朝熊の宮にまゐりぬ。この所には倭姫皇女御とヾまりありて、年月をおくらせ給ひけるとき、神鏡あまた鑄奉らせ給ひて、是より内宮へうつらせ給ひけるとかや。仍て鏡宮と申也。山中に寶殿をつくれども、朝日さらに百鍊のかげをかくさず。岸下怪石をしめて、夜月とこしなへに宮の光をみがきなせり。凡そこの所を見るに、山くだりくだらざれども、樹木悉く底にあり。水のぼりのぼらざれども波浪みな梢にかゝる。
次で、十佛は、こゝで、更に次の長歌を詠んで朝熊神社の御神德をほめたゝえてゐる。
千早ふる、神代かはらず、朝熊の、隈(くま)はに建つる、瑞垣の、水の心も、いち早く、宮居を出でて、麓なる、ありその上を、輝やかす、光まじはる、 塵土(ちりひぢ)の、積れる山の、高か照らす、月ゆすぐれて、隈(くも)りなき、鏡宮(かがみのみや)は、たふとくありけり、
朝熊や豊さかのぼる日影こそ天津神世の鏡なりけれ
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・鏡宮神社 (かがみのみやじんじゃ)〈内宮域外の末社〉
〈朝熊神社の社前 「五十鈴川」と「朝熊川」の合流点に在る三角州に鎮座〉鏡宮神社は 寛文三年に御前社として再興されたが 後に 朝熊社の西側に御前社が建てられた
・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉《主》岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉
朝熊神社&朝熊御前神社は 皇大神宮(内宮)の摂社
・皇大神宮(内宮)
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 朝熊神社
[ふ り が な ](あさくまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Asakuma no kaminoyashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
内宮の摂社・末社について
お伊勢さん125社について
内宮・外宮の摂社・末社にある゛御前神(みまえのかみ)゛について
本社とする神社の御前(みまえ)にある神の意です
朝熊御前神社 (あさくまみまえじんじゃ)〈内宮域外の摂社(朝熊神社境内)〉
・朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》朝熊御前神(あさくまみまえのかみ)
園相神社(そないじんじゃ)に御同座 御前神(みまえのかみ)
・園相神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
鴨神社(かもじんじゃ)に御同座 御前神(みまえのかみ)
・鴨神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
田乃家御前神社 (たのえみまえじんじゃ)〈田乃家神社御同座〉
・田乃家神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》大神御滄川神(おおかみのみさむかわのかみ)
蚊野御前神社 (かのみまえじんじゃ)〈蚊野神社御同座〉
・蚊野神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉《主》大神御蔭川神(おおかみのみかげかわのかみ)
田上大水御前神社 (たのえおおみずみまえじんじゃ)〈外宮域外の摂社〉
・田上大水神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)〈伊雑宮 所管社〉
・佐美長御前神社四社(さみながみまえじんじゃ)《主》佐美長御前神
鏡宮神社(かがみのみやじんじゃ)〈内宮の末社〉
鏡宮神社は 朝熊神社の御前神とされます 朝熊神社の境内に朝熊神社が建てられたため 現在地に遷座
・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉《主》岩上二面神鏡霊(いわのうえのふたつのみかがみのみたま)
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄鳥羽線 朝熊駅から北へ約1.9km 車5分程度
五十鈴川(いすずがわ)と朝熊川(あさまがわ)の合流地点の東岸にある丘に鎮座します
朝熊川に架かる橋から見ると 丘の向かって左側に立札が建っているところが社頭になります
社頭の前には平地があり 車は駐車できるスペースはあります
社頭には神宮司庁の立札があります
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
社号の石柱には゛朝熊神社 域゛と刻まれています
一礼をしてから 境内に進み石段を上がります
社殿と鳥居が見えてきました
一般に神宮の摂社・末社はどこの神社かは わかり難いのですが 立札には゛ここは朝熊神社の域内です゛とありますので間違いはありません
社は 二殿が並列していて 向かって・右側〈奥〉が朝熊神社・左側〈手前〉が朝熊御前神社
向かって・右側〈奥〉が朝熊神社から 正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 南西向きに二社が並んでいるので
他の神宮では 御殿地の隣に古殿地が並んいますが 古殿地(こでんち)は 見当たりません
社殿に一礼をして 石段を下ります
゛朝熊神社゛社頭は朝熊川の東岸で 目の前に朝熊川の西岸と五十鈴川の合流地点があり その三角州には鏡宮神社゛が鎮座します
正式な参拝順序は 先に朝熊神社へ参った後 朝熊御前神社に参るのが正しいと伝わりますので
・鏡宮神社〈皇大神宮(内宮)末社〉
〈朝熊神社の御前神 岩上二面神鏡霊で御鏡を鎮祭する〉
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 朝熊神社について 所在は朝熊村北鹿海村東山上に在す〈現 朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
御祭神については 三座と六座の両説があること 倭命姫が 御制作されたとする゛宝鏡二面゛についても記しています
【抜粋意訳】
朝熊神社
朝熊は阿左久麻と訓べし、亦は小朝熊社と称す
〇祭神両説あり、
三座櫻大刀自神、苔虫神、朝熊水神、儀式帳
六座櫛玉命、保於止志神、櫻大刀自神、苔虫神、大山祇、朝熊水神、傳記○宇治郷朝熊村北鹿海村東山上に在す、神名略記
〇式四、伊勢大神宮 大神宮所摂二十四座の第一に戴す、
○儀式帳云、稱ニ神櫛玉命兒、大蔵兒、櫻大刀自、形石坐、又苔虫神、形石坐、又大山罪命子 朝熊水神、形石坐、倭姫内親王御世定祝、」
御鎮座伝記伝、朝熊神社六座、倭姫命崇祭之神社也
櫛玉命一座、倭姫命御代瑞玉奉造之、亦曰甕尻、神霊石坐、
保於止志神一座 倭姫命御代崇祭之神社也、真名鶴所化、御鎮石坐也、鮮税霊神、
櫻大刀自神二座、櫻花木坐也、大八洲櫻樹始從天上降居也、因以爲花開姫命、一座大山祇堕坐也、
苔虫神一座、櫻大刀自神與合力、大刀子小力子鉾帯造進之、霊石坐也、
大山祇一座、宝鏡鋳造功神也、霊石坐也、櫻神與并坐也
麻熊水神一座、宝鏡鋳造功績也、霊石坐也
件神社之宝鏡二面、是則日天月天之所化白銅神鏡、依神託、倭命姫之御制作也、凡天照大神御入座之時、大年神、大山津見、山祇、朝熊水神等奉饗此之処、故神社定給也、』、
倭姫世記云、伊勢都彦神、一名神櫛玉命、是伊勢地主神也、
又 出雲神子 出雲建子命、一名伊勢都彦神、一名神櫛玉命、並其子大年神、櫻大刀自神命、山神大山罪命、朝熊水神等、五十鈴川後江爾天奉御饗支連胤云、
当社御前の御鏡二面は、往昔より御前の流徹江澤の中岩上に御坐して、毎度紛失の事、当社神鏡沙汰丈、建久十年 百練抄 長寛元年、正治元年、寛喜二年、文暦元年、嘉禎 年 等に見ゆ、 此後の事は未考ヘず
また 沙汰文云、正治元年六月六日、祝磯部時次等解云、当社並御前社宝殿者、共在高由之上、其山下坤方隔江河二十余丈之程水辺岩上、件御鏡二面、自往昔之当所御坐也、云大風洪水之比、云海潮甚満之時、猛浪雖浮其上、鎮座更無相違云々、今はいかなるにや尋ぬべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 朝熊神社について 所在は朝熊村北鹿海村東山上に在り〈現 朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
御鏡が 度々 消えては戻ることが記されています
【抜粋意訳】
朝熊(アサクマノ)神社
又 小朝熊神社と云ふ、延喜式、延暦儀式帳、
今 宇治郷朝熊村の北、鹿海村東山上に在り、神祇本源、延暦儀式帳、神名帳考証、
神櫛玉命の子、大蔵神の子、櫻大刀自神、及 苔虫神、大山罪命の子 朝熊水神を祭る、並 霊形石に坐り、垂仁天皇 御世、倭姫命姑て之を祝奉る、延暦儀式帳、
〇按本書 祭神三座なるを、神名式に一座としたるは、其配亨の神を除て主とある神をのみ挙げたり、諸社此例多し、皇字沙汰文に、、當社は御前社とあるにて、三座なる事著し、弘安九年太神宮参詣記に岩上二面の鏡は、本社遥拝所にして、御鏡即御体也、
小朝熊とは別神也といひ、正治中 大中臣能隆か奏言に、神鏡を以て水神の御体ならむと云る、違へるか如くなれど、異神とも決め難し、按ふに霊形の石上に二面の鏡を置て、二座の御しるしとしたりけるを、後には其本を忘れて、鏡を御体と誤りしものなるべし、
又按 儀式解、櫻大刀自神は今 櫻木森に在り、 苔虫神は本社の梺に坐し、水神は清水森に坐て、各社地を離れて異地の如くなれど、古へは一連接の地也と云へり、並附て考に備ふ
後世之を鏡宮と申す、弘安九年太神宮参詣記二條天皇 長寛元年三月、小朝熊神殿の鏡失たるを以て、諸卿をして之を議せしむ、百錬鈔 初太神宮祭主 神祇大副 大中臣師親 言上しけらく、先に別社小朝熊禰宜等、恒例の祭日、神殿を開奉るに御体を安置奉る御樋代、及御被御鏡、神實自然に紛失給へるは、甚あるましき禍なり、故假に御体をは榊枝を敷て、御床の上に置奉れり、凡御桶代等は廿年每に造り進る物なれと、御鏡に至ては、往古より造り奉る例なしと雖も、先早く御桶代御被を調造奉り給へと請申しき、仍て神寶を造り、別に御剣箏等を副奉り、幣帛使を遣して、其由を神宮に告し、尋て鏡二面、御被衣綿を朱辛櫃に納めて之を奉り、今より後、番直を定めて別社を守護へき由、神宮に仰給ひき、
土御門天皇 正治元年五月、祝磯部時次 解狀を奉て云、當社井御前社實殿は共に高山の上にあり、其麓坤方二十餘丈を隔て、水邊岩上に御鏡二面坐せり、往昔より此處に在て、大風洪水にも海潮湛満の時と雖も、曾て流失の事なし、然るに今其一面を矢ふ由を奏す、朝廷即諸道に仰せて、勘文を奉らしむ、爰に大外記中原重曰、長寬に調進の鏡は、累代神寶の由、彼時の注文に見えたれと、今度の御鏡は、昔より岩上に坐と云時は、彼此各異なるに似たり、宜しく神宮をして、其本起を申さしむへしと申す、祭主大中臣能隆申さく、御鏡の本緣、今詳に知へからす或書に朝熊水神形石坐と云れと、岩上御鏡二面の外、年來御体ある事なし、之に據らは、御鏡即御体なるへしと云に依て、
大外記 清原良業 又曰、延喜式朝熊社と云ひ、延曆儀式帳に、小朝熊神社と云ふ、其號二にして、其實一也、御鏡の本起分明ならすと難も、今忽に失給へる事恐ければ、長寛例に依て奉幣使を遣し、御鏡を改造るへきの議あり、然れとも彼は神寶たり、此は御体なれば、其品各異にして、且其製作に暗き時は、今わけなく改造るへきにあらすなと論ひしかと、其事終に決め給ふ事なかりき、小朝熊神鏡沙汰文
後堀河天皇 寛喜二年十二月に至て、僧 定阿弥陀仏と云者、甞に御鏡を窃み奉て稲荷山に埋置し事を訴ふ、即神宮に勅して、之を本所に鎮奉らしめ給ひき、百錬鈔、皇帝紀鈔、明月記、神鏡沙汰文、
四條天皇天福元年正月、二面又失給ひしか、五月に帰り給ひ、神鏡沙汰文、弘安九年太神宮参詣記、神名秘書
龜山天皇文永六年十一月、又一面見えさりつるに、七年正月自ら帰坐て鎭り給ひき、其霊驗いみしく御坐す事 此の如し、弘安九年太神宮参詣記、神名秘書
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 朝熊神社について 所在は朝熊村 晝河山り〈現 朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
朝熊神社
祭神 櫻大刀自神 苔虫神 朝熊水神
祭日 六月九月十二月並二十日
社格 内宮所攝 二十四所之一所在 三重縣宇治郷朝熊村 晝河山(度會郡四郷村大字朝熊)
【原文参照】
朝熊神社&朝熊御前神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)