青渭神社 里宮(あおいじんじゃ さとみや)は 社伝によれば創建は第10代 崇神天皇の御代とされ 又 天慶年間(938~947)平将門の乱の時 鎮守府将軍 源経基が青渭神社と社号を名付け社殿を建てたとします 『延喜式神名帳927 AD.』所載社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の里宮とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
青渭神社 里宮(Aoi shrine)
【通称名(Common name)】
・そうがく様(そうがくさま)
【鎮座地 (Location) 】
東京都青梅市沢井3-639
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大国主命(おほくにぬしのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
御由緒
惣岳山上に鎮座する。延喜式内社。創建年代不詳。承平年間に源経基、その後、三田、北条、徳川の各氏も厚く崇敬し、社の経営に尽力した。山頂近くに真名井と称する霊泉がある。明治の初めに山麓に拝殿を建て、現在では祭事をここで行う。
東京都神社庁HPより
【由 緒 (History)】
由緒
創立は詳ではない。惣岳山とは近傍の神社を総管する意で名づけられたという。
第10代崇神天皇の御代7年 国中に悪病がはやり死者が多く出たので天皇はご心配になり、国々の神々に御祈念になられた。当社にも神地神戸をくださって祭りが行われた。
天慶年間、源経基が社殿を造営をしたと伝えられている。
第60代醍醐天皇の御代 延喜式神名帳に載せられた式内社である。
現在の社殿は弘化2年、多摩川沿いの26ヶ町村の浄財をもって再建されたものである。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
〈惣岳山上に鎮座する奥宮〉
・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多磨郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 青渭神社
[ふ り が な ](あをゐの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Awoi no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵國 多磨郡 青渭神社(あをヰの かみのやしろ)の論社について
・青渭神社(調布市深大寺元町)
・青渭神社(稲城市東長沼)
・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)
・青渭神社 里宮(青梅市沢井)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR青梅線 沢井駅から西北へ約1.1km 徒歩20分程度
JRの南側には 多摩川が渓谷を流れています
社頭の鳥居に出ます
青渭神社 里宮(青梅市沢井)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり参道石段を上がります
石段の上は 広い境内があり 正面にもう一段高い檀があって 社殿が祀られています
境内向かって右の建物は 宮司宅でお願いをすれば御朱印など頂けました 宮司様には色々と教えて頂きありがとうございました
社殿の建つ境内への石段の下に手水舎があり 清めます
石段を上がり
拝殿にすすみます
拝殿の前 親子の狛犬は 中々味があります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥を覗き込むと 幣殿 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 三ヶ所〈現・青渭神社(調布市深大寺元町)・青渭神社(稲城市東長沼)・青渭神社 奥宮(青梅市沢井)〉を挙げています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマ)神社
和鈔 比企郡 渭後 沼乃之利
古事記 敷山主神(しきやまぬしのかみ)の女(むすめ)、青沼馬沼押比賣(あおぬまうまぬまおしひめ)を娶りて
地考 当郡 柏ノ里 深大寺境内に青渭ノ堤と云ふ所あり 青波天神ノ社あり 七八十年前まで数十回の古木ありしと之 これ古の神社なるへし
式考 澤井村にあり 神主 宮崎氏
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
青渭神社(青梅市沢井)について 延喜式内社とする説があるが確証はない
由緒縁起が残るが 史実と年代が合わなかったりと曖昧である
式内社 青渭神社の論社として 当社以外にも 深大寺村深大寺境内に青波天神があるが いづれも明證なければ 今は定めがたし と記しています
【抜粋意訳】
巻之八十九 多磨郡之二十八 三田領 澤井村
青渭神社
除地 山林一町五段四畝廿二歩 村の北大丹波村の山堺にあり 山上へ登ること十八町山路曲折す
社説に云 總嶽は山の名なり 故に總嶽山青渭神社と號すと云
門は道のほとりにあり 神主を宮野若狭といふ 入間郡北野村栗原左衛門が配下なり
本社六尺に九尺巽に向ふ 昔は拝殿及び鳥居などありしも 先年火災にかかりしより 今に至るまでなを再立に及ばず
抑當社は 延喜式神名帳に載る所にして 祭神は大巳貴尊と云 されど古き記録の徴とすべきことあるにもあらず 又 たしかに口碑に殘りたることもあらざれば 正しくそれとも云がたし 承平四歳次甲午仲春十八日記せしと云
縁起あれど 年代あはず うたがはしきことのみにてとるにたらざれど 古きものなれば全くすてんもほいなし 其中 青渭と社號を命ぜしよしあり 是もうけかひがたき説なれど
暫くそのあらましを記して一説にそなふ
昔 人皇六十一代 朱雀院の御宇 下總國にて平将門王命にそむき 自僭して親王と稱す ときに鎮守府将軍 源経基 武州の守護たりしかば 追討の勅をうけたまはり 軍旅を發して當國に下り 先多磨川の邊りをすぎたもふとき 水色俄に變じて藍の如くなりしかば 将軍 奇異の思をなし 此所に暫くたたずみたもふに 此神社のほとりより 忽然として一人の童女現はれ出 将軍に向て 君此度東國の逆亂を追討したまふ 靈神の擁護あるなれば 勝利疑なしと云 それより進發して遂に将門を追伏したまふ しかるに當社いまだ定まれる社號なければ かの河水の瑞兆にとりて 青渭神社と崇めたまふと云々
されど 延喜式は延長五年十一月 左大臣 藤原忠平等が上りし所なれば 天慶三年 将門誅伏の年よりは 十年餘も前のことなるに 此縁起によつて見るときは 此時始て社號を命ぜしと云 且この縁起いよいよ承平四年に撰せしものなれば 是又 将門追討より前に記せしものなり かかる信じがたきことのみを取にたらざれば 其全文を略しぬ
式内神社考には 青渭の神社は澤井村にありといへり 今按に渭の字多くぬまと訓するときはあをぬまといふにや 又 あをゐの神社といふべきにや 土人は青なみと號すといふ 郡中深大寺村深大寺境内に青波天神といふあり 是青渭の神社なり 然るに青波と稱する謂れは 社前に池ありて青波常に社邊にただよへば いつとなく彼の字に書かへたるなりと これもうきたる説なれば信じがたし かくまちまちなれど いづれも明證なければいかにとも今よりは定めがたし
例祭は十八日にて 二月 六月 九月 一ヶ年に三度あり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 杣保内 澤井村〈現 青渭神社(青梅市沢井)〉としていますが
他の説として「深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり」〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉も論社と記しています
【抜粋意訳】
青渭神社
青渭は阿哀奴と訓べし
○祭神大己貴命、(地名記)杣保(そまほ)内 澤井村に在す、(同上)
例祭 月、日、
武藏野地名考に、当郡 柏の里 深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、七八十年前まで数十囲の古木ありしと也、此古の青渭神社なるべしと云り、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 青渭神社の所在について 深大寺村〈現 青渭神社(調布市深大寺元町)〉と記しています
【抜粋意訳】
青渭(アヲヌマノ)神社
今 深大寺村にあり 青波天神と云ふ
〇按 今 深大寺境内に青渭堤と云所あり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 青渭神社の所在について 長沼村 字青沼〈現 青渭神社(稲城市東長沼)〉と記しています 他の2社〈・深大寺村・澤井〉が池や井戸の伝承だけが根拠とするのに対し 長沼村には青ヌマ前 青ヌマ出口 青渭後といった字が実際にあり 式内・青渭神社と比定しています
【抜粋意訳】
青渭神社
祭神 青沼馬神比賣命
祭日 二月十八日
社格 郷社所在 長沼村 字青沼
今按〈今考えるに〉
本社所在
一は 深大寺村にあり 此の説に 往古は社前に五町餘の池あり 池の谷と云しが 今埋り残りの池あり旱魃に涸ることなしと云るのみにて證なし
一は 澤井にあり 其の説に 本社山岳険岨にして樹木森々 社前に霊泉あり 水清冷にして 四時涸ることなし 之を真名井とも青渭井とも云ひ 寛文享和の書物に青渭社と記し 寛政度の村鑑に式内 青渭神社と記せりと云を以て證としつれど
長沼村の田畑図に青渭神社の南の田の字 青ヌマ前上田二畝と中田三畝と 又 石鳥居の東の田字 青ヌマ前上田七畝二十五と又 青ヌマ脇又 東に青ヌマ出口とみえ 又社後に字と字青渭後中田九畝十八と 字青渭ウシロ中田一反十二となど記し 青渭字分上中下田畑〆て 二町九反二畝とあるもの確証と云べし故今之に従ふ
【原文参照】
青渭神社 里宮(青梅市沢井)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)