縣主神社(あがたぬしじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)の論社です 元々は川崎村〈亀山市川崎町〉に鎮座していた 俗称 縣大明神〈穗落大神社〉が 明治41年(1908)能褒野神社に合祀され 平成10年(1998)椿大神社 境内 椿護国神社の社地に遷座したものです
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
縣主神社(Agatanushi shrine)〈椿大神社 境内〉
椿護国神社(Tsubakigokoku shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市山本町1871
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
縣主神社
《主》倭建命(やまとたけるのみこと)
建貝児王(たけかいこのみこ)〈倭建命と大吉備建比賣の御子〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・方災解除、病魔退散、国家・社会・家庭安秦の御神徳
・頭脳・知恵の神様
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
延喜式内 縣主神社(あがたぬしじんじゃ)(椿大神社摂社)
御祭神
倭建命(やまとたけるのみこと)
建貝児王(たけかいこのみこ)縣主神社は、「延喜式」に見える鈴鹿郡十九座の一つで、川崎村〈現亀山市川崎町〉に鎮座し、俗に縣大明神と称され鎮守社として親しまれていた。ところが、内務省が一町村一社を目標に行った小祠整理により、明治四十一年、能褒野神社(のぼのじんじゃ)に配祀され、下って平成十年十月十日、「椿護国神社」南隣を鎮座の大地と選び定め、椿大神社の摂社「縣主神社」として遷座された。
当地鎮座の由采には、先々代の行輝宮司の出身地が川崎村であることと篤志家による誠実無私の奉斎運動が挙げられる。御祭神の倭建命(日本武尊)は、人皇第十二代・景行天皇の皇子で、西に熊曽建(くまそたける)、出雲建などの諸賊を討ち、東に蝦夷(えみし)を平定された。のち、伊吹山に賊ありと聞き、これを討たんと向かわれたが、御病(みやまい)を得て伊勢国・能褒野に薨去せられた。建貝児王はその御子であり讃岐(さぬき)の綾君(あやのきみ)の祖である。
古代日本に於いて東西に活躍、国家を安定ならしめた倭建命は、方災解除、病魔退散、国家・社会・家庭安秦の御神徳を御発揚なされた。
また、女装して熊曽建を誅した如く、頭脳・知恵の神様でもある。現地立札より
【由 緒 (History)】
『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 鈴鹿郡 縣主神社
此社號は 姓氏を以てするか。然るを神名帳傍注には、今云ふ阿野田欺、といひ、考證には、今云ふ高宮村庄野宿の西也、といへり。共に不勘の浮説にして信受しすたし。
三國地志に云く、川崎村に坐す、俗 縣(けん)大明神と稱す、縣は川﨑の支郷也、と云へり。宮地記には、川崎ノ内土坂に坐すと云ひ、遺響には、川崎にあり、方俗穗落ノ社と稱す、と注す。其外の諸誌は唯川崎村に坐すとのみあり。上件の三書に所載の俗稱各異なりと雖も、共に川崎ノ東に在る穗落大明神といふ社を謂ふなり。
龜山藩上申書に云く、川崎村享保六年棟札に、縣主穂御歳大明神、祠官伊藤伊與 ,延享實暦等同、又天和二年享保等同村八王子ノ棟札に、鈴鹿郡原ノ庄縣ノ郷峯川崎村と記し、太田村六山大明神棟札に、文祿二年神主縣之住人新左衞門重修と記し、縣屋鋪と稱する舊跡ありと載たり。
實曆九年八月上進神社記に、鈴鹿郡河崎村縣主穗落大明神、祭所大己貴命、祠官伊藤信濃、とのみ載て、式内と云はされとも、享保ノ頃既に縣主ノ稱を記したるを見れは、本社の遺存なる事論なかるへきか。其社域東西三十九間、南北四十四間ありて、社殿〔長五尺、横四尺五寸、〕の小社地なれと、頗舊風ある社なり。
然て徴古錄、遺響等に鈴鹿ノ縣主と稱して川俣縣ノ造又伊勢之別と混同の説をなすは年代不合の妄誕なり。受用すへからす、
今按るに倭名鈔に、英多〔安加多〕の郷あり。川崎に縣の古稱を存すれは、此邊卽英多郷なる事見つへし。
されは績日本後紀に、承和八年四月乙巳、右京ノ人勘解由主典正六位縣主前利連氏益に賜ふに姓縣の連を、倭磐余彦天皇第三皇子神八井耳命之後也、とあり。
又姓氏錄に、縣主日本武尊之後也、といふ縣主氏もあり。何れの氏人か此處に住し氏祖を縣主ノ神と稱して祭祀せる社なるへし。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・椿護国神社
《主》護国の英霊
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
縣主神社&椿護国神社(鈴鹿市山本町)は 椿大神社の境内に鎮座します
・椿大神社(鈴鹿市)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 縣主神社
[ふ り が な ](あかたぬしの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Akatanushi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 縣主神社(あかたぬしの かみのやしろ)の論社
・縣主神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉
〈平成10年10月10日能褒野神社より 現在地に遷座〉
・能褒野神社(亀山市田村町)〈日本武尊の御陵 能褒野王塚古墳〉
〈能褒野神社に合祀 縣主神社(亀山市川崎町 鎮座 穂年大明神)〉
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
新名神高速道路 鈴鹿PAスマートIC から西へ約2.2km 車5分程度
椿大神社(鈴鹿市山本町)に参着
・椿大神社(鈴鹿市)にお参りをします
社頭の先を左の道へと進むと鳥居が建ち 社かと思うと 清瀬一郎弁護士さんの功績を称えた碑が有ります
その先に進むと
縣主神社(鈴鹿市山本町)〈椿大神社 境内〉に参着
手前が゛縣主神社゛ 奥が゛椿護国神社゛です
元々は 椿護国神社の社地でしたが 縣主神社が 平成10年10月10日能褒野神社より 現在地に遷座したものです
縣主神社の 本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
すぐ隣の椿護国神社の 本殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 縣主神社について 所在は゛川崎村に在す、〔国史、俚諺〕今 穂年大明神と稱す゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
縣主神社
縣主は安加多奴之と訓べし、和名鈔、〔郷名部〕英多、〔安加多〕とあるは轉訛なるべし、
○祭神 詳ならず
○川崎村に在す、〔国史、俚諺〕今 穂年大明神と稱す、
考証云、古事記に、倭建命御子 建貝兒王者、伊勢別之組、姓氏録、〔和泉國皇別〕縣主、日本武尊之後也、とあるを引り、されば日本武尊といふにや覚束なし、
〔連胤〕按るに、儀式帳に、伊勢国桑名野代宮に坐時に、伊勢國造遠祖建夷方に國名を問賜へば、神風伊勢國と白し、又鈴鹿小山宮に坐時に、川俣縣造等遠祖大比古に国名を問賜へば、味酒鈴鹿國と白すと見えたれぱ、此等の祖神ならん、猶考ふべし、類社
河内國 志紀郡 志貴縣主神社の下見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 縣主神社について 所在は゛今 英多郷川崎村にあり、穂落大明神と云ふ゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
縣主(アカタヌシノ)神社
今 英多郷川崎村にあり、穂落大明神と云ふ、〔勢陽俚諺、龜山舊式社取調帳、式内社検録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 縣主神社について 所在は゛英多郷川崎村(鈴鹿郡川崎村大字川崎 村社縣主神社 穗落大神社) (現今 同村大字田村 村社 能褒野神社に合併)゛〈現 縣主神社(鈴鹿市山本町)の元々の鎮座地 川崎村〈現亀山市川崎町〉〉と記しています
【抜粋意訳】
縣主神社 今稱 穂落大神
祭神
今按 明細帳 祭神 建具兒玉と云るは 古事記に倭建ノ命カ御子 建具兒(タケスヒコノ)王者 伊勢ノ別之祖 姓氏錄和泉皇別に縣主ハ日本武ノ尊之後也とあるによれるなれど如何あらん
祭日 八月十二日
社格 村社所在 英多郷川崎村(鈴鹿郡川崎村大字川崎 村社縣主神社 穗落大神社)
(現今 同村大字田村 村社 能褒野神社に合併)
今按るに傍注には 阿野田軟と云ひ 考證には高宮村と云へと從かたし
地志に川崎村縣大明神遺響には穂落社と注する社 享保六年の棟札に縣主穂落大明神とある由を上申書に載た縣郷 縣屋舗の名稱もありと云へは 今これに從ふ
【原文参照】