日和佐八幡神社(ひわさはちまんじんじゃ)は 社伝には 創建は観応2年(1351)と伝わります 『海部郡誌』には 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和耶神社(わやの かみのやしろ)の論社とします 鎮座地の大浜海岸は うみがめ産卵上陸地〈国指定文化財・天然記念物〉です 又 秋まつりの太鼓屋台「ちょうさ」も有名です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
日和佐八幡神社(Hiwasahachiman shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
徳島県海部郡美波町日和佐浦三六九
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主神》誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
《母神》息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
《妻神》玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・安産・交通安全・家内安全・無病息災・学業成就の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
日和佐八幡神社
御祭神(ごさいしん)
主神 誉田別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)
母神 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)(神功皇后)
妻神 玉依姫命(たまよりひめのみこと)(神武天皇の御母后)御神徳(ごしんとく)
交通安全 無病息災
家内安全 学業就授「由緒」
正平六年(一三五一)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。
「阿波志」に「八幡祠日和射浦にあり。観応二年(一三五一)置く」とあり。
「四河内大小神社神体控」(薬王寺所蔵)に「惣社八幡大菩薩、日和佐浦村、観応二年、当院(薬王寺)に遷宮仕り来りし古き棟札の控あり、玉殿三字、神体九体 祭神、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后」とある。(注、正平は南朝観応は北朝の元号)。
四円霊場第二十四番札所 最御崎寺、及び東京の国立博物館に所蔵の円卓に「歳次、干時、康暦元年(一三七九)五月、日己未、阿波国海部郡日和佐保 八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。
「海部郡取調廻在録」は「日和佐村。此村は和名抄に出たる和射郷名ならんか。されば連続せる村…みしるし侍る。まつ日和佐は四河内と唱へ牟岐七ケ村と唱ふ。其余には阿部浦、由岐浦里、本岐浦里なリ。これらを往古は和射と唱へしものなるはなほ海部郡名阿部などの考は別冊とてさし上まつり候。神社八幡大神宮、祭祀 神功皇后、応神天皇、玉依姫命。観応二年の棟礼流失と伝ふ〈永正十七年棟札写し〉奉造営 日和佐八幡大神宮 御社檀上棟永正七庚辰年 大願主 松島五郎左衛門永真、源重弘、源真弘、源義家、弥次郎、神主、八郎、鍛治六郎右衛門、大工 清原広家、氏郎右衛門と録す。
「海部郡誌」には「日和佐は往古 和射郷の中心であった地で、式内 和耶(射)神社の所在地と推定されるところから 当八幡神社の前身は、式内 和耶(射)神社ではないか」と。なお当神社には永正十七年(一五二〇)の棟札を所蔵している。例祭には大神興の渡御があり、桜町、東町など町内各地区から八台の「勇み太鼓」(ちょうさ)が練り 雄大な大浜海岸に出て はやしたてる光景は、南国的な明朗で豪快な県内有数のスケールの大きな祭風景といえよう。
現地案内板より
【由 緒 (History)】
日和佐八幡神社
御由緒
正平六年(一三五一)の創祀といわれ、もと八幡宮と称した。
『阿波誌』に観応二年(一三五一)八幡祠日和射浦に置くとあり。薬王寺所蔵の『四河内大小神社神体控』に、惣社八幡菩薩日和佐浦村観応二年遷宮壮候との古き棟札の控えありとある。
東京にある国立博物館の所蔵の円卓に「歳次、干時康暦元年(一三七九)五月日己未、阿波国海部郡日和佐保、八幡宮、願主、神主、玄勝」と刻す。『海部郡誌』には、日和佐は往古和射郷の中心であった地で式内和耶(射)神社の所在地と推定される事から当八幡神社の前身は式内和耶(射)神社ではないかとある。
当社が所蔵している永正十七年(一五二〇)の棟札には、「奉造営日和佐八幡大神宮御社壇上棟永正七庚辰年 大願主松島五郎左衛門永真、源重弘、源義家、弥次郎、神主 八郎、鍛冶 六郎右衛門、大工 清原広家、氏郎右衛門」と録す。
徳島県神社庁HPより
http://awa-jinjacho.jp/shrine/detail.html?id=469#head
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
〈参道に祀られる境内社〉
・天神社・淡島神社・道祖神社・蛭子神社・加茂神社・日和佐護国神社
・ちょうさ納屋
日和佐八幡神社秋まつり
「ちょうさ」とは?
毎年10月、体育の日の前々日(土)・前日(日)・日和佐八幡神社秋まつりに奉納される太鼓屋台のことを美波町日和佐地区では「ちょうさ」と呼びます。日和佐地区には8台の「ちょうさ」があり、古いものでは1795年(寛政7年)に造られたものがあります。
「ちょうさ」は、地区のシンボルとして人々に大事にされてきました。普段は解体し保管されていますが、一年に一度、秋まつりの日に納屋から出し、組み立てて町内を練り廻るのです。
「ちょうさ」は、約Itの重さがあり男性50人〜60人程で肩に担ぎます。中には子ども4名が乗り太鼓を打ちならします。この太鼓のリズムに合わせて、「いっさんじゃい」の掛け声で進んでいきます。要所要所では「さーせー、さーせ一」の掛け声に代わり、「ちょうさ」を高々と差し上げます。
古来から太鼓の音は災いを祓うと信じられており、日和佐地区では、1年の災いを祓ってもらおうと「ちょうさ」に御花を出す風習があります。御花を貰った「ちょうさ」は、人々や家々の災いを祓うため、「さーせー、さーせー」と太鼓を打ち鳴らします。宵宮(土曜日)には、町を練り廻り、本祭り(日曜日)には境内を練り、大浜海岸へと出ていきます。なかには、血気にはやる若者の多い「ちょうさ」もあり、大浜海岸の砂を蹴立てて駆け廻り.海の中に躍り込みます。
こうして日和佐八幡神社秋まつりは、古来の姿のまま現在へと受け継がれているのです。
平成27年8月設置 美波町観光協会ちょうさ納屋の看板
・一の鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・大浜海岸 うみがめ産卵上陸地
国指定文化財・天然記念物
大浜海岸のウミガメおよびその産卵弛
昭和42年8月16日指定
大浜海岸は、延長約500mの砂浜で前面が開けて岩礁などの障害物がなく、傾斜もゆるやかで古来アカウミガメの産卵地となっている。
近年他の地域では、゛環境の悪化などで同種の上陸が急速に減少しているなか、この大浜海岸には毎年5月から8月に産卵のためアカウミガメの上陸がみられる。ウミガメ産卵地としては代表的である。
現地案内板より
・日和佐うみがめ博物館
・立島
・立島神社
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)阿波國 50座(大3座・小47座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)那賀郡 7座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 和耶神社
[ふ り が な ](わやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Waya no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 阿波國 那賀郡 和耶神社(わやの かみのやしろ)の論社について
阿南市の文化財
阿南市文化財保護審議会 会長 湯浅良幸
阿南市の式内社 (三) 和耶(わや)神社
阿南市内には 延喜式内社 (小社)が五社あった。和耶神社、室比売神社、建比売神社、賀志波比売神社、八鉾神社である。五社のうち延長年間から継続しているのは八鉾神社のみである。社名に「比売」の付いているのは祭神が女神 (姫・媛 )であるからだ。
さて、和耶神社については 阿南市羽ノ浦町中庄説 と 海部郡美波町日和佐の八幡神社説の二つがあり、現在では確定出来ない。
以下、代表的な説を紹介 (原文は文語体であったり表現が学術的過ぎるので筆者が分かりやすく書き改めた)しよう。
『徳島県史』では「羽ノ浦町宮倉の能路寺(のろじ)山西麓にある熊野権現を充てている。この社では、毎年立春の前一日に゛ワヤワヤ神事゛を行っている。これには村民こぞって参拝し、ワヤワヤと三回唱えて鬼払いをした。また、倭名抄に見える和射郷(わさごう)に注目し、和射 (日和佐)辺りでないかとしている。和那佐には和奈佐富意曽(わなさふいそ)神社がある。
つまり、県史は羽ノ浦説と日和佐説を紹介し地 (郷)名から日和佐説をとっている。
倭名抄には 那賀郡に山代、大野、島根、坂野、幡羅(はら)、和泉、和射(わさ)、海部の八郷があったと記している。郷名についてはいずれ詳しく紹介したい。
『徳島県神社誌』では、明治四十三年、羽ノ浦町宮倉及び中庄にあった和耶神社と二十二社を共に八幡神社に合祀し、羽浦神社と改称した。和耶神社はもともと羽ノ浦町宮倉背戸田にあった」としている。
『阿波式内神社考』 (長谷川定彦 )では、和耶神社は宮倉村能野寺山の西麓にあり今、熊野大明神、一説には熊野権現と称している。三尺四面の小社である。
毎年正月七日の夕方、能路寺の坊さんと所の山伏が社前で読経し法螺(ほら)を吹いた。この行事を待って家々では豆を打ち追儺(ついな)をしたとある。追儺は鬼やらいといわれ、節分行事である。大豆を煎って「鬼は外、福は内」の豆まき行事である。
坊さんの読経が終わると、村の老若男女こぞって゛ワヤワヤ゛と三回繰り返して唱えた。そのため゛ワヤワヤ神事゛といわれた。ワヤは和耶神社にかけたものとしている。『阿波志』にも「『延喜式内社』である。宮倉村にある。今、熊 (野)権現という、毎歳正月七日村人集まって鬼やらいをし神名を三回唱える」とある。
『阿府志』にも「宮倉村にあり、今熊野権現と称している。別当は能呂寺である。当社毎年節分の黄昏村人豆を煎って持参し修験 (山伏)に渡す。神前でお参りがすむと、ワヤワヤと大声で三回唱えてわが家へ帰った」とある。
これらは宮倉説をとっている。
(続く )
広報あなん 5月号〈平成26年(2014年)5月1日〉より抜粋
・羽浦神社(阿南市羽ノ浦町)
〈式内社 論社 和耶神社(宮倉村字背戸田)を合祀〉
・日和佐八幡神社(美波町日和佐浦)
・宮倉神社(阿南市羽ノ浦町西春日野)〈元は隣接地の 羽ノ浦町宮倉にあり〉
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR牟岐線 日和佐駅から日和佐川を渡り 東へ約1.3km 車3分程度 大浜海岸を目指します
社前には楠の大木が立ち並びます
一の鳥居は 海岸線の先にありますので そのまま 社前を通り過ぎて 秋祭りのちょうさ納屋の先の大浜の海岸線に向かいます
ウミガメの産卵がある 大浜海岸です
立島と呼ばれる島には 立島神社が祀られています
海岸線に平行に南へと続く参道の先にには 一の鳥居が建ちます
日和佐八幡神社(海部郡美波町日和佐浦)に参着
境内の右手には 秋祭りのちょうさ納屋が立ち並び
参道の脇には 楠の大木があり その奥に二の鳥居 社殿が鎮座します
大楠の脇の参道を進んで
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります 参道は南に向かって一直線に一の鳥居迄伸びています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『阿波志(awashi)』〈文化12年(1815)全12巻〉に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛在宮倉村 林木欝然 今稱に今熊権現゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十一 那賀郡 祠廟 和耶祠
延喜式爲小祀 在宮倉村 林木欝然 今稱に今熊権現 每歳孟春七日 民聚為儺名三唱神名 赤堀良亮嘗取以為證 舊事紀云 饒速日尊十世之孫 孫淡夜別尊 大海部直等祖 弟彦命之子
【原文参照】
現 日和佐八幡神社について 観応2年(1351)に八幡祠 日和射浦に置くと記されています
【抜粋意訳】
阿波志 巻之十二 海部郡 祠廟 八幡祠
在に 日和射浦 観應二年に置く 又 有に鴨祠・玉木祠・蛭子祠・大黒祠・辨財天祠・立鳥祠
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛祭神 在所等詳ならず゛祭神 所在は不明であると記しています
式内社 和奈佐意富曾神社と同じ所にあるのではないかと推測しています
【抜粋意訳】
和耶神社
和耶は假字也、和名鈔〔郷名部〕和射、
〇祭神 在所等詳ならず
〇播磨國風土記云、〔美囊郡 志深里の下〕伊射報和氣命〈履中天皇〉が この井戸で御食(みをし)をされた時 信深貝(しじみがい)が 御食の筥(はこ)の縁(ふち)に遊び上がった時に 勅して云う「この貝は 阿波国の和那散(わなさ)で 我が食した貝である」、下略
伴信友云、秘釋和那とある誤也、此下 和奈佐神社とあるも同じ處ならば、和射もワナサなるべし、然らばこの和邪もワナサなるべし、和那邪の三字なるか、一字脱たるにやといへり
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 和耶神社について 所在は゛今 宮倉村にあり、今 熊野権現といふ、゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
【抜粋意訳】
和耶神社
今 宮倉村にあり、今熊野権現といふ、
凡 毎年正月七日 村民豆を擲て追儺す、名て和也々々の神事といふ、〔阿波式社略考〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 和耶神社について 所在は゛宮倉村 (那賀郡羽ノ浦村大字宮倉)
、今熊野權現と云ふ゛〈現 明治43年 羽浦神社に合祀された 元〈和耶神社(宮倉村字背戸田)の相殿 今熊野神社〉と記しています
又 節分の日に村民相集まり 各自「わや わや わや」と三唱しての豆をまき その神事を゛わやわやの神事と云゛とあり これは和耶(ワヤ)神社に違いないと記しています
【抜粋意訳】
和耶(ワヤ)神社
祭神
今按 阿波志に舊事記を引て淡夜別命 大海部直等祖とあり 又 三代實錄元慶二年二月十九日 從五位下 山脊忌寸大海全子 以奉幣 氏神向 阿波國云々と見え 此郡 中山代郷の所在も此あたりなれば 卽本社祭神 此命なるべしと國人は云へり祭日
社格 (無格社)所在 宮倉村 (那賀郡羽ノ浦村大字宮倉)
今按 阿府志 阿波志 式社略考に宮倉村にあり 俗 今熊野權現と云ふ 是社 例年節分に邑人豆を持て家々誘引し 和耶々々に行よし云て 此社に打群れ往き 事終れば 諸人同音に三度わあと云て 各家歸る 之をわやわやの神事と云とみゆ されば此祭事あるによりて 和耶神社の當地なる事明かなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
日和佐八幡神社(海部郡美波町日和佐浦)について 記しています
【抜粋意訳】
〇德島縣 阿波國 海部郡日和佐町大字日和佐(ヒワサ)浦
郷社 八幡神社
祭神
玉依姫(タマヨリヒメノ)命
品陀別(ホムダワケノ)命
息長帶姫(オキナガタラシヒメノ)命後村上天皇 正平六年の創祀にかかり、八幡宮と稱す、明治三年十一月現社號に改め、同六年郷社に列す (社記、阿波志)。
社殿は本殿•拜殿等を備へ、境内約二千坪 (民有地第二種)を有す。
【原文参照】