前玉神社(さきたまじんじゃ)は 延喜式内社 前玉神社二座 と古くから云われ 又 延喜式内社 玉敷神社の旧鎮座地ともされます 玉敷神社は正能地区にあったが 上杉謙信の関東出兵の際焼失し その後 一時 根古屋(ねごや)の騎西城大手門付近〈現 前玉神社〉に移り 城内でたびたび出火するため 類焼をおそれ その後 今の地に遷座したと伝わっています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
前玉神社(Sakitama shrine)
【通称名(Common name)】
・明神様(みょうじんさま)
【鎮座地 (Location) 】
埼玉県加須市根古屋476-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》前玉姫命(さきたまひめのみこと)
《合》大日孁貴命(おほひるめのむちのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社&旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
前玉神社
騎西町根古屋四六七(根古屋字道下)
根古屋は、古くはい府開城(根古屋城)のあった所で、私市城士卒の寝小屋があり、それが転じて村名となったといわれ、当社の北西方向に城跡がある。
当社は延喜式神名帳に「前玉神社二座」とある社と古くからいわれている。氏子は、この地は玉敷神社の旧鎮座地の一つであり、玉敷神社は正能からこの地に移り、更に現在の騎西に移されたが、旧地を尊んで祀ったのが当社であるという。このことから玉敷神社の前の社、すなわち前玉神社とも称すると言い伝えている。
社号は、古くは玉敷神社の旧称と同様に久伊豆社と号し、玉敷神社社家河野家が代々奉仕していた。やがて同社神職の新槙家がこれを継ぎ、今日に至っている。
祭神は前玉姫命・大日孁貴命の二柱であり、殿内には元文五年に「根古屋村十四人女子共」が納めた金幣を祀っている。
明治四〇年、前耕地片原の神明社が当社覆屋内に合祀されたが、現在も片原の地には大神宮と称する小祠が祀られている。
境内には疱瘡神社と、私市城の鎮守で城が廃された後は村民持ちとなった天神社が祀られている。
社殿の造営年代についての記録は現在残っておらず、昭和二四年に拝殿向拝部を修復していることだけが知られる。『埼玉の神社』〈著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 〉より抜粋
【由 緒 (History)】
前玉神社(さきたまじんじゃ)
例大祭 四月十日
当社は”まえたま神社”とも呼ばれ、前玉姫命(さきたまひめのみこと)を主祭神とし、幸いをもたらす神として崇敬(すうけい)される。
江戸初期に描かれた「武州騎西之絵図(ぶしゅうきさいのえず)」によれば、当社付近は「元ノ久伊豆(もとのひさいず)」と記されている。久伊豆とは玉敷神社(たましきじんじゃ)のことであるが、騎西領内でたびたび出火するため、この地に鎮座していた同神社が、類焼をおそおれて騎西の地へ遷座(せんざ)したという。当社が玉敷神社の移転後に祀られたものか、それ以前から鎮座するのか定かではない。
境内には菅原社(すがわらしゃ)(天神社 てんじんしゃ)を祀るが、これは騎西城内にあった天神社を移転したと伝えられる。また、境内の疱瘡社(ほうそうしゃ)は、疱瘡(天然痘 てんねんとう)にかかったときお参りすると治るという。
加須市教育委員社頭の案内板より
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈社殿向かって ・右側 疱瘡社・左側 天神社〉
・天神社
・疱瘡社
・神輿殿
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・騎西城〈私市城(きさいじょう)の跡
〈根古屋(ねごや)の騎西城〈私市城(きさいじょう)〉大手門付近(現在の前玉(さきたま)神社)に移った〉とあり 西に200m程に騎西城跡 大手門跡までは50m
・現在の玉敷神社(加須市騎西)
※寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座
・玉敷神社(加須市騎西)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
一つの式内社〈玉敷神社〉の旧鎮座地 一つの式内社〈前玉神社 二座〉の論社となっています
①式内社〈前玉神社〉の論社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 前玉神社 二座
[ふ り が な ](さいたまの かみのやしろ ふたくら)
[Old Shrine name](Saitama no kamino yashiro)
➁式内社〈玉敷神社〉の旧鎮座地
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)埼玉郡 4座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 玉敷神社
[ふ り が な ](たましきの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tamashiki no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 前玉神社 二座(さいたまの かみのやしろ ふたくら)の論社
・前玉神社(行田市埼玉)
・前玉神社(加須市根古屋)〈『埼玉の神社』著者 埼玉県神社庁神社調査団 出版社 埼玉県神社庁 平成4年刊行 による〉
延喜式内社 武蔵国 埼玉郡 玉敷神社(たましきの かみのやしろ)の鎮座地変遷について
・〈玉敷神社 当初の鎮座地〉龍花院(加須市正能)※天正2年(1574)兵火に罹り焼失
・〈玉敷神社 江戸時代に再建された鎮座地〉前玉神社(加須市根古屋)
・玉敷神社(加須市騎西)※寛永4年(1627)頃~現在の鎮座地に遷座
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
東武伊勢崎線 加須駅から県道38号を南下 約3km 車6分程度
根古屋(ねごや)の騎西城〈私市城(きさいじょう)〉の跡地を東へ
大手門の付近とされる
前玉神社(加須市根古屋)に参着
コンクリートの細い参道 石鳥居 狛犬 石燈籠 朱鳥居 社殿と一直線に並んでいます
参道向かって左手の建物は 根古屋集会所 と記されています
鳥居の扁額には 前玉神社 と浮彫されています 一礼をして 鳥居をくぐります
参道には 昭和2年(1927)奉納の狛犬が座します
石燈籠と 朱色の二の鳥居をくぐります
参道向かって 正面に社殿 右に手水舎 左に天神社と石碑
拝殿にすすみます
拝殿の扁額には 奉納 前玉神社 と記されています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿〈覆屋〉が建ちます
境内社にお詣りをすると 大きな木の切り株があります
江戸時代の『新編武蔵風土記稿』1830年(文政13年)には「社地 古松老杉枝を交へ繁茂せるさま いかにも古社なる」と書かれていて 其の様が思い浮かぶような切り株です 現在は 明るい日差しの射しこむ境内に変貌していて 社殿の後ろに僅かに木々が残っています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
ここから北西に2.2kmほど行くと 正能古宮 という交差点があり
これは 天正2年(1574)兵火に罹り焼失した 玉敷神社 当初の鎮座地の意味をさします
〈玉敷神社 当初の鎮座地〉龍花院(加須市正能)の記事を参照
・龍花院(加須市正能)※天正2年(1574)兵火に罹り焼失
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 「埼玉村 今 浅間宮 祭神 前立命 忍立命」〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉と記しています
式内社 玉敷神社について 阿波国の倭大國玉神 大國敷神社二座の関連を示唆し 所在について 騎西の久伊豆大明神〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています
【抜粋意訳】
前玉(サイタマ)神社 二座
神代記 幸魂奇魂
旧事記 大己貴命 乗天羽車大鷲而 竟妻下行於茅渟県陶邑 彼處 大陶祇女活玉依媛
式社考 埼玉村 今 浅間宮 祭神 前立命 忍立命玉敷(タマシキ)神社
〇阿波国 倭大國玉神 大國敷神社二座
式社考
騎御騎西宿 久伊豆(ヒサイツ)大明神 オホナムヂ
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen musashi fudoki ko)』〈文政13年(1830)に完成〉に記される伝承
前玉神社(加須市根古屋)は 玉敷神社(加須市騎西)の旧鎮座地と記しています
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之二百九(埼玉郡之十一)騎西領 根古屋村
久伊豆社
村の鎮守なり 昔 騎西町場 久伊豆社のありし蹟にて こゝより正能村へ移り 夫より今の騎西町場へ移れり 其蹟なれば古宮迹と唱へ小社を置り 神社河野隠岐の持
或傳へに 延喜式 埼玉神社とあるは 當社のことなりと
社地 古松老杉枝を交へ繁茂せるさま いかにも古社なるべけれど 式内なることは當社はさらなり この邊の口碑にも遺らず 騎西町場 久伊豆社の條併見るべし〇天神社
古城蹟にあり もとは城内 鎮守ノ社なりと 今も当村の鎮守なり 村民持
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 一座毎に別記しています
一座は 埼玉村〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉
一座は 根古屋村〈現 前玉神社(加須市根古屋)〉
式内社 玉敷神社の所在について 騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉と記しています
【抜粋意訳】
前玉神社 二座
前玉は郡名〈佐伊太末〉に同じ
〇一座は 祭神 木花開耶姫命 埼玉村に在す、今 富士権現と称す、
一座は 祭神 大己貴命、海上郷山根 根古屋村に在す
考証に、鷲宮乎と云り、玉敷神社
玉敷は多萬之岐と訓べし
〇祭神 大己貴命、(地名記)
〇騎西町に在す、(同上)今久伊豆大明神と称す、
例祭 月 日、
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 前玉神社 二座について 埼玉村〈現 前玉神社(行田市埼玉)〉で間違いないと思う 一説に 根古屋村〈現 前玉神社(加須市根古屋)〉との説もあるが証拠がなく 今は従わないが 後の人が考えてほしいと記しています
式内社 玉敷神社の所在について 根古屋村から正能村へ移し 更に騎西町〈現 玉敷神社(加須市騎西)〉に遷座した と記しています
【抜粋意訳】
前玉神社 二座
祭神 前玉姫命 大己貴命
今按〈今考えるに〉
土俗の口碑に 此神社 埼玉郡の鎮守なり 祭神は前玉姫命 或いは木華開耶姫命なりとなど云伝ふ
又 一説に中頃 淺間宮か此神いとさかりて いつとなく本社までも浅間の神號に言はれて 共に淺間宮と唱ふることとなりたりぞ と云りこの前玉姫命は 古事記に速之多氣佐波夜遅奴美神 此神娶 天之甕主神之女 前玉比賣云々とみえ
前玉命は 舊事記に振魂尊 兒 前玉命とある神と聞ゆ
さて 土俗の口碑 及び 埼玉村社伝 祭神 前玉姫命と云るは 埼玉と云ふによれる説なるべけれど
屈巣村の社伝を以て考ふるに 書紀一書に一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。是以、百姓至今、咸蒙恩頼。嘗大己貴命謂少彥名命曰「吾等所造之國、豈謂善成之乎。」少彥名命對曰「或有所成、或有不成。」是談也、蓋有幽深之致焉。其後、少彥名命、行至熊野之御碕、遂適於常世鄕矣。亦曰、至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣。自後、國中所未成者、大己貴神、獨能巡造、遂到出雲國、乃興言曰「夫葦原中國、本自荒芒、至及磐石草木咸能强暴。然、吾已摧伏、莫不和順。」遂因言「今理此國、唯吾一身而巳。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。」
于時、神光照海、忽然有浮來者、曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」是時、大己貴神問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」大己貴神曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。今欲何處住耶。」對曰「吾欲住於日本國之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之神也 とあるに因らば
前玉神社は即 幸魂神にて大物主神なるべく 屈巣村にます久伊豆神社 祭神 大己貴命と云ふは 大国主神にて 久伊豆は國主の傳なるべく 又 村名の屈巣も古へは 國主と書りと云へば いよいよ大國主神ならんとざ思はる 姑附て後考に備ふ祭日 三月二十八日 五月晦日 六月一日 十四日
社格 郷社
所在 埼玉村一座 在 屈巣村(北埼玉郡埼玉村大字埼玉)
今按〈今考えるに〉
和名鈔に郡名も郷名も佐以多萬とあり 萬葉集に佐吉多萬能津とみえ
今 埼玉村名と社号と相かなひて 村中に佐吉多萬能津の舊称ありと云ひ 口碑もあれば本村なるを式社と定めて可ならん
然るに 一説 根古屋村なりと云は 証拠もあらねば従いがたし 姑附て後考に備ふ玉敷神社
祭神 大己貴命
祭日 三月十五日
社格 郷社
所在 騎西町(北埼玉郡騎西町大字騎西)
今按〈今考えるに〉
注進状に証拠詳かならねど往古 同郡 根古屋村にありしを正能村へ移し 慶長中 又 今地に移せりと土人の口碑に存し 根古屋 正能の両村に古宮蹟と云ふ處あるも一證に備ふべし
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
玉敷神社(加須市騎西)について 元は久伊豆神社であったが 近年 式内社だと云われ社号を玉敷神社と改めたが 式内社であろうか? 確証はないが多くの書籍が式内社としている と記しています
前玉神社(行田市埼玉)について 殆んどの書籍・学者が式内社 前玉神社 二座だとするが 式内社ではなく 富士の行者が祀った淺間社であるとする説もある と記しています
【抜粋意訳】
埼玉縣 武蔵國 北埼玉郡 騎西町大字騎西
郷社 玉敷(タマシキノ)神社
祭神 大己貴(オホナムチノ)命 天照大御神(アマテラスオホミカミ)
豊受(トヨウケノ)大神 伊弉諾(イザナギノ)尊 軻遇突智(カグツチノ)命本社は元と久伊豆神社と称せしが、近來 式社玉敷神社に擬せられ今の號に改めたり、当社果して式杜玉敷神社なりや否や、
武蔵式社考、当社を以て玉敷神社とし、神社覈録亦当社とす、確証ありしにあらずと雖も、特選神名牒 又当社を以て玉敷神社として云く、
「今按、注進状ニ証跡詳カナラネド、往古同郡根古屋村ニアリシヲ、正能村へ移シ、慶長中又今ノ地ニ移セリト、土人ノ口碑ニ存シ、根古屋正能ノ両村ニ古宮蹟ト云フ処アルモ一証ニ備フベシ、」
と、創立年代詳ならず、或は成務天皇六年、武藏國造兄多毛比命、出雲大社の分霊を奉遷せりと傳へ、或は文武天皇 大宝三年 多治比興人三宅麿、之を創祀すと云ふ、
永禄五年三月、上杉謙信 私市(キサイ)城攻撃の際、兵焚に罹り、正能村より根古屋村に遷し奉り、元和四年、騎西領主 大久保加賀守、更に現社地 即ち宮目神社々域に社殿を営み、社領七石を寄附し、後ち寛永四年 又 根古屋村の地二反二畝を寄附し奉る、古来 騎西領中の総鎮守にして、古社なり、
東鑑に「建久五年六月晦日、於武藏國大河戸御厨、久伊豆宮神人喧嘩出來」云々と見えたるは当社なるべし、
明治五年郷社に列し、三十一年十一月、境内社 内宮社 外三社を本社に合祀す、社殿は本殿、幣殿、拝殿其他神樂殿、額殿等あり、境内3629坪(官有地第一種)鬱蒼たる老杉古松、四圍を遮り自ら一境域を為す、新編武蔵風土記一異説を記す、云々、
「又傳記ニ、当社ハ 宣化天皇八代ノ後 胤從五位上 木工頭丹治貞成ノ霊社ナリ、貞成ノ子峯成、私市党ノ始祖ナリ、後略シテ私ノ党ト唱フ、此人ノ弟ヲ貞峯ト云、丹治党ノ始租ナリ、略シテ丹ノ党ト云フ、此二党ノ子孫分レテ武州ニ多シ、其子孫ノ居所多ク此神社ヲ祭レリト、サレバ峯成ノ父貞成ヲ祭レリト云フ、所謂アルニ似タリ。」
当社 境内社に宮目神社を以て 社傳社内とすと雖も、神社覈録 所引の地名記を除くの外、多く之れを非とす、当社寳物に猿田彦及獅子の面あり、共に春日の作と傳へたり。
境内神社 秋葉社 宮目神社 八坂社 瘡守稲荷神社 松尾神社 琴平神社 天神社 神島社 白山神社
埼玉縣 武蔵國 北埼玉郡 埼玉村 大字埼玉
郷社 前玉(サキタマノ)神社
祭神 前玉(サキタマノ)命
本社は 中世 浅間神社 又は 富士権現と称せり、宝暦年間 別当 延命寺 焼失の際、古記古文書 悉く鳥有に帰し、今其の創立年代を詳にする能はず と雖も、
土人の口碑、延喜式内社 前玉神社とし、埼玉郡の総鎮守とせり、武蔵式社考 神社覈録 神祇志料 特選神名牒 大日本地名辞書 其他 學者皆 当社を以て 式の前玉神とす、
或は云ふ、当社は 式内社にあらず、昔富士の行者、死に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日果して雪降る、成田下総守氏長、奇異の思ひをなし塚を作り、更に家人某に命じて、忍城中鎮座の淺間神社を其の塚上に建てたりと、
新編武蔵風土記稿之を弁じて云く、
「社地ノ様、平地ノ田園中ヨリ突出セル塚ニテ、ソコニ小社ヲ建ツ、コレヲ上ノ宮卜云フ、夫ヨリ石階数十級ヲ下リ 又 社アリ、コレヲ下ノ宮ト云フ、其様殊ニ古ク尋常ノモノニハアラズ。上古ノ人ノ墳墓地ナルモ知ルベカラズ、ナレバ当社ノ鎮座モ旧キコトニテ、彼行者ノ霊社ナリト云ハ、尤僻事ニテ取ルベカラザルハ勿論ナリ、」と、
淺間神社に附きて、特選神名牒に一説を記す、即ち 中頃 淺間宮を社内に勧請せるに、其宮いとさかりて、いつとなく本社迄も浅間の号を以て称するに至れりと、淺間神社今は境内社だり、古来埼玉榔の総鎮守として、忍藩其他一般の崇敬する所となり、延宝年間、忍藩中の寄進に係る石島居今尚存し、又其の当時には一町九反余の神領を有したりきと云ふ、
明治六年郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は2972坪(官有地第一種)古杉老柏蔚然として社殿を掩ひ、昼尚暗く、幽谷に入るの思ひあり、近来境地の一部に神苑を設け 一層荘厳の度を増せり、当社に正保天和の棟札を蔵せる由社記に見えたり。境内神社 淺間神社 天神社 御嶽神社 事任神社
【原文参照】
前玉神社(加須市根古屋)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)