國津意加美神社(壱岐市郷ノ浦町本村触)

國津意加美神社(くにつおかみじんじゃ)は 社記に 神代 素盞嗚尊が韓国を巡られて 御帰朝の際 壱岐国 郷ノ浦江上に着岸され 後に宮殿を建て村浦の宗廟と崇敬し奉ってきた妙見宮と申す と伝わり 壱岐嶋に24座ある式内社の一つで 藩政時代には毎年の祭礼に藩主の代参があったほどの由緒ある神社で

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

國津意加美神社(Kunitsuokami shrine

 [通称名(Common name)]

・旧称 妙見宮(みょうけんぐう)

【鎮座地 (Location) 

長崎県壱岐市郷ノ浦町本村触589-2

 [  (Google Map)]

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》素盞嗚尊(すさのをのみこと)

《配》大己貴命(おほなむちのみこと)
   奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
   闇袁加美神(くらおかみのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity)

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

奉献

御大典奉祝記念

国津意加美神社

素盞嗚尊
 高千穂神話や出雲神話で活躍の武の神で 出雲で八岐の大蛇を退治し天叢雲剣を得て天照皇大神に献上した荒神であります

奇稲田姫命
 素盞嗚尊に救けられ妃となられた美しい稲田の守護神であります

大己貴命
 縁結びの神として有名な大国主神のことで 十八の名と姿で恵みを垂れ給う高徳の神様であります

境内末社
八幡神社 金比羅神社
稲荷神社 青島神社

 この神社は古くは遠く延喜五年(皇紀一五六五年)の延喜式神名帳にその名がのり 藩政時代には毎年の祭礼に藩主の代参があったほどの由緒ある神社であり の祖先は千年を越す昔から村の惣廟として敬い親しみ祭祀にいそしんできました
 この祖先の心を受け継ぎ 最も縁の深い氏神として 嬉しいにつけ悲しいにつけ 喜びは永く続き苦しみは疾く除かせ給えと神の加護と恵みを願い祈るものであります
 ここに 聖上陸下の御即位の儀を記念してこの碑を建立し
聖寿の万歳と国家の隆昌並びに世界の平和を祈る者であります

皇紀二千六百五十年
平成二年十一月十二日
宮司 松本真弘
碑文 野口清美
揮毫 山川 幸

現地石碑より

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【由  (History)】

国津意加美(くにつおかみ)神社(旧称妙見宮)

祭 神 素盞嗚尊
配 祀 大己貴命 稲田姫命 闇袁加美神

例祭日 四月十五日、十月十五日

御由緒
当社は旧武生水郷(現・郷ノ浦町)の惣廟である。

『延喜式神名帳』には「壱岐島石田郡國津意加美神社」と記録されており「社記」によれば、神代に素盞嗚尊韓国を巡り給ひて 御帰朝の際 我が壱岐国郷ノ浦江上に着岸ましまして 後茲に宮殿を建つ 是より村浦の宗廟と崇敬し奉りて 妙見宮と申すとある。

当社は古来 御願元と称し 旧藩主格別の崇敬神社にして 国中諸社の首班に置き、定祭には幣使式日には代拝として亀丘城々代を参向せしめ。又松浦藩主壱岐を巡見するに当りては親しく参向し、恭しく礼幣を奉奠せらる故に当社を直参の社とは申すなり。昔 神田神領等存し社殿の造営概ね国守の直営に係り、奉仕の祠官跡特殊の格式及職権を附与せられ、以て維新の際に及べり。仍而神社の設備完備し、国内屈指の社頭となりしは寔に所以ありと謂ふべし従って当時祭祀の荘厳盛大の状に至りては、国中類例を見ざる所なり。「壱岐国神社誌」
延宝四年(一六七六)六月 国内延喜式登録の神社調査により式内小社 國津意加美神社に査定され藩主松浦鎮信は木鏡御正体と石領とを献納した。

明治九年十二月四日 村社に列せられ 大正十四年三月十日 神饌幣帛料供進神社に指定された。

現地案内板より

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【境内社 (Other deities within the precincts)】

〈本殿向かって右側 覆屋に石祠2基

疱瘡神〈向かって右側〉など

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〈本殿向かって左側 覆屋に2社

稲荷神・山神〈向かって左側〉など
・石祠が複数基

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・狛犬

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町指定/有形文化財・彫刻

国津意加美神社狛犬

所在地 壱岐郡郷ノ浦町本村触一三三 国津意加美神社
指 定 昭和五十三年三月十九日

当社の狛犬(玉含獅子・子抱獅子の一対)は、島内なれにみる名品で、旧志原村南触(現郷ノ浦町志原南触)の石工山内利兵衛(やまうちりひょうえ)手になるものである。利兵衛は寛政十二年(一八〇〇)に生まれ、明治十五年(一八八二)十四に八十三歳没している。

 利兵衛作品はほかに、弥佐支刀神社(大原触)の狛犬、華光寺(東触)の十六羅漢、同寺の旧惣門下にあった首塚の宝篋印塔、聖母宮(勝本浦)の神使石像(牛)など多く、いずれも均整のとれた作品を残しており、名工と伝えられている。
 当社の狛犬には、「文久ニ壬戌(一八六二)臘月(十二月)吉辰」の銘があり、利兵衛六十三歳の年の作品で、郷ノ浦の氏子二十六名によって献納されている。

阿形(玉含獅子) 像高七七.〇
吽形(子抱獅子) 像高七六.五

平成元年十一月 郷ノ浦町教育委員会

現地案内板より

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【境外社 (Related shrines outside the precincts)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石田郡 12座(大3座・小9座)
[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 國津意加美神社
[ふ り が な ]くについかみの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kunitsuikami no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

鬼凧(おんだこ)の由来について

郷ノ浦港から 國津意加美神社(壱岐市郷ノ浦町本村触)へ向かう途中

郷ノ浦港に注ぐ永田川に架かると云うよりは 永田川の河口郷ノ浦港〉近くに架かる昭和橋(しょうわばし)には 鬼凧(おんだこ)の由来看板と鬼ヶ島伝説モニュメントがあります

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昭和橋のたもとには 鬼凧(おんだこ)の由来が書かれています

その昔 壱岐は“鬼”がたくさん住んでいて 鬼ヶ島と呼ばれていた
島民に悪さをする鬼を退治に 豊後から壱岐にやって来た百合若大臣が 鬼の大将と戦い 鬼の首を斬りはねると 首は宙を飛んで 百合若大臣の兜にかみついたまま死んでしまった その時の様子が鬼凧(おんだこ)に描かれていると言われています
壱岐では 鬼凧は 家内の安全無病息災の魔除け意味し 玄関床の間など飾られています

昭和橋の中程には 壱岐の伝説百合若大臣の鬼退治モニュメントがあります

鬼ヶ島伝説モニュメント台座説明文

百合若大臣の鬼退治
 昔、壱岐の島は五万の鬼が住む鬼ヶ島で悪毒王と名のる大将が治めていた。鬼は島の人々を苦しめ、その悪行ぶりは都にまで聞こえていた。
 そこで都の百合若大臣という武者が鬼退治のため、壱岐につかわされた。大臣は奮戦の末 鬼どもを退治し、最後は悪毒王との一騎打ちとなったが、大臣は見事に王の首を打ち落とした。
 ところが王の首は空高く舞い上がって消えてしまった。天に首をつなぐ薬を取りに行ったのだ。大臣は王の胴体を岩影に隠して待っていた。やがて首は戻ってきたが行く所がない。そこで大臣の兜に噛みつき必死になって抵抗したが、ついに絶命した。
 こうして鬼どもは退治され、壱岐の島に平和が訪れたという。

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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

郷ノ浦港のフェリー乗り場から 北へ約1km 徒歩でも15分程度

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本町の交差点を右折して 壱岐市役所へ向けて坂道を上がると 右手の丘陵の斜面に 立派な社頭が現れ 大きな社号看板がありすぐにわかります

國津意加美神社(壱岐市郷ノ浦町本村触)に参着

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石段を上がり 一礼をして古い肥前造りの鳥居をくぐります
扁額には 國津意加美神社 と刻されています

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拝殿にすすみます 蟇股には 滝登りの鯉の彫刻急流の滝を登りきる鯉は 登竜門をくぐり 龍になるもあり やはり意加美(おかみの)神〈龍神〉が信仰されている事がわかります

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 幣殿 本殿が 覆い屋に囲われて祀られています
両脇には 境内社が祀られています

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社殿に一礼をして 石工山内利兵衛の作の狛犬が見守る参道石段を戻ります
正面に見えているビルは 壱岐市役所です

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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

武生水(ムシヤウヅ)村に在り 今妙見宮と称す と記しています

【抜粋意訳】

國津意加美神社

國津は 久爾都と訓べし、意加美は假字なり
〇祭神 高龗神歟
〇武生水(ムシヤウヅ)村に在す、今妙見宮と称す

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

祭神として 闇淤加美神を祀ると記しています

【抜粋意訳】

國津意加美(クニツヲカミノ)神社

今 武生水村に在り、一宮巡詣記
蓋 闇淤加美神を祭る、古事記、延喜式

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

祭神として 神(ヲカミノカミ)〈龍神〉を祀ると記しています
〈国の津にある龍神を祀る神社の意〉

【抜粋意訳】

國津意加美神社

祭神
今按〈今考えるに〉
旧説に所祭 闇歟とみえたるを續風土記には祭神 素戔嗚尊 稲田姫命 大己貴命とせしは国津云々とあるによりて 国津神と思ひ遂に此三神とせしならん然れども意加美神とあれば正しく神なるべし

祭日 九月十五日
社格 村社
所在 武生水村 字宮尾山(石田郡武生水村)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承

神代に 素盞嗚尊が韓国を巡り給ひて 御帰朝の際 我が壱岐国郷ノ浦江上に着岸されて 後茲に宮殿を建つ との神話を記しています

【抜粋意訳】

武生水町の部

村社 國津意加美神社(旧号 坂見宮)

鎮座地 武生水町本村触字古若
 神 素盞鳴尊
 祀 大己貴命 稻田姫命
例祭日 10月15日、神幸式、神迎神楽奉奏
境内 975坪

由緒沿革
当社ハ武生水村(今ノ武生水町)ノ宗廟ニシテ 延喜式神明帳所載 石田郡 國津意加美神社是ナリ 壱岐國廿四座ノ一 又同十七社ノ一他。
此ノ社 延宝以前ハ 妙見宮ト称シ奉レリ。
嵯峨天皇 弘仁2年辛卯冬10月朔日 平旦日輪ノ神勅ヲ承テ草創ト伝フ。

社記ニ曰、神代ニ 素盞鳴尊 韓國ヲ巡り給ヒテ御帰朝ノ際 我ガ壱岐国 郷之浦江上ニ着岸マシマシテ 後茲ニ 宮殿ヲ建ツ。是ヨリ 村浦ノ宗廟ト崇敬シ奉リテ妙見宮ト申ス、
口傳ハ縁起ニ存ス。云々。(文政11年神社帳抄録)
又曰、大神悪鬼邪神ヲ減サン爲ニ 我ガ朝残リナク巡リ給ヒ 震旦天竺マデモ渡リ給ヒテ 壱岐國ニ還リ着キ給ヒシ時、郷之浦ノ丘ニ登リ 江上ヲ経テ御幸坂ヲ過ギ 御手洗ノ水ヲ以テ御手ヲ洗ハセ給ヒテ 古ノ社ニ仮ニ御座ヲ定メラレ 其ヨリ今ノ宮地ニ御殿ヲ建テ 御鎮座云々(何レガ眞ナルカ)
文徳天皇 仁壽元年 詔シテ正六位ニ叙シ奉ラセ給ヒシヨリ神階ヲ増シ奉ラル事次ノ如シ。
一、陽成天皇 元慶元年 使 中臣忌部両氏 班幣依大嘗会供奉也
一、同8年 大中臣氏人 参向依所行大嘗会也。
一、朱雀天皇 天慶3年 所奉増一階。
一、白河天皇 永保元年同。
一、崇徳天皇 永治元年同。
一、高倉天皇 治承4年同。
一、後鳥羽天皇 元暦元年 同増位依 平家追討之御祈祷也。

 当社ハ古來 御願元ト称シ 旧藩主格別ノ崇敬神社ニシテ、国中諸社ノ首班ニ置キ定祭ニハ幣使、式日ニハ代拝トシテ亀丘城々代ヲ参向セシメ 松浦藩主壱岐ヲ巡見スルニ当リテハ親シク参向シ恭シク禮幣ヲ奉奠セラル、故ニ当社ヲ直参ノ社トハ申スナリ。昔ハ神田神領等存シ 社殿ノ造営概ネ國守ノ直営ニ係リ 奉仕ノ祠官 特殊ノ格式 職権ヲ附興セラレ 以テ維新ノ際ニ及ベリ、仍テ神社ノ設備ハ往時完整シ國内屈指ノ社頭ナリシハ是ニ所以アリト謂フベシ從テ当時祭祀ノ荘嚴盛大ノ状ニ至リテハ 国中類例ヲ見ザル所ナリ。

 棟札左ノ如シ
只恨ムラクハ 天文年以前ノモノハ的確ノ史料ヲ欠ギ 容易ニ其ノ眞相ヲ極メ難キヲ遺憾トス。
一、隆公在判 天文14年(松浦公ノ一族波多源五郎隆亀丘城ヲ築キ其ノ根拠ヲ構へシヨリ産土神トシテ厚ク崇敬セシモノゝ如シ)
一、隆信公在判 寛永2年
一、鎭信公在判 寛文7年
一、英 公在判 正徳3年
一、誠信公在判 宝暦12年
一、曜 公在判 天保15年
現在ノ社殿是也、正殿ハ平入、流羽風造ニシテ精巧ヲ極メ結構ノ美、彫刻ノ妙頗ル見ルベキモノアリ。(正殿ハ後銅板葺ニ改マル)

木鏡御正躰一面石額一隻
一、鎮信公在判 延宝4年6月朔日
   社領高二石判物 祠官拝受
一、隆信公在判 寛永2年12月28日
一、鎮信公在判 寛永20年正月11日
一、喜 公在判 慶長13年4月吉日
一、任 公在判 元禄9年正月26日
一、篤信公在判 享保7年4月朔日

   右御社判物市拝受
一、隆信公在判 寛永2年12月28日
一、降信公在判 元和3年12月28日
一、鎮信公在判 寛永20年正月11日
一、任 公在判 元緑9年正月26日
一、篇信公在判 享保7年4月朔日

   誠信公献進絵馬一枚 寛延2年9月
一、白銀五枚再建毎度從上
一、祭米四升四合從上
一、五穀成就米三斗從上
一、稻荷祭米三升三合從上
一、大神樂米六斗御祭礼之節從邑中切立御免

鎮信公献納太刀壱口(神宝)
 口碑ニ曰、征鮮役帰陣ノ際、松浦鎭信朝臣奉ル所也ト。

又社記ニ曰
9月15日ノ御祭ノ時、郷ノ浦ニ神幸アリ、昔ハ御船石ノ上ニ神輿ヲ安置シ奉リテ潮水ヲ捧ゲ奉幣ノ後、肥前國呼子ノ鎌田ヨリ掛魚二掛ヲ奉リ還御ノ後、拝殿ニ於テ右ノ掛魚ヲ社家一人下社家一人ニテ庖刀ノ儀式ヲ仕へ、雌雄ノ鰭並ニ比良ヲ神前ニ供へ幣帛ヲ奉リ祝詞ヲ秦ス、残リノ魚ハ酒ノ糟ト塩トヲ以テ膾トシ、土器ニ盛リ参勤ノ祠官以下、其ノ他古來出座ノ輩御幣ヲ頂戴ス。右庖刀ノ時ヨリ膾頂戴退出ノ時マデ呼子鎌田ノ漁夫拝殿ノ入口ニ相詰メ棒ヲ持ツテ参詣人ノ拝殿ニ入ルヲ制スルコト古來ノ式也。共ノ出座ノ人ハ牧山、日高、公交、土谷氏等ナリ。左座ニ牧山、日高、右座ニ祠官、公文、土谷氏等着席ス。中世呼子鎌田ノ人渡良村小崎ノ漁夫ト縁組シタル後ハ献魚ノ事ヲ小崎ノ人ニ托スルニ至レリ、云々。
 以上ノ如キ神秘ノ儀式厳粛ニ執行セラレタル神社ナリ。
 当社ハ武生水町総氏神ニシテ極メテ有カナル氏子ヲ擁スルト共ニ全町民挙ツテ崇敬厚キ神社ナレバ将来当社ノ発展ハ期シテ俟ツベキモノアリ。
一、明治9年12月4日村社ニ列セラル。
一、大正14年3月10日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。

境内末社
八幡神社 祭神 九柱神、六柱神
乙宮神社 祭神 國狭槌命、豊斟渟
稲荷神社 祭神 倉稲魂命 大宮比賣命 猿田彦大神
金比羅神社 祭神 素戔嗚尊

【原文参照】

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

『壱岐国神社誌』国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1035221出版昭和16年(1941)著者 長崎県神職会壱岐支会 編 出版者 長崎県神職会壱岐支会

國津意加美神社(壱岐市郷ノ浦町本村触)に (hai)」(90度のお辞儀)

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壹岐嶋 式内社 24座(大7座・小17座)について に戻る 

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
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