水神社(みずじんじゃ)は 社伝に 御祭神 速秋津日神が 布氣川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています 式内社の水神社(みつの かみのやしろ)とされています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
水神社(Mizu shrine)
[通称名(Common name)]
・〈旧称〉布気天神・天満天神
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市勝本町布気触440-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》速秋津日神(はやあきつひのかみ)
《配》菅贈相国〈菅原道真公〉
※延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉(延宝4年神社改め)以前の祭神は 罔象女命(みずはめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全、海路安全、学業成就、合格祈願、開運招福等
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
水神社 由緒沿革
祭 神 速秋津日神
相 殿 菅贈相國
例祭日 十一月二十五日当社は延喜式第十巻神明帳所載 壱岐島壱岐郡 水神社是也 古来鎮座年数不詳なれども 嵯峨天皇弘仁二年冬十月朔日(千二百年前)
平日一日輪の神勅を受けて語鎮座と伝ふ 是 布気村の産土水神社にして神位を進めらるる事次の如し
一、文徳天皇 仁寿元年正月正六位上に叙し給う(千百四十年前)
一、清和天皇 貞観元年正月神位一階を進め給ふ
一、宇多天皇 寛平元年十二月
一、朱雀天皇 天慶三年正月
一、白河天皇 氷保元年二月
一、崇徳天皇 永治元年七月
一、高倉天皇 治承四年十二月
一、安徳天皇 元暦二年三月
一、土御門天皇 建仁元年二月
一、亀山天皇 弘長元年二月
一、後宇多皇 建治元年七月各一階増し進め給う
一、陽成天皇 元慶元年 中臣忌部両氏を遣し班弊し給う大嘗会供奉に依りてなり(千百十年前)
同天皇八年八月十六日大中臣氏参伺
一、醍醐天皇 延喜五年延喜式内社に定めらる
一、後奈良天皇 大永七年御霊形を再興し奉る
奉願主右京ノ助同七條之末宗久(相殿御霊形也)
一、明正天皇 寛永八年八月御殿造替
上棟文松浦肥前守源朝臣隆信代官日高拾衛門
一、霊元天皇 延宝四年願主鎮信公木鏡御正体及び石額寄進 松浦肥前守源鎮信押子神主、古野権八
一、東山天皇 元録二年石鳥居建立
大宮司.吉野右近藤原末行願主村中敬白
一、宝永元年八月宝殿造替
大宮司吉野右近藤原末信庄屋山田隆左衛門義勝
一、櫻町天皇 元文四年九月宝殿造替
祠官吉野靱負藤原末信庄屋蔦木紋右衛門
一、御桃園天皇 安永七年三月御宝殿造替
祠官吉野右近藤原末久代
一、光格天皇 文化三年御殿造替
願主祠官吉野玄蕃藤原末明
一、孝明天皇 文久三年四月石灯篭一対献納
願主祠官吉野右近藤原末秀代
一、孝明天皇 慶應三年御宝殿廊下拝殿造替
上棟文国主松浦肥前守祠官吉野定衛藤原末■
庄屋白川清兵衛 大工山口寿助
一、明治九年 村社に列せらる
一、明治三十五年 御宝殿御屋根造替
社掌吉野勇太郎 大工大白強治 願主氏子中
一、明治四十三年 神饌幣帛科供進神社に私定せらる
一、大正九年十月 第二石鳥居建立(高さ一丈二尺五寸 横一丈)
願主氏子中 社掌吉野勇太郎
一、昭和四年 御宝殿廊下等造替
願主氏子中並寄附者中、大工■田弥八郎 武田力三郎
同五年社前石灯篭一対建立篤志者中、社掌吉野勇太郎
一、昭和三十四年二月 社務所建立
宮司、吉野六男 大工佐谷野修
一、昭和四十二年 御殿大修繕及び鉄骨廊下建立
宮司吉野六男 大工下條央
右(壱岐国 続風土記に依る)
紹和六十年四月 米寿記念
上場触 下條マツヨ氏寄贈
現地案内板より
【由 緒 (History)】
水神社 由緒
当社は 延喜式第十巻神名帳に壱岐島壱岐郡 水神社と記され 社記に依れば港を支配し給う神 速秋津日命 木落嶋に着船したまい 石に腰をおろし御髪を撫給う その石を髪搔瀬といって今に在り それより川をわたり風早に至りお休みになり 夜いたく更けたちとの給いしにより 当地を布気村と言い 又 布氣川の名在り
即 今を去る千三百年前の第五十二代 嵯峨天皇 弘仁七年朔日この地に鎮まり給う
第六十代 醍醐天皇 健治元年 今より千百年前 延喜式内社に定められ朝廷よりは十二回にわたり神位を授けられ給い 又 平戸藩主 松浦鎮信公は木鏡石額等 延宝四年奉幣せられる
境内社は御崎神社 大山祇神社 金比羅神社 猿田彦神社 在り
社務は代々吉野氏司さどるも壱岐の直 眞根子連より第五十八代
吉野末冬の三男末産 布気吉野家を興してより祠官は次の通りである
吉野末産-末行-末益-末教-末信-末次-末久-末明-末秀-末宔-末辞-末照-勇太郎-六男-昌彦氏子数は百二十戸なりしが今は減少をたどっている
明治以降氏子総代として奉仕された方々の御芳名記録にのこれり
・・・・・
・・・・・平成十五年八月 宝殿大修理を祝して記之 吉野六男
拝殿内の額より
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・猿田彦神社〈庚申社〉
・御崎神社〈岬宮〉・大山祇神社〈山神〉・金比羅神社・稲荷社・若宮社
・石猿
・狛犬と石猿
〈狛犬の基壇と中台との竿石に 肩を抱き寄り添う二匹の石猿が彫られる〉
・銀杏
勝本町指定文化財
水神社銀杏
寛保二年(1742)(約二百五十年前)吉野常陸介秀政の著『壱岐國続風土記』に「水神社境内神木銀杏一株周囲一丈五尺」とあり、昭和五十一年町の調査にゆれば雌株根囲十米目通幹囲六米、樹高二十米壱岐最大県下第二位と記されている。古老の伝えに依れば約千年前壱岐三名木の一つに数えられ空洞になって焼けているのは 昔神事に綱曳きを行った後、この木の側に置いていた綱が不思議にも焼け、かくなったと云う、其の後相撲の神事にかえられたと。
銀杏は落葉樹中国産で大きなものは高さ三十米にもなり古い木には「チチ」と呼ばれる気根が下がる この木も二十数個の乳柱が下がっていたが十年前盗難にあった。惜哉
昭和六十一年十一月二十五日 橋川秀子氏 寄贈現地説明板より
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 水神社
[ふ り が な ](みつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Mitsu no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳(927年12月)』所載 水神社(みつの かみのやしろ)の論社
・水神社(壱岐市勝本町布気触)
・河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)
〈水神社の古社地 ※祭神が共通の為の誤認との説あり〉
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
郷ノ浦からR382号を北上し勝本に向かう 約8.5km 車12分程で 勝本町指定古墳の掛木古墳がある
掛木古墳の少し手前〈南〉を西へ入ると 社頭の大銀杏があり石燈籠が建ちます
社頭には 一の鳥居の肥前鳥居が建ちます
水神社(壱岐市勝本町布気触)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります 扁額には 水神社と刻字
コンクリートの参道を進むと 二の鳥居が建っています
二の鳥居の扁額には 同じく水神社と刻字
狛犬の足下に石猿が二匹彫られています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 一段高い檀があり 本殿が鎮座します
社殿に一礼をして 参道を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
【抜粋意訳】
水(ミツノ)神社
旧事記 国造本記 伊吉島造磐余玉穂朝伐石井従者 新羅海辺人 天津水疑上毛布直造 壱陽略志 以下
略志 布気村にあり
【原文参照】
国立公文書館蔵書『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
今 布氣と呼ばれる地名の伝等を記し
当初は 布気川を上った巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)を建てまつり鎮座したが 海上を通る船が 帆を下ろして神を敬わないと祟りがあったので 海の見えない水本山に遷座したと記しています
【抜粋意訳】
第二十一巻 布氣村 併 湯ノ浦 之部
水神社 在 水元
祭神 速秋津日命
内殿 板葺
正殿 未申向 桁間 梁九尺 茅葺
廊下 方壹間
拝殿 桁三間 梁二間 茅葺若 宮 在境内
庚申祠 在境内
石鳥居 去拝殿三十壹間 元禄二年巳八月建立
竪壹高九尺五寸 横九尺
境 内 竪壹町四間 横三十四間 周囲四町四十間半
馬 場 竪四十間 横三間余当社は 天神と称せしを 延宝四年式社改の節 水本(みずのもと)といふ地名に依て神名帳の水神社なりとす 然しなり以来 官社とは云えり 考えて当国式社の考 地里に違へる社なりと既く先師たちも無いとす
里俗傳云う歟 神村の未申 木落濱に着舩し給ひし 石に御腰をかけられ給ひ 御髪を撫給ひ その石前に出たり その所より風早岡に到まして休み給ひ 此 を髪搔瀬を去ること八十六間 それよりいでまし 小川の渡りにて 夜更たりとの給ひ この時の人 其の所を名付けて ふけ川といふ 是より一村の名となりき 今 布氣と書く
史より巽射辻(たつみいのつじ)といふ所に至りまして 下津岩根に瑞御殿(みずのみあらか)大敷建てまつりましますに 其の風早辻より 更川まで一百七十四間余あり 射辻の影卯松まで一百二十間もあり これより古社の礎まで七間その地東西廿八県南北八間余 其の山東西三十六間 南北二十二間 周囲一百三間余 今に山中に古庵多し
然るに いちはやくして海上の通舩帆を下げ敬せさしは神出示り給 故に今の水本山に辻し奉るとも 神託に吉野氏をして社務たりめむとなり 改 吉埜氏を以て神主として仕へまつりしむ
・・・・・
・・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
水神社
水は 美豆と訓べし 和名鈔
〇祭神 罔象女命歟 考証水分神といふ今は従わず
〇布氣村に在す
土俗 天神と称す類社 伊豆國 田方郡 玉作水神社の條見合すべし
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 水神社の古社地として 半城邑〈現 河原神社(壱岐市郷ノ浦町半城本村触)〉を記しています
【抜粋意訳】
水神社
祭神 彌都波能賣神
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記に祭神 速秋津姫命とあれど 水神の彌都波能賣神にます事 右書明徴あり 但 壱岐島式社書上に所祭 罔象女命とあり祭神 八月廿五日
社格 村社所在
今按〈今考えるに〉
明細帳 長崎縣式内社記には 立石村とあれど 壱岐島式社名徴には 半城邑
又 牛方水上 とあり 式社沿革考にも旧記悉く半城邑 牛形と記るも同村の所名也 とあれば 同邑 大屋の水上二坐は式なる水神社の旧社地にして 同村 宋社 妙見宮に遷座奉る歟 延宝以前 当社を以て式内と称する時は水神社ならんとみえたれば立石村にはあるべからず 又 布氣邑なる天満天神を水神社と云る事は延宝四年 橘三喜の旧藩の命を奉して定めたる由なれ共 略考に神體銘に奉勤再奥天満天神御身體之事干岩大永丁亥八月曰日本願主右京助内宮方主各々等七條末流宗久とある上は布氣村あるも誤れり故今とらず
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
村社 水神社
鎭座地 鯨伏村立石字明神
祭 神 速秋津日神
相 殿 菅贈相国
例祭日 十一月二十五日神幸式、流鏑馬、神楽奉秦
境内地 九百九坪〔由緒沿革〕
当社ハ延喜式第十巻神明帳所載 壱岐島壱岐郡水神社 是也 古来鎮座年数不詳ナレドモ嵯峨天皇弘仁二年冬十月朔日 平旦日輪ノ神勅ヲ承ケテ御鎮座ト伝フ。
是即布気村ノ産土水神社ニシテ紙位ヲ進メラルゝ事次ノ如シ。
一、文徳天皇 仁壽元年正月正六位上ニ叙シ給フ。
一、清和天皇 貞観元年正月神位一階ヲ進メ給フ。一、宇多天皇 寛平元年十二月
一、朱雀天皇 天慶三年正月
一、白河天皇 氷保元年二月
一、崇徳天皇 永治元年七月
一、高倉天皇 治承四年十二月
一、安徳天皇 元暦二年三月
一、土御門天皇 建仁元年二月
一、亀山天皇 弘長元年二月
一、後宇多皇 建治元年七月 各一階増進さる
一、醍醐天皇 延喜五年延喜式内社に定めらる
一、陽成天皇 元慶元年丁酉二十五日 中臣忌部両氏を遣し班弊し給う 大嘗会供奉に依りてなり(千百十年前)
一、同天皇八年甲辰八月十六日大中臣氏参向 大嘗会行はせらるるに因てなり
一、後奈良天皇 大永七年丁亥八月御霊形ヲ再輿シ奉ル、其ノ銘ニ日、奉謹再興天満天神御神体之事、于時大永丁亥8月日本願主右京助、同宮方主各々等七條之末流宗久(相殿神霊形也)
一、明正天皇 寛永八年辛未八月 御殿造替へ其ノ上棟ノ文ニ云フ、謹奉再興水神社宝殿一字之事、皇国万歳太上天皇玉躰安穏帝祚千秋宝延長武運長久子孫繁昌国土安寧領内安全諸人快樂寛永8年辛未8月吉祥日 伏願専祈大檀那松浦肥前守源朝臣隆信
一、霊元天皇 延宝四年丙辰六月朔日 国主鎮信公木鏡御正体及石額寄進シ奉ル、木鏡ノ銘ニ奉謹布気村水神社二十四座ノ内御正躰一面速秋津日命
一、東山天皇 元録二年己巳八月 石鳥居建立
大宮司 吉野右近
願 主 村中敬白
一、宝永元年八月甲申 宝殿造替
祠官 吉野右近藤原末信
庄屋 山田隆左衛門義勝
一、櫻町天皇 元文四年己未歳九月 宝殿造替
祠官 吉野靱負藤原末信
庄屋 蔦木紋右衛門
一、御桃園天皇 安永七年己未歳三月 御宝殿造替
祠官 吉野右近藤原末久代
一、光格天皇 文化三年 御殿造替
祠官 吉野玄蕃藤原末明
一、孝明天皇 文久三年癸亥年四月 石灯篭一対献納
祠官 吉野右近藤原末秀代
一、孝明天皇 慶應三年卯年 御宝殿 廊下 拝殿造替 再建水神社宝殿及拝殿一字之事
国主松浦肥前守
祠官 吉野定衛藤原末
庄屋 白川清兵衛 大工山口寿助
一、明治三十五年 御宝殿御屋根造替
社掌 吉野勇太郎
大工 大白強治
願主 氏子中
一、大正九年十月 社前ニ日独戦捷記念トシテ石鳥居建立(高さ一丈二尺五寸 横一丈)
願主 氏子中
社掌 吉野勇太郎
一、昭和四年 御宝殿 廊下 拝殿造替
願主 氏子中並寄附者中
大工 豊田弥八郎 武田力三郎
一、同五年四月 社前ニ石灯篭一対建立
篤志者中、社掌 吉野勇太郎
一、昭和三十四年二月 社務所建立
宮司、吉野六男 大工佐谷野修
一、昭和四十二年 御殿大修繕及び鉄骨廊下建立
宮司吉野六男 大工下條央
【原文参照】
水神社(壱岐市勝本町布気触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)