津秦天満宮(つはたてんまんぐう)は 筑紫安楽寺天満宮〈太宰府天満宮〉より菅原道眞公の画を勧請したとも 当地の農民が北野天満宮(京都)に参詣時の霊夢により 社殿を建てたとも云う 又 享保年中(1716~1736年)津秦村に石碑を建て 再興された式内社 麻爲比賣神社(まゐひめの かみのやしろ)は 大正7年(1918)に合祀されています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
津秦天満宮(Tsuhata tenmangu)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
和歌山県和歌山市津秦83番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)
《配》天照皇大神(あまてらすすめおほかみ)
麻爲比賣大神(まゐひめのおほかみ)〈知波夜比賣神〉
中言大神(なかごとおほかみ)〈名草彦命 名草姫命〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
津秦天満宮御由緒
当神社は、菅原道真公を主祭神とし、「知恵の神」「学問の神」として崇敬され、「津秦の天神さま」として親しまれている。
延喜元年(九〇一年)菅原道真公が大宰府に向われる途中、和歌吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった津和田村の「千早の杜」(現当社地)をたずねられ、御子 好寛公を神前の郷、中務家に預けられ、
「ふりかえりかえり行くかも別れにし
千早の杜の見ゆるかぎりは」
と名残りを惜しまれた遺跡である。
紀伊続風土記によれば、筑紫の安楽寺より菅原道真公の画像を勧請したとも、また当地の天神を敬神していた農民が京都の北野天満宮に参詣した時の霊夢により、社殿を建てたとも伝えられている。その後、御神体が一時、行方不明になっていたが、寛永年間(一六二七年)御神体を社殿に納め奉斎の盛儀を挙げて現在に至っている。
境内の御祭神
・麻為比賣社
延喜式神名帳に記載されているが、詳細は不明である。
享保年中(一七二五年)命により石碑を建てた。(現当地より南百メートルの社地に)その後、大正七年(一九一八年)に津秦天満宮に合祀され石碑も現在地に移し祭祀されている。
・中言社
本殿に合祀、当地方の産土神としての守護神
(名草彦命、名草姫命)
・野槌社(牛神さん)
農耕の神、「クサ」できものを治してくれる神
瓦製の牛は全国的に有名
・弁財天社
芸術の神、芸ごとの神、七福神
・稲荷社
厄除、家内安全、五穀豊穣の神
・恵比須社
津秦の里を守る 七恵比須神を祭祀
商売繁昌、家内安全の守護神
・行者神変大菩薩 不動明王 八代龍王の堂
大峯不動尊の分身、津秦の里の崇敬者が持ちまわり
奉祀していたが 昭和五十二年当社境内に祭祀
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
由緒
麻爲比賣神社(知波夜姫命)津秦村にあり、「千早の杜」という。
『延喜式神名帳』「麻爲比賣神社」、『本國神名帳』「従四位上摩爲比賣神」、享保年中、命あって石を建て、麻爲此賣神享保甲辰の9字を刻む。
この石碑は、現在の天満宮の南、100mの所にあったものを大正7(1918)年に津秦天満宮へ合祀、石碑も現在地へ移転。当神社は、菅原道真公を主祭神としている。
学問、文芸に、一際、秀れ朝延の信頼も厚かった道真公は、醍醐天皇の昌泰4(901)年1月25日左遷の詔により2月1日太宰府に向われる途中、和歌吹上の浦に船をつけられ、当時、入海であった津和田村の「千早の杜」をたずねられ、(現、津秦天満宮の境内地)「わがたよる千早の宮のます鏡くもらぬすがたうつしてぞゆく」「ふりかえりかへり行くかも別れにし、千早の杜の見ゆるかぎりは」と御子、好寛公とのつきぬ名残りを惜まれ、御子を隣村の神前の里、中務家に預けられた。
現在、和歌山市神前588番地には中務家の当時をしのぶ広い屋敷があり、門、土塀は、そのままで、屋根瓦には、梅の紋があり、塚山もある。
『紀伊續風土記』では、筑紫安楽寺より、菅原道真公の画像を勧請したともいわれ、また当地の道真公を敬信していた農民が、京都北野天満宮に参詣した時の霊夢によって、社殿を建てたとも伝えられている。
その後、御神体が一時、行方不明となったが、社頭の梅の木に、かかっているのを見つけ、寛文年間(1672)に、御神体を社殿に納められ、奉斉の盛儀を挙げ、現在の天満宮にいたる。
尚、道真公は、仁門天皇、承和12(845)年6月25日に、京都、菅原院天満宮で誕生する。
(社叢)境内573坪、樹令1,000年をほこる樟の木が、そびえ、千年祭記念の石碑がある。
梅、桜、さつき、つつじ、しょうぶ、さざんかと、四季折々の花々が咲き参詣者の心をなごませている。(初天神)1月25日(梅花祭)2月25日 合格祈願、学力向上祈願等をする 甘酒接待をする
(茅の輪くぐり(知恵の輪くぐり)大祓式)7月25日 湯立神楽を奉納し、無病息災を祈願する 鼓笛演奏、民踊、太極拳演舞等を奉納する 若いお母さん達の夜店で賑う
(津秦七恵比須社祭)1月9・10・11日 吉兆を授与する
和歌山県神社庁HPより
https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=1054
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿と一体となった本殿の覆屋〉
茅の輪(ちのわ)
・麻為比賣神社〈石碑〉
この石碑は 現在の天満宮の南 100mの所にあったものを大正7年(1918)に津秦天満宮へ合祀 石碑も現在地へ移転
・稲荷社
・野槌神社(牛神さん)
・弁財天社
・行者神変大菩薩 大日堂不動明王 八代龍王 の堂
御祭神
行者神変大菩薩
御真言 おんぎやくぎやくえんのううばそくあらんきやそわか
大日聖不動明王
御真言 のうまくさんまんだァばァざらだんせんだァまァかろしやだァそわたやうんたらたァかんまん
八代龍王
御真言 のうまくさあまんだァばァぼだなんめえきやァさにえいそわか
今から百五十年前(安政二年)より津秦地区の百姓は神仰心厚く大和の大峰山へ参拝して御分身を勧請して以来年毎に各家庭持ち回りにてお祭りして居りましたのを昭和五十二年九月、津秦農業委員会各位に依り此の所に御殿を造営し九月二十八日より祭祀するにいたりました
現地立札より
・恵比須社
・狛犬・鳥居・神門
・社頭
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)南海道 163座…大29(うち預月次新嘗10・さらにこのうち預相嘗4)・小134[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)紀伊国 31座(大13座・小18座)[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)名草郡 19座(大9座・小10座)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 麻爲比賣神社
[ふ り が な ](まゐひめの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Maihime no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 紀伊国 名草郡 麻爲比賣神社(まゐひめ かみのやしろ)の論社
『續風土記式社考』には この社今廢せり〈廃絶した〉が 享保年中(1716~1736年)國主より命を受けて 宮郷津秦村の田中に 石を建て麻爲此賣神享保甲辰の9字を刻み 本社の址と定めた
この石碑は 現在の天満宮の南 100mの所にあったものを大正7年(1918)に津秦天満宮へ合祀 石碑も現在地へ移転
別説としては 廃絶の前に 日前國懸神宮の末社 菟佐神社であるとの説あり
・廃絶
・〈式内社 麻為比賣神社について『和歌山縣誌』に日前・国懸神宮 末社 菟佐神社に合祀と記載〉日前神宮・國懸神宮(和歌山市)
・津秦天満宮 に合祀(和歌山市津秦)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
わかやま電鉄貴志川線 日前宮駅から線路沿いに南下して 約600m 徒歩8分程度
和歌山電鉄 貴志川線の踏切を越えると南向きに社殿・境内があります
玉垣には 由緒書き があります
ちょうど夏祭り前の時でした
津秦天満宮(和歌山市津秦)に参着
神門の前に鳥居が建ち 一礼をして 鳥居と神門をくぐり抜けます
神門をくぐり抜けると茅の輪があり 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿は 拝殿と本殿の覆い屋が一体となったものです
向かって右手には 麻為比賣神社の石碑
向かって左手には 稲荷社をはじめ境内社が祀られています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 麻爲比賣神社について 所在は゛津秦村に在す、今 千早社と稱す゛〈現 津秦天満宮(和歌山市津秦)に合祀の麻爲比賣神社〉と記しています
【抜粋意訳】
麻爲比賣神社
麻為比賣は 假字也
〇祭神明か也
〇津秦村に在す、今 千早社と稱す、〔名称志、神社録、〕
神位
本国神名帳、従四位上 麻為比賣神
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 麻爲比賣神社について 廃絶した と記しています
【抜粋意訳】
麻爲比賣(マヰヒメノ)神社
今廢、〔紀伊續風土記、紀伊式社考、〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 麻爲比賣神社について (日前國懸神宮の末社なり)とも 廃絶した とも記しています
【抜粋意訳】
麻爲比賣神社
祭神
祭日
社格 (日前國懸神宮の末社なり)所在
今按 續風土記式社考に この社今廢せり 宮郷津秦村の田中にあり 享保年中 國主より石を建て 麻爲比賣神 享保甲辰九字をきざみて本社の址とさだめたりと云り されど續風土記 此義疑はし 按に舊此地は有家郷の内なりしを 近世 津秦領となれり 國造家正平に十年檢田取帳に知和夜二段知和夜姫敷地 また康永二年段別帳に有家郷千和屋免許 また有家郷知和屋森とみえたる地にて 此社は知和夜姫神なる事明らかなり 麻爲比賣社 廃絶して所在詳ならさるより 漫に或神をさして麻爲比賣とせしなるへし
〔知和夜姫神詳ならず 延喜式 備後國 三谿郡 知和夜比古神社 三次郡 知和夜比賣神社 舊事記 国造本紀以 天火明命五世孫 知波夜命定賜國造 又X天神本紀 乳速日命 廣湍神 麻續祖とあり〕されど麻爲比賣神他に求むへきなけれは姑之を記して疑を存すと云り附て後考に備ふ
【原文参照】