気多御子神社(けたみこじんじゃ)は 従前は「神明宮」と称していて 相殿には「白山宮」が祀られていました 明治以降に『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載の論社として「気多御子神社」と改称しました そして現在に至っています 草かり亀の民話を持つ神社です
目次
- 1 1.ご紹介(Introduction)
- 2 この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
- 3 【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
- 4 正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について
- 4.1 「氣多神(ケタノカミ)」の本宮「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
- 4.2 ①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
- 4.3 ➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
- 4.4 ➂「越後國 頸城郡 居多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
- 4.5 ④「但馬國 氣多郡 氣多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
- 4.6 ➄「飛騨国 気多若宮神」『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条
- 5 神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
- 6 神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
- 7 加賀国 式内社 42座(並小)について に戻る
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
気多御子神社(Ketamiko Shrine)
(けたみこじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
石川県小松市額見町サ58
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命 (Onamuchi no mikoto)(気多大神)
菊理媛神(Kukuri hime nokami)(白山大神)
天照皇大御神(Amaterasu sume oo mikami)(神明大神)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(Engishiki jimmeicho)』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
・創建年代不詳
気多御子神社 由来碑
本社の御祭神は 往昔 越の国の御経営に従事された大己貴命(気多大神)を主祭神とし、さらに菊理媛神(白山大神)、天照皇大神(神明大神)を加えた三柱である。
本社は従前「神明宮」と称せられ、上古より気多の神奈備に鎮座され、歴代の天皇が厚く御崇敬なされ 平安時代初期文徳天皇の頃仁寿元年に正六位を叙せられた。
その後 数度の御昇叙を経て 延喜の制国幣小社(延喜式内社)に列せられた。
長保、寛弘の頃は 花山天皇の御崇敬が特に厚く 本社神護寺を祈願所と定められ鎮護国家の道場として佛生寺と御命名せられた。
正治元年(鎌倉初期)以後380年間中院家が この地の領主として神宝、幣帛を奉納し、社殿を修理し 瑞垣を造り 以後 社頭は常に盛大であり、明応9年(室町時代)後土御門天皇より御神階最高の正一位を賜った。
しかし その後 戦国の世となり 一向一揆等の兵火や大火により 神社の神宝、古文書等の多くが散逸した。
以後、加賀藩主 前田利家公 始め累代藩主の御崇敬が厚く 三代 利常公には社殿の再建、神領の寄進等特別の保護を受け、社守には 加賀藩士 滝川玄蕃左門氏およびその子孫が御奉仕されていた。
明治12年には気多御子神社と改め大正14年 郷社に昇格。
境内末社の菅原社は平安中期の延長年間の創建と伝えられ勧学の神として 往昔より崇敬されている。
尚、当地は額田の郷と称されていたが 永正・永禄(室町中期)の頃 額田の庄と改められその後 何時しか額見と称せられた。
又 集落も神社北東側の串境まであり150戸余りの大集落であったが 安政4年(江戸末期)の大火で村民は離散し15戸程度となり、その後一世紀余の間に文化、経済共に発展し恵まれた住みよい環境で新しい町として繁栄の途をたどっている。 宮司 藤峰雅行境内由緒石碑より
【由 緒 (History)】
由緒
延喜の制 国幣小社に列せられ、額見の神明宮とも称せられた。
後土御門天皇明応9年正一位を授けらる。
天正11年 加賀藩 前田利家 社殿を修理し、神田を奉献。
明治12年 現社名に改称。大正14年郷社に列せられ、同時に神饌幣帛料供進神社に指定。また花山法皇御立寄所とも伝えられている。石川県神社庁公式HPより
https://www.ishikawa-jinjacho.or.jp/shrine/j0466/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
天満宮(菅原社)は平安中期の創建と伝
・菅原神社《主》菅原道真公
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)加賀国 42座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)江沼郡 11座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 氣多御子神社
[ふ り が な ](けたみこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Ketamiko no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
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正史『六国史』や『延喜式神名帳』に記される「氣多神」を祀る神社について
氣多神(ケタノカミ)と その御子神〈苗裔神(ビョウエイシン)〉 や 分祠とされる神社が 日本海の沿岸や河川流域に鎮座します
「氣多神(ケタノカミ)」の本宮「能登國 羽咋郡 気多神社 名神大」
・能登生国玉比古神社〈気多本宮〉(七尾市)羽咋の氣多大社の元宮
・気多大社(羽咋市)能登国一之宮
①「加賀國 江沼郡 氣多御子神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多御子神社(小松市)
・市之瀬神社(加賀市山代温泉)〈合祀先〉
市之瀬神社(旧村社)に合併されている神明宮に祀られていたという御子社(山代日子命)が氣多御子神社だという説
➁「越中國 射水郡 氣多神社 名神大」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・氣多神社(高岡市)越中国一之宮
➂「越後國 頸城郡 居多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・居多神社(上越市)越後国一之宮
④「但馬國 氣多郡 氣多神社」『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
・気多神社(豊岡市)但馬国総社
➄「飛騨国 気多若宮神」『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)』延喜元年(901年)成立 に所載 貞観15年8月4日条
・気多若宮神社(飛騨市)国史見在社
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
粟津駅から 県道107号経由 約2.2km 車5分程度
社号標「式内 気多御子神社」とあり 社殿から真っ直ぐに伸びる参道は 北西を向いています
気多御子神社(Ketamiko Shrine)に参着
白い小石の敷かれた参道が 鎮守の杜の中へと真っ直ぐに続いていて 社頭には 大きめの石灯篭と老木が生えて 石鳥居があり よく整備された神社との感を抱きながら 一礼をして 鳥居をくぐります
参道の右手に 境内社の菅原社と手水舎があります
害参道を更に進むと 二の鳥居が建ち その先に三の鳥居が見えます 境内は「草かり亀」の伝承の通り ほとんど草らしい草は無く きれいに整備されています
御祭神の大己貴命(気多大神)は 大国主命の別名とされますので 大黒さまにあやかって 米俵の石像が奉納されています
参道の先に 玉垣に囲まれた 一段高い神域があり 三の鳥居が建ち 石段を上がりながら 一礼をしてくぐり抜けます
境内は 更にもう一段高くなり ガラス張りの覆い屋の中に社殿が建っています
御鏡の石像があり 説明板には
御鏡
古来より鏡はその万物を映ずる神秘感から極めて深い宗教的な意味をもって扱われた。
神社本庁の本宗である伊勢神宮の御神体「八咫鏡」に代表される様に古代祭祀における御霊代として用いられ、さらには神体として崇められている。
当神社の神鏡は「天日方奇日方命」と鋳造されていて 「天日方奇日方命」を大己貴命の奇御魂としていると伝わります
天日方奇日方命は 大己貴命の御子とされています
注連縄柱の先に建つ 拝殿にすすみます
拝殿は 雪除けのガラスの覆屋で囲まれていて サッシのドアに賽銭口が付いていて 扉は開きませんので ガラス越しに扁額が見えて「気多御子神社 従四位 菅原利鬯敬書」とあります
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿 幣殿の奥に本殿は 更にもう一段高い社地に建っています
玉を抱えた狛犬 躍動感のある神馬と奉納されている石像が沢山あります
北西に向かう参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)』〈元慶3年(879年)完成〉に記される伝承
神階の奉授が記されています
【意訳】
天安元年(857)9月乙未朔 壬寅 の条
在 加賀国(カガノクニ)
正6位上 治田 若御子神(ミコノカミ)に授く 従5位下(当作 氣多を治田と誤る)
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
石川県羽咋に 氣多大社 があると記されています 所在の特定はありません
【意訳】
氣多御子(ケタミコノ)神社
〇能登国 羽咋郡 氣多神社あり
文徳天皇実録 天安元年(857)9月乙未朔 壬寅 の条・・従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用
『神社覈録(Jinja Kakuroku)』〈明治3年(1870年)〉に記される伝承
神名と神位で 所在などは記されていません
【意訳】
氣多御子神社
氣多御子は 計太乃美古(ケタノミコ)と訓ずべし
〇祭神 明らかなり
神位 文徳天皇実録 天安元年(857)9月乙未朔 壬寅 の条・・従5位下
雑事 朝野群載云う 永暦4年6月10日 秦 亀卜 御體 御卜 中略 坐に加賀国 氣多御子神 云々 社司等依過 穢神事 祟給い 遣使科 中祓可令に 祓清め奉仕の事 下略 宮主 正6位上 行少祐 卜部宿祢兼宗 中臣 従6位下 行大祐 大中臣 朝臣惟維
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015『神社覈録』1 『神社覈録』2
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)』〈明治9年(1876)完成〉に記される内容
神名と神位のみで 所在などは記されていません
【意訳】
氣多御子神社
神位 文徳天皇実録 天安元年(857)9月乙未朔 壬寅 の条・・従5位下
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155『特選神名牒』1 『特選神名牒』2
加賀の民話「草かり亀」について
社伝に「江戸時代(1615~1868)社守には 加賀藩士 滝川玄蕃左門氏およびその子孫が御奉仕されていた」とあります
延宝年間(1673~1681年)瀧川家の4代目 社守 六兵衛が 淵に入り禊をしていた 淵に棲む大亀が襲いきた これを捕えて殺そうとすると この時 大亀は 末代に至るまで 境内の草を取って生ぜしめないと誓約した 故に放免した これより 境内には一草も生じなくなったと伝
まんが日本昔ばなし〜データベース〜より
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=859草かり亀 くさかりがめ
あらすじ
石川県の額見と言うところに、六兵衛と言うおじいさんが住んでいた。昔は腕の良い樵として方々に知れていた剛の者だったが、今は御宮の草刈りを仕事にして暮らしていた。
その頃、御宮の裏にある大池の主のカメが、近付く者を沼に引きずり込むと言うので、村人に恐れられていた。
ある日の事。六兵衛がいつものように草刈りをしていると、見慣れない子供が一人ひょっこりと姿を現わし、六兵衛に「俺の背中に乗れ。沼に行って遊ぼう」としきりに誘うのだった。六兵衛はその子供の様子があまりにも怪しいので「きっとこ奴は沼の大ガメが化けているのだろう」と思い、騙された振りをして子供の背に飛び乗った。
すると子供はその小さな体に似合わぬ怪力で六兵衛を担ぎあげ、物凄い早さで沼に潜り込もうとした。六兵衛は必死に子供を押さえつけ、子供は必死に六兵衛を沼に引き込もうとする。暫く力比べが続いた後、とうとう六兵衛の怪力が勝って、子供を岸に投げ飛ばした。
六兵衛が怒りの形相で「お前を半殺しにしてやるぞ」と脅しつけると、子供は見るみる内に大ガメの正体を現わし「命だけは助けてくれ。俺があんたの代わりに御宮さんの草むしりをするから」と涙ながらに命乞いをした。六兵衛はその様子を見て大ガメが哀れになり、大ガメを沼に戻してやった。
それから暫くして、六兵衛は亡くなった。そして六兵衛が亡くなった後、不思議な事にあの御宮の境内には一本も草が生えなくなった。それはあの沼の主の大ガメが六兵衛との約束を護って、夜になると御宮の草を一本一本むしっては食べているからだ、と人々は噂した。
人々はその御宮さんの事を「六兵衛神社」と名付け、六兵衛を偲んだと言う事だ。
(投稿者: 熊猫堂 投稿日時 2013-9-22 15:23 )
境内にある奉納された 亀の石像の写真です「大亀五龍」とあります
気多御子神社(Ketamiko Shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)