鶴見神社(つるみじんじゃ)は 社伝によれば 創建は 第33代 推古天皇の御代〈593~628年〉と伝えられます 古くは゛杉山大明神゛と称されましたが 大正9年(1920)゛鶴見神社゛と改称しています 延喜式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社でもあります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
鶴見神社(Tsurumi shrine)
【通称名(Common name)】
〈旧称〉杉山大明神(すぎやまだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
神奈川県横浜市鶴見区鶴見中央1-14-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈二社相殿〉
〈杉山大明神〉
《主》五十猛命(いたけるのみこと)
〈天王宮〉
《主》素戔嗚尊(すさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
鶴見神社は、往古は杉山大明神と称し境内地約五千坪を有していました。
その創建は、推古天皇の御代(約一四〇〇年前)と伝えられています。大正九年に鶴見神社と改称しました。
『続日本後紀』承和五年(八三八)二月の項に、「武蔵国都筑郡の杉山神社が霊験をもって官弊に之を預からしむ」とあり、この有力神社として江戸時代の国学者黒川春村は、鶴見神社に伝わる田遊びに関する『杉山明神神寿歌釈』を著しています。
昭和三十七年、境内より弥生式後期から古墳時代の土師器を中心として鎌倉期に及ぶ多数の祭祀遺物(祭りに使用された道具)が発見され、推古朝以前より神聖な場所として、すでに祭祀が行われていたことともに、横浜・川崎間最古の社であることが立証されました。
鶴見神社公式HPより
https://tsurumijinja.jp/history/
【由 緒 (History)】
鶴見神社
当社は天保の始め国学者黒川春村の編である「杉山神社神賀歌考証」に詳述しているが、延喜式内社である事は有力である。
その創建は推古天皇の御代に当り剣を以て神体としている。昌泰年間(八九八~九〇〇)社殿の造営あり、(天台宗西照寺が別当であった。元来当神社の主神は五十猛命であるが、その父神である素盞鳴命を配し合祀したので、これより牛頭天王と奉称した。
元亀之年兵乱の為社殿災上し古文書類多く烏有に帰した。宝暦三年(一七五三)正月十六日黒川四郎左衛門新殿を造営、その後嘉永六年六月七日佐久間権蔵社殿を改築、明治三年四月牛頭天王は八坂大神に、杉山大明神は杉山明神と改称し、同六年十二月村社に列せられた。同三十三年一月十一日焼失、大正四年十一月九日御大典記念として社殿を再建、遷宮式を執行した。同八年七月十一日神供幣烏料供進社に指定され、同九年二月十日鶴見神社と改称された。神社庁指定神社。『神奈川県神社誌』より抜粋
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・狛犬〈溶岩の上に座す〉
・富士浅間社
《主》木花咲耶姫命
〈本殿裏 境内の奥にある富士塚の頂に鎮座〉
浅間社 富士山の祭神
木花開邪媛命を祀る。昔、現JR線路の上に三千五百坪の山(古墳)があり、鉄道開通にあたり山が接収され現在の場所に遷座した。
現地案内板より
・大鳥社
《主》日本武命
《合》伊弉諾命,伊弉冊命,菅原道真,応神天皇,天照皇大神宮,猿田彦命,安徳天皇,大己貴命,事代主命,大山祇命,聖徳皇太子,天鈿女命,稲田姫命,手那槌,足那槌,保食命,豊受姫命
〈毎年11月酉の日 大鳥祭が催行 熊手市が立つ〉
・稲荷社〈中町稲荷、上町稲荷、三家稲荷の3社〉
《主》保食命
〈2月午の日 初午祭が催行〉
・秋葉社
・関神社
《主》金山彦命
・祖霊社
・清明宮
清明宮鎮座の由来
清明宮は昭和四十五年十一月二十五日に
市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫・森田必勝
両大人命をお祀りして、
四十年祭にあたる平成二十二年十一月二十五日に建立されました。若かりし頃の三島氏は鶴見区内にあった
バー「仔馬」の常連で、
経営者の大塚孝治氏と大変懇意にしており、
大塚氏のご子息の名付け親になったのも
三島氏だったそうで、
鶴見とは浅からぬ縁がありました。このような縁で、
三島・森田両烈士の三十年祭(平成二年)から
三島森田事務所主催による慰霊祭を毎年、
鶴見神社で斎行しております。その後、有志によって
三島・森田両烈士をお祀りする社が建立されました。現地案内板より
・寺尾稲荷道
横浜市地域有形民俗文化財
寺尾稲荷道道標
平成十八年十一月一日登録
所有者 宗教法人 鶴見神社
時 代 文政十一年(一八二八)寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和三十年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の鳥居前の土留め作業を行った際、道標が埋没しているのが発見されました。
正面には「馬上安全 寺尾稲荷道」
右側面には「是より廿五丁」
左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛永三庚午十月再建 文政十一戊子四月再建之」とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。
寺尾稲荷は、寺尾城址の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。
平成十九年三月 横浜市教育委員会
現地掲示板より
・寿老人
・宝物殿
・東側の鳥居
・社頭の鳥居と社号標
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
゛枌山(スキヤマノ)神社゛or゛杦山(スキヤマノ)名神゛として
承和五年(八三八)官社に預かった事 承和十五年(八四八)神階の奉授 が記されています
【抜粋意訳】
巻第七 承和五年(八三八)二月庚戌〈廿二〉の条
○庚戌
武藏國 都筑(ツツキノ)郡 枌山(スキヤマノ)神社 預らむ之を官幣に以てなり靈驗あるを也巻十八 承和十五年(八四八・嘉祥元年)五月庚辰〈廿二〉の条
〇庚辰
上幸冷泉院に避く暑を 是の日 地震せり 奉授に 武藏國 无位 杦山名神に從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)武蔵国 44座(大2座・小42座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)都筑郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 杉山神社
[ふ り が な ](すきやまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sukiyama no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 武蔵国 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)の論社について
式内社 杉山神社〈武蔵国 都筑郡 唯一の式内社〉の所在については 諸説がありますが いずれも確証はなく 未だに比定はされていません
しかも その論社の数は非常に多く〈杉山神社(杉山社 椙山神社)と号する神社は 都筑郡(横浜市北部)と周辺に70社程〉存在しました
現在でも旧跡も含めて40社以上あり この中から 式内社 杉山神社の有力な論社を挙げます
式内社 武蔵國 都筑郡 杉山神社(すきやまの かみのやしろ)
・杉山神社(横浜市緑区西八朔町)
・大棚・中川 杉山神社(横浜市都筑区中川)
・杉山神社(横浜市港北区新吉田町)
・杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央)
・戸部杉山神社(横浜市西区中央)
・星川杉山神社(横浜市保土ケ谷区星川)
・杉山神社(横浜市港北区新羽町)
・勝田杉山神社(横浜市都筑区勝田町)
・鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)
・川島 杉山神社(横浜市保土ケ谷区川島町)
その他の主な〈杉山神社(杉山社・椙山神社)について
〈都筑郡(横浜市北部)と周辺〉
杉山神社 (鶴見区岸谷)《主》日本武尊
杉山神社 (神奈川区片倉)《主》大物主命
杉山大神 (神奈川区六角橋)
杉山社(神奈川区菅田町)《主》五十猛命
杉山社(神奈川区菅田町)《主》五十猛命
杉山神社 (南区南太田) - 横濱水天宮《主》日本武尊,《配》天照皇大神,大物主神,崇徳天皇,豊受比売神,菅原道真《合》大山咋神,木花咲耶姫命,天照皇大神,稲倉魂命,宇気母智命
杉山神社 (南区宮元町)《主》市杵島姫命,《配》木花開耶姫命《合》天照皇大神,宇賀御魂命
杉山神社 (保土ケ谷区和田)《主》日本武尊
杉山社 (保土ケ谷区仏向町)《主》五十猛命
杉山社 (保土ケ谷区上星川)《主》日本武尊
杉山社 (保土ケ谷区西久保町)《主》五十猛命
杉山神社 (保土ケ谷区坂本町)
杉山神社 (港北区岸根町)《主》五十猛命,大山祇命
杉山神社 (港北区新羽町)《主》大己貴命
杉山神社 (港北区樽町四丁目)《主》日本武尊《合》素盞嗚命
杉山神社 (緑区中山町)《主》五十猛命
杉山神社 (緑区青砥町)《主》五十猛命,《配》日本武尊,応神天皇,大日霊貴命,面足尊
杉山神社 (緑区鴨居)《主》日本武尊《合》天照大神
杉山神社 (緑区三保町)《主》日本武尊
杉山神社 (緑区寺山町)《主》五十猛命
千草台杉山神社 (青葉区千草台)《主》五十猛命《合》素盞嗚命,大日霊命,豊受姫命,大己貴命,保食神
市ヶ尾杉山神社 (青葉区市ケ尾町)《主》五十猛命
みたけ台杉山神社 (青葉区みたけ台)《主》五十猛命,《配》誉田別命
上恩田杉山神社 (青葉区あかね台)《主》日本武尊
鐵神社 (青葉区鉄町) - 旧社名:青木明神・杉山明神合社
杉山神社 (都筑区大熊町)《主》日本武尊《合》天御中主命,伊弉諾命,伊弉冉命,面足命,稲田姫命,天照皇大神
杉山神社 (都筑区佐江戸町)《主》五十猛命
杉山神社 (都筑区池辺町)《主》五十猛命
〈神奈川県(横浜市以外)〉
杉山大神 (川崎市幸区小倉)
杉山神社 (川崎市高津区末長) 《主》五十猛命
杉山社 (川崎市多摩区西生田)《主》日本武尊
杉山神社(三浦郡葉山町上山口)《主》大物主命,豊佐賀男命,伊邪冉命,早玉命,向津日売命
〈東京都〉
江島杉山神社 (墨田区千歳) - 江戸時代の杉山検校(杉山和一)を祀る
杉山神社 (稲城市平尾)《主》日本武尊,《配》弟橘姫命《合》須佐之男命,猿田彦命
椙山神社 (町田市三輪町)
杉山神社 (町田市成瀬)《主》日本武尊,《配》天照大神,熊野大神
杉山神社 (町田市金森)《主》日本武尊
杉山神社 (町田市金森)《主》日本武尊
杉山神社 (町田市つくし野)
杉山神社 (町田市能ヶ谷) - つくし野出張社務所《主》日本武尊,事代主命,大山咋命
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR京浜東北線 鶴見駅東口から線路沿いに北上 約250m 徒歩3分程度
社頭には鳥居と社号標゛鶴見神社゛が建ちます
鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)に参着
丁度 六月の参拝でしたので 茅ノ輪が社殿の前に設けられています
拝殿にすすみます
洋館の上に 狛犬が座します
御神紋は゛有職鶴(ゆうそくづる)゛と呼ぶらしい
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって右手には 境内社が並らんで祀られています
拝殿の奥 本殿は溶岩の上に祀られています
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 杉山神社について 小六天神(古呂玖宮 ころくみや)〈現 港区赤坂の氷川神社の旧鎮座地(古呂故が岡 ころこがおか)or氷川神社の境内社 四合稲荷に合祀された古呂故天神社境内に鎮座していた呂故稲荷(ころこいなり)〉ではないかと記しています
その他に゛小机庄の内 小机村にあり杉山明神゛゛吉田村゛とも記しています
【抜粋意訳】
都築郡一座 杉山(スギヤマ)神社
續日本後記
承和五年二月庚戌、武蔵國 都筑郡 杉山神社 預之官幣以霊験也、同十五年五月庚辰、奉授 武蔵國 無位 杉山名神 從五位下゛春村云 古呂玖天神をここに つけたるは 小六と称ちかき故るいみなり 強ことなり 杦山とす橘樹郡宿見村にあり 往古は此地 都築郡ならん為へしこの神社の参あらひに杦の字の事なり附考巻一にたはしく出つしみるべし゛
惣風
荏原郡赤坂庄 小六天神 或 古呂故 圭田三十五束三毛田 天武天皇三年甲戌十一月始行神札有神戸巫戸所祭 大己貴命 少彦名韓神也 号小六者以古呂故 岡名之故也地考
古呂玖宮 江府赤坂にあり氷川明神と称す
〇或いは曰 都築郡の内 小机庄の内 小机村にあり杉山明神と称す
〇或いは曰 吉田村にあり
〇信友云 對馬嶋上縣郡 胡禄神社 又 胡禄御子神社あり 古呂玖宮と同神也
又云 枌(スギ)は杉の古書の例之 能登國鳳至郡 神枌神社あり
【原文参照】
『新編武蔵風土記稿(Shimpen Musashi fudokiko)』文政13年(1830)完成 に記される伝承
鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)について 鶴見村にある゛杉山明神 牛頭天王 相殿゛と記し とくに 式内社 杉山神社との関係性については述べていません
【抜粋意訳】
新編武蔵風土記稿 巻之六十六 橘樹郡巻之九 小机領 鶴見村
杉山明神
牛頭天王 相殿海道より50間程引いりて右の方にあり 此村の鎮守なり
此 杉山神社は勧請の年暦も傳へざれど 昔より此社にて 毎年正月十六日の夕方 百姓等がうたひをどる明神の田祭うたと云ものあり 殊に古風なるものにて関東の守護 三島大明神といへることあり 是らにても 北条の頃の物たることしるべし その餘には證とすべきこともなし 例祭年毎に杉山の明神は正月十六日 天王は六月七日より十四日迄なり 石鳥居を前に立 又木の鳥居もたてり末社浅間祠
本社に向ひて左の方に山あり 黒ほくといふ 石を以て積上たる小山なり 其上に祠たてり 拝殿9尺四方本社1間四方にて東向なり
稲荷小祠
是は向て右にあり
別当最勝寺
社に向て鳥居の外左の傍にあり 瑠璃山医王院と号す 天台宗にて同郡駒林村金蔵寺の末なり 開基開山詳ならずされど 慶長十年の起立なりと云傳ふ 本尊は不動の立像長二尺許り 客殿は六間に四間半也
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 杉山神社の所在について「分明ならず」として いくつかの説を挙げています
吉田村字杉山〈現 杉山神社(新吉田町)〉
小机郷小机村〈現 ?〉
茅ケ崎村〈現 茅ケ崎杉山神社(都筑区茅ケ崎中央)〉
【抜粋意訳】
杉山神社
杉山は須岐夜萬と訓べし
〇祭神 五十猛命、地名記
○在所分明ならず、
地名記云、吉田村字杉山、
式社考云、小机郷小机村、
参考云、茅ケ崎村、孰れかしらず、神位 官社
續日本後紀、承和五年二月庚戌、武蔵國 都筑郡 枌山神社 預之官幣以霊験也、同十五年五月庚辰、奉授 武蔵國 無位 杉山名神 從五位下
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 杉山神社の所在について 八朔村 六宮椙山大明神〈現 杉山神社(横浜市緑区西八朔町)〉sと記しています
【抜粋意訳】
都築(ツヅキノ)郡一座 杉山(スギヤマノ)神社
〇按 本書一本、及 續日本後紀、杉を枌に作る、蓋二字互いに通用ふ、
今 八朔村にあり、六宮椙山大明神と云ふ、神道集、松屋外集、
仁明天皇 承和五年二月庚戌、此の神 霊験あるを以て、官幣に預らしめ、十五年五月庚辰、無位より從五位下を授く、續日本後紀
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 杉山神社の所在について 論社が多く いずれも明証がなく選ぶことができない と記し 様々な諸説を挙げています
・橘樹郡下星川村字大明神前
・橘樹郡鶴見郡
・都築郡茅ケ崎村字宮谷山
・吉田村字杉山
・大棚村字宮脇山
・西八朔村字宮山
・谷本
・佐江戸
・小机庄
【抜粋意訳】
都築郡一座 杉山神社
祭神
神位
仁明天皇 承和五年二月庚戌 武蔵國 都筑郡 枌山神社 預之官幣以霊験也、同十五年五月庚辰、奉授 武蔵國 無位 杉山名神 從五位下社格
所在
今按 杉山神社と称ふる社 所々にありて何れか實跡ならん詳かならす
橘樹郡下星川村字大明神前と云に社ありて祭神 日木武尊なりと云ひ
又 同郡鶴見郡にも同名同神の社あり
都築郡茅ケ崎村字宮谷山に 高皇産霊神と天日和志命由布津主命を祭れる神社是なりと云ひ
吉田村字杉山には 祭神 五十猛命と云もを實跡とし
大棚村字宮脇山に 日本武尊を祭る社なりとも
西八朔村字宮山に鎮座の神なりとも云り
然るに 猿渡容盛云 父盛章の考に西八朔村に極樂寺と云る真言佛寺の境内にいと幽(カスカ)にて坐す社 かの茅ケ崎吉田などの社よりも中々に故あるべく覚ゆ
其は都筑郡村々には 大かた杉山大神を崇め祭られぬ里なく
市が尾 谷本(タニモト)西八朔(ハツサク)青砥 佐江戸 池邊 吉田 勝田 大棚 茅が崎 上星川 川島 恩田 久保 中山など云村々何れも此社あり なほ此外 橘樹郡久良郡のうちにもあまた所ありて すべて二十五六ヶ所に及ぶと云り容盛郡都筑郡中をあまねく尋ね索めつれど此を實跡と定むべき證もなし 茅ケ崎と吉田とは外より聊故づきて覚ゆれど證とすべき事なし 此二つにつぎては 谷本 佐江戸にます社も同じ程にて故ありけなれどすべて無微にして決しがだし西八朔村なるは未だ誰一人實跡と云る人もなけれど 余が考には中々に茅ケ崎 吉田などの社には勝りて故あるべく覚ゆと云れど 是亦明証あらねば如何に共しがたし
姑く附て後考を俟つ 武蔵演路には杉山神社 小机庄にあり 土俗杉山明神と云 茅ケ崎村とあり
【原文参照】
『杉山神社を考える ―過去三〇年の研究実績の紹介― 小股昭』より抜粋
公益財団法人 大倉精神文化研究所〈平成三十一年(二〇一九)三月二十八日発行〉
〈(三)坂本彰「鶴見川下流の低地遺跡—鶴見神社境内遺跡の出土遺物—」に記される内容
本論考は、横浜市鶴見区の鶴見神社に収蔵されている考古遺物から鶴見神社境内遺跡の考古学的な調査報告を行ったものである。
鶴見神社は以前は「杉山大明神」と称されていたが、大正九年 (一九二〇)に火災に遇い、再建時に「鶴見神社」へと改称された。そして、境内の参集殿の位置には、かつて小高い丘があり、そこに源頼経手植と伝わる欅の古木がそびえていたが、昭和三七年 (ー九六二 )に枯死したため伐採した。その際、多数の遺物が出土し、これを宮司が整理保管していたものを再整理し、今回報告したとのことである。また、境内は平成二〇年 (二〇〇八)度に発掘調査が行われ、弥生時代から古墳時代の貝層が発見されている。
遺物は貝類、土器 (縄文〜中・近世)などが出土し、土器は弥生時代終末期から古墳時代前期のものが多く、古墳時代後期の須恵器の高杯完形品や埴輪片もある。
これらの出土遺物と発掘調査の結果から、この遺跡は弥生時代後期後半から古墳時代前期の集落址(低地遺跡)と考えられ、古墳時代後期の須恵器と埴輪片と発掘調査時に見つかった溝から、以前境内にあった小高い丘は古墳 (古墳時代後期)であることが明確になった。また江戸時代の絵図に描かれた境内には、二つの塚が認められ、古墳があったことの裏付けとしている。そして「本遺跡が鶴見川河口部に位置することから、付近に東京湾から鶴見川水上交通の出入口としての機能 (港)があったことも充分想定される。」としている。
鶴見神社の位置する場所は、標高約四 mからー・七 mの低地で、かつ鶴見川の河口であり、海に面した立地である。この低地に弥生時代後期後半から集落が営まれ、古墳時代後期には古墳が築造されたことと、そこに杉山神社が鎮座していることは、何らかの関係性があるのではないだろうか。一の(三)で紹介した「杉山神社のなぞ」の記述にある、「東京湾を経由して内陸へと導く河川交通がそうした地域的まとまりをつくりだした」という河川交通の推論を補完する神社と遺跡であると考えられるのではないだろうか。
鶴見神社 境内 貝塚について
横浜市指定
鶴見神社境内貝塚
所有者 宗教法人 鶴見神社
所在地 横浜市鶴見区中央一~十四~一
時 代 弥生時代末期~古墳時代前期この貝塚は、横浜市北部を流れ東京湾に注ぐ鶴見川の河口近くの沖積低地に位置します。平成二十年二月の発掘調査で、本殿前の東西約五~八m、南北約十mの範囲に、厚さ七十~八十cmの貝層が良好な状態で遺存することが確認されました。また、周辺からは、貝塚と関連が想定される古墳時代前期の竪穴住居跡も発見されています。この貝層を構成する貝種は、二枚貝ではカガミガイ・ハマグリ・巻貝ではイボキサゴが主体であり、八種類以上の鹹水(かえすい)産貝種からなっています。
一般に貝塚は、縄文時代のものが多く知られていますが、この時期のものが良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です。
平成二十一年三月 横浜市教育委員会現地掲示板より
神輿の伝説について
神輿の伝説
今より三百年程の昔、鶴見川の川上より 壹基の神輿が天王河岸(現在の潮見橋付近)に流れつき、鶴見村の百姓が長柄の鎌で、神輿を引き上げ当社に納めたと伝えられる
また、鶴見川の上流、川崎市小倉に同一の言い伝えあり。それは、小倉の当時の鎮守 天王社(現在、八幡神社に合祀)の祭礼の折、村人が鶴見川で神興を洗う時、神興が 流れだし村中総出でひきとめたがそのまゝ鶴見村の方へ流れ去ったと伝えられる。
以来、小倉では鶴見神社の祭礼には、かげ祭りを行なうと、古老の言い伝えがある。
昭和四十一年八月 鶴見神社 宮司 金子勢次識
現地掲示板より
「鶴見の田祭り」について
横浜市地域無形民俗文化財
鶴見の田祭り
平成二十九年十一月二日 登録
行事 の 日 四月二十九日(毎年)
行事の場所 横浜市鵡見区鶴見中央一丁日十四番一号(鶴見神社内)
保 存 団 体 鶴見田祭り保存会田祭りは、年のはじめに稲作の過程を模擬的に演じ、その年の豊作を祈願する予祝(よしゅく)行事です。鶴見の田祭りは、毎年四月二十九日に鶴見神社(旧杉山大明神)境内で、「神寿歌(かみほぎうた)」に合わせて、鍬入れから苗代の田打ち、種まき、烏追い、代掻き、苗取り、田植え、稲刈りまでの一連の農作業と豊年の祝いを、作大将以下十二人の演者や牛役の男児、早乙女役の女児達によって演じられています。『新編武蔵風土記稿』に「毎年正月16日の夕方、百姓たちが歌いおどる明神の田祭りうたというものがある」と書かれています。この「田祭りうた」が「神寿歌(かみほぎうた)」のことで、鎌倉時代からこの地に受け継がれてきました。
明治以降途絶えていましたが、昭和六十二年に、再興され、現在は「鶴見の田祭り」として、地域に根付いています。
平成三十年三月 横浜市教育委員会
現地掲示板より
鶴見神社〈杉山大明神〉(横浜市鶴見区鶴見中央)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)