石體神社(しゃくたいじんじゃ)は 遠く神代の頃 天津日高彦穂穂出見尊が 築かれた都「高千穂宮」の正殿跡と伝わります 皇后の豊玉比売命のお産の故事にあやかり 古くから安産の神として 篤い信仰があります 飛鳥時代 和同元年(708)に この地から遷座したのが 現在の鹿児島神宮と云われていて その元宮であるとされます
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
石體神社(shakutai shrine)
(しゃくたいじんじゃ)
[旧名称(Old name)]
神代の「高千穂宮(takachiho no miya)」跡と伝わります
【鎮座地 (location) 】
鹿児島県霧島市隼人町内2496-1
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天津日高彦穂穂出見尊(amatsu hiko hohodemi no mikoto)(山幸彦)
豊玉比売命(toyotamahime no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
・安産祈願 Healthy childbirth
戌の日には 石體神社にて安産祈願祭が行われます
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社(大社)の旧鎮座地
・ 大隅国一之宮(osumi no kuni ichinomiya)の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
安産守護 鹿児島神宮 摂社 石體神社
由緒
当石体神社の位置は 御祭神 天津日高彦穂穂出見尊、豊玉比売命が都として高千穂宮を経営された正殿の在った所で、そのまゝ社殿として祀ったもので 鹿児島神宮の起りでもあります。
和同元年(708)現在の鹿児島神宮の位置に遷り、その跡に社殿を造ったのが石体神社であります。
御妃は御子 鸕鶿葺不合尊を 鵜の羽根で葺く産床の茸き終えないちにお産みになった程 それ程お産の軽かった方で その御神名よりして伺えます。
現在 本殿の前の石塔に小石が沢山ありますが、御神体の代りに その一つを頂いて お産後は一つ加えてお返しする慣習があります。
岩田帯はこの石体(いわた)神社より出た言葉といふ説があります。境内案内板より
【由 緒 (history)】
御創建は遠く神代の頃、御祭神 彦火火出見命が高千穂宮を営んでいたところと伝えられる旧社殿地。
石體神社にある記念碑には 平安時代期の頃、社殿に火を放たれたとの伝えがあるので、その後 再興されたものと伝えられる。
石體神社は 古くより安産成就の神として信仰厚く、境内に積まれた丸石をお守りとして持ち帰ると安産にご利益があると伝わっています。
公式HPより
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大隅国 5座(大1座・小4座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)桑原郡 1座(大)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社名 ] 鹿児島神社(大)
[ふ り が な ](かこしまの かみのやしろ)(だい)
[How to read ](kakoshima no kamino yashiro)(dai)
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
大隅正八幡の「正」の字とは
伝承では かつて 国分八幡宮(石體神社)と宇佐八幡宮との間に どちらが正統な八幡かを巡って争いが起きました 宇佐八幡宮の使者による焼き討ちにあった伝承も残っています
欽明天皇五年(544年)八幡神の垂跡は この地と伝えていて 現在でも正八幡宮・国分正八幡・大隅正八幡等とも称し 全国正八幡の本宮でもあります
大隅国の式内社〈5座〉について
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
鹿児島神宮(kagoshima jingu)から 山すそを川上から流れてくる灌漑用水路を北へ400m 徒歩約5分
用水路に掛かる宮坂橋を渡ると
すぐ左側に「卑弥呼神社」が鎮座しています
真っすぐ正面には 石體神社が鎮座します
石體神社(shakutai shrine)に到着
朱色の鳥居が建ち 一礼してくぐり抜けます
杉の木立の間に延びる緩やかな石段を上がります
参道には 多くの奇岩があり 磐座の中を歩む感じです
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
神籬石の参道を戻り 鳥をくぐり振り返り一礼します
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『橘三喜(tachibana mitsuyoshi)諸国一宮巡詣記抜粋(shokoku ichinomiya jumpaikibassui)』に記される伝承
絵図には
「大隅一の宮 桑原郡鹿児嶋社図 イ二 彦火々出見尊 神主 正宮 田所源永賢」と記されていて鳥居の下参道には「石体宮」とあります
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブ『橘三喜 諸国一宮巡詣記抜粋 乾』(1675年~1697年)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039344&ID=M2014090119552785625&TYPE=&NO=画像利用
『三国名勝図会(sangoku meisho zue)』天保14年(1843)に記される伝承
江戸時代の絵図と由緒などが記されています
穂穂出見尊の宮であると伝え さらに欽明天皇五年(544年)八幡神の垂跡は この地と伝えていて
宇佐八幡との「八幡神」本家争いも伝えています
宇佐の神主等が 当宮を正八幡と云うのを信じないので 三人の使者を使わして 是を火かけた所 石体の中から 正八幡の文字が現れ 三人の使者は大いに恐れて逃げ帰ったが 全てが死んだとあります
石體(シャクタイ)宮
鹿児嶋神社の東北径直三町計にして、鬱蒼たる林樹の中に崇奉す、
この石體は、即、出見尊の初都し給ひし宮址にて、此所に神廟を建、石の御神體を安置し奉らる、
是、鹿児島神社の原処なり、今の地に遷宮ありて、神石は猶(なお)菖(しょう)ごとくここに留め祀れるなり、
土人の説に、此神躰の石は「こんいくさい」より生出たるを以て、人力の能く動すところにあらず、因て本の宮床に斎ひ奉り 欽明天皇五年、八幡垂跡ありしも此處なりと云へり、むかし豊前州 宇佐の宮の神官等、この八幡の事を信ぜず、
三使を遣わして これを焼かしむ、いずれの歳をつまびらかにせず、4月3日来りてこれを焼く、石體たちまち決裂して、中に正八幡の文字あらわれたり、三使大きに恐怖して逃げ帰る、一人は立ちどころに死して、一人は途中に死し、一人は宇佐に至りて死す、皆 神罰を蒙れり、・・・・・・
【原文参照】(https://dl.ndl.go.jp/)国立国会図書館デジタルコレクションサイト『三国名勝図会』天保14年(1843)五代秀尭, 橋口兼柄 共編 (山本盛秀, 1905)
神代に天津日高彦穂穂出見尊が 都とされていた「高千穂宮」の正殿跡と伝わる由緒ある
石體神社(shakutai shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)