若宮八幡社(わかみやはちまんしゃ)は 鎭座年代は 文徳天皇の御代(850~858年)延喜年中に再興と云う もとは那古野庄今市場〔今の三の丸の南の地〕に有ったが 慶長十五年(1610)此處に遷坐と伝わります 一説に延喜式内社 尾張國 愛智郡 孫若御子神社(名神大)(ひこ わかみこの かみのやしろ)の本社とする説があります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
若宮八幡社(Wakayama hachiman sha)
【通称名(Common name)】
若宮(わかみや)
【鎮座地 (Location) 】
愛知県名古屋市中区栄3-35-30
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》仁徳天皇(にんとくてんのう)
《配》應神天皇(おうじんてんのう)
武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『尾張志』2〔明31年(1897)〕に記される内容
延喜式神名帳に愛智郡 孫若御子ノ神社 名神大とある その本宮であるのではないかとする説を載せています
【抜粋意訳】
若宮八幡ノ社
末廣町の東側にあり 此社もとは 那古野庄今市場〔今三の丸天王ノ社の南〕といふ地に有しを 慶長十五年 御遷府の時 此處に遷坐し奉れり
祭神は 三座にて 中坐 仁德天皇を本主とし 左は應神天皇 右は武内宿禰也と社説にいへり又 文徳天皇の御代に鎭座ありて 後 延喜年中に再興し給ひ 供僧坊宇すへて十二宇を建添させ給へり 那古野庄内の鎭守の社にて 此宮寺を安養寺と呼り
大永年中 今川左馬介氏豊 那古野に城を築て 柳の丸と号け 住ひ給たりしを
海東郡〔社記に中島郡とかれるはあやまり也〕勝幡ノ城主 織田弾正忠信秀 不意に此城をおそひとらるるとき 今市場を放火したりしよは 神社僧坊悉燒亡しらるを 天文八年再興有ける 後に大閤秀吉公より社領二百石を寄附し給へるよしなとも社記にいへりさて 此社を今は若宮八幡と稱すれと 往古は ただ若宮とのみ呼來れりとそ 天野信景が本國神名帳集説に 若宮ノ社は 延喜十一年三月勅建〔此處に かくいへるは供僧十二院の事にて 神社鎭坐の事にはあらし 此下の文に盖 往古ノ鎭坐 而 延喜帝加に再復者乎といひ 社説にも文武天皇の御代の鎭坐也といへれはなり〕
當時 有に供僧十二院 舊は無に八幡ノ號とへるは 其 本拠さだかならねども 其頃までは 慥に若宮とのみ稱し來りて 八幡といふ稱は 其近さ年頃〔宝永四年以前〕より いひそめつといふことの著(イチジルシク)明博はれりしなるへし 又 同書に引用したる龜尾山再興記の文に 蓬來興之地威神垂に鎭座 金龜閴然とぞ愛に靈尾 龜尾山の號 由れる此れに〔按 熱由ノ神宮寺號に龜頭山 龜尾は對 此之稱云々〕
また曰 安養寺〔若宮宮寺〕本尊は 熱田八劔ノ御作 即座下に敷に靈劔云々 按に此等之説 則 當社は熱田に所摂祠なる歟 安養寺の舊書 以に當社 序に天王ノ祠の上に盖 往古の鎭座 而 延喜帝加に再復者歟 其 若宮の號 近しに孫若御子(ヒコワカミコ)に〔熱田孫若御子名神 俗稱に彦若宮 式内ノ神社也〕といへりさて この孫若御子ノ神と申は 今 熱田ノ大宮鎭皇門内 南面に三社ならひ居給ふ中の一社にて 社號も上古のままに傳はりて 正しき其神には ましませとも
もしくは 此 若宮ノ社 其本處にもあらむとおほしきよしを 附録して しばらく後の識者の考へをまつ事 左のごとしそもそも 延喜式神名帳に愛智郡 孫若御子ノ神社 名神大と見え 尾張國神名帳に愛智郡 從三位上 孫若御子ノ天神〔こは貞治本に據り 神位は文治二年三月の宣命に加階増進せられたるにて 今に至れる也 明応本 是に同じ 元龜本に正四位下とある 古代のままなる寫本になりてうけるなるべし されば總て 貞治本なるより 諸社悉神位卑し皆准へて知へし 又 一位二位などに上の字を添えたるは 書寫の者のみだりとざるなるへし〕とある 則 此神にて 孫若御子といふ社号は 熟田大神〔日本武尊〕の御孫歟 もしくは曾孫ならむも知へからず 既に神祇寶典に譽田天皇の御靈也 此天皇者 日本武尊の孫也故號 而曰に 孫若御子神也とかかせ給へるは 古意にかなへる御説とこそおほゆれ
神名帳頭註に 尾張國 年魚市郡 孫若御子は 日本武ノ第七男 稚武彦ノ王也と記し 又 熱田の社説には 瓊々杵ノ尊 應神天皇 稚武彦ノ王 三座を祭るとも吾勝尊と配享して四座なりともいふは 皆中世已後のさたなるべし〔延喜式に一座とあれはなり〕
さて此 頭注 及 熱田社説に 稚武彦王といへる御名は 孝靈天皇の御子なる稚武彦(ワカタケヒコ)命と申に混したる名なり
是は 古事記に 若建ノ王(ワカタレノキミ)とあるぞ 正しき其文にいはく 此 倭建ノ命(ヤマトケルノミコト)娶(メトリマシテ)伊玖米(イクメ)ノ天皇之女(ムスメ)布多遅能伊理毘賣(フタヂノイリビメノ)命 生御子(ウミマセルミコ)帶中津日子(タラシナカツヒコ)ノ命 一柱 又 娶(メトル)に其 入海(イリベシウミ)に弟橘比賣(オトタチバナヒメノ)命 生御子(ウミマセルミコ)若建ノ王(ワカタケノミコ)一柱 とあるをもて知へし
書紀には 初 日本武尊 娶に両道(フタジノ)入姫皇女 爲妃と生に稲依別ノ王(イナヨリワケノキミ)次に足仲彦(タラシナカツヒコ)天皇 次に布忍(ヌノシノ)入姫命 次に稚武王とあるにてしるへし
此 若建王は 書紀によれば 御母は両道入ノ皇女 にて 仲哀天皇の御弟にましまし 古事記によれば 御母は弟橘姫命にましまして 御腹いつれも尊く坐す皇后たちのうませ給へる御子にしませは 熱田大神の御子神の列に殊に いはひ奉(マツレ)るはさるへき ゆゑある事なるへし 孫若(ヒコワカ)としも稱(タタエ)奉れるは 彼寶典にかかせ給へることく聞ゆる也
さて今の熱田なる孫若御子ノ社といふは もとは遙拜所なりしが遂に本據と成たまへるか 又 うつして祭奉れる御社にもやあらむさ云ゆゑは 先上古は 大中小社と三等の差別 及 境域四至町数の格式なともいと嚴重なりし おもふきは寶龜二年二月十三日の大政官符に大社は四至限に九町といひ 三間ノ檜皮葺正殿ー宇〔髙一丈二尺有に板敷戸一本〕鰹魚木(カツヲギ)〔長五尺径九寸〕千木四支〔長一丈三尺〕と記し 瑞垣 珠垣 内外ノ鳥居 幣殿 拜殿 舞殿 直會殿 板倉 盛屋 左右廊馬屋 等まて載て各間数寸尺をさへ記せること甚詳なり はかり嚴重なる名神大社の〔名神大社とは かの延喜ノ神名式に名神大と記し この太政官符に大社云々とあるをいふ〕
熱田本宮の境内に今の如き小社にましますへくもおほます しかれども 此若宮社は既に 延喜の頃より 宮寺僧坊あまた置れ佛家の掌れる御社となれるによりて いつしか古社號を失ひはて、若宮とのみ申て 遂に孫若御子といふ名の残らぬを さすがに熱田は大社にて 元來かの社に属たる攝社にますが 故に移して祭れる社なからも 正しく舊社號の傳はれるやあらん
あなかしこ 授此 若宮の社は 寬永二年乙丑九月二日瑞韻院君はしえて御参詣ありしより以後 萬治元年十二月廿六日 寬文五年正月晦日 御社参ありて 御太刀馬代御備銀なと奉献し給ひ 他社にことなる御氏神と深く敬ひたふとませ給へりし まにまに継々殿の御代々々をせしめ姫君の御方さへ御社参なとありて幣帛(ミテグラ)献り給へるも上にいへる尊き古社の御神德のおのつから然らしむる故ならんと思ふも尊くかしこくなむ
【原文参照】
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創建は 太宝年間文武天皇の御宇に、那古野今市場の地に勧請されたと伝えられています。
大永年中、今川左馬助源氏豊が修復を加え、享禄5年那古野合戦の時、社殿悉く兵火に罹り焼失しましたが、織田信秀が天文8年再建、その後 豊臣秀吉は社領200石を寄進し、天正12年5月社殿の再修を致しました。降って 徳川家康が 慶長15年名古屋城築城のさい、現在地に奉遷し 名古屋(那古野)総鎮守と尊称されました。
特に徳川藩二代藩主 徳川光友卿は、当八幡社に対する信仰が厚く、その事跡は特筆されるものがあります。
光友卿は尾張藩祖徳川義直の嫡男として生まれ、父義直の厳正なる教育の下に武人本来の精神である武事はもとより、敬神崇祖の念深く信仰心に敦厚な御方であり、当八幡社に対する信仰は他に異なるものがありました。
これは、徳川氏の先祖は源氏であり源氏の氏神は八幡宮であることと、当八幡社は 名古屋総鎮守として 古来の信仰があり、また光友卿の出生地が氏子区域であるとの里伝に起因していることと思われます。
史料によると、寛永2年7月、徳川光友 始めて当社を拝し、万治元年12月には城中より装束を渡殿へ整えて社参し、御太刀、馬代を献じられた。また寛文4年には神殿をはじめその他の造営を行い、祭礼を興隆せしめたとあります。その後は代々尾張藩主の崇敬厚く、元禄2年正月神領百石が寄進され、以後 営繕は藩主の寄進により行なわれました。
明治10年3月県社に昇格、昭和20年3月、戦災に罹り、社殿等悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の熱意によって昭和32年5月現在の社殿が造営復興され盛大な御遷座祭が齋行されました。
一般には若宮まつりと呼ばれている例祭は 名古屋の三大祭の一つとして有名で三百年の歴史があり、16日の本祭には神輿と山車が那古野神社をお旅所としてご神幸が盛大に執り行なわれております。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿・拝殿
・拝殿前の狛犬
・若宮龍神社《主》白蛇神
・若宮恵美須神社《主》事代主命
・連理稲荷神社奥宮《主》宇加之御魂命
・連理稲荷神社《主》宇迦之御魂命
〈境内社5社 合殿〉
・熊野社《主》速玉之男神
・日吉社《主》大山咋命
・香良洲社《主》稚日女命,少彦名命
・天神社《主》菅原道眞公
・秋葉社《主》火之迦具土神
・神御衣神社《主》素戔男命,淡島大神
・産宮住吉社《主》住吉明神
・若宮の杜迎賓館・授与所
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式・風土記など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ
記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
熱田の御子神 三前が並んで 名神を授っています
【抜粋意訳】
承和二年(八三五)十二月壬午〈十二〉
○壬午
尾張國
日割御子(ひさきのみこの)神
孫若御子(ひこわかみこの)神
高座結御子(たかくらむすひのみこの)神
惣て 三前を奉て預れむ名神に 並に 熱田ノ大神の御兒神(みこのかみ)也(なり)
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻3「臨時祭」中の「名神祭(Meijin sai)」の条 285座
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
延喜式巻第3は『臨時祭』〈・遷宮・天皇の即位や行幸・国家的危機の時などに実施される祭祀〉です
その中で『名神祭(Meijin sai)』の条には 国家的事変が起こり またはその発生が予想される際に その解決を祈願するための臨時の国家祭祀「285座」が記されています
名神祭における幣物は 名神一座に対して 量目が定められています
【抜粋意訳】
巻3神祇 臨時祭 名神祭二百八十五座
園神社一座 韓神社二座〈已上坐宮内省〉
・・・
・・・
・・・
・・・大神「神」社一座〈或大作多、〉 真墨田神社一座 大県神社一座 熱田神社一座 日割御子神社一座 孫若御子神社一座 高座結御子神社一座〈已上尾張国〉
・・・
座別に
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5尺
綿(ワタ)1屯
絲(イト)1絇
五色の薄絁(ウスアシギヌ)〈絹織物〉各1尺
木綿(ユウ)2兩
麻(オ)5兩嚢(フクロ)料の薦(コモ)20枚若有り(幣物を包むための薦)
大祷(ダイトウ)者〈祈願の内容が重大である場合〉加えるに
絁(アシギヌ)〈絹織物〉5丈5尺
絲(イト)1絇を 布1端に代える
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)尾張國 121座(大8座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)愛智郡 17座(大4座・小13座)
[名神大 大 小] 式内名神大社
[旧 神社 名称 ] 孫若御子神社(名神大)
[ふ り が な ](ひこわかみこの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hiko wakamiko no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 尾張國 愛智郡 孫若御子神社(名神大)(ひこ わかみこの かみのやしろ)の論社
〈熱田神宮の境内摂社〉孫若御子神社を遙拜所であろうとし 若宮八幡宮(名古屋市中区栄)は ゛元は若宮とのみ唱へて 八幡宮と唱ふるは後の事 さらば本社はと璋ぬる゛との説もあります
・孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮)
〈熱田神宮の境内摂社〉
・若宮八幡宮(名古屋市中区栄)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
地下鉄 伏見駅から 南へ名古屋市科学館を抜けて約1000m 徒歩15分程度
若宮八幡社(名古屋市中区栄)に参着
若宮の杜迎賓館に授与所があり その横に手水舎があります
清水と刻字されている手水鉢に水か溢れています
清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奉献酒として 葡萄酒の樽 が奉納されていました
境内社にお参りをして 境内を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 孫若御子神社 名神大について 所在は゛熱田宮西南に在す、゛〈現 孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮 熱田神宮境内)〉と記しています
祭神については゛祭神 稚武彦王、゛と記しています
【抜粋意訳】
孫若御子神社 名神大
孫若は此古和賀と訓べし、御子は前に同じ、
〇祭神 稚武彦王、〔頭注府志〕
〇熱田宮西南に在す、〔府志〕
〇式三、〔臨時祭〕名神祭二百八十五座、〔中略〕尾張國 孫若御子神社一座、
○頭注云、日本武第七男 稚武彦王也、母 弟橘媛、穂積氏忍山宿禰女、
張州府志云、三座或四座祀に瓊々杵尊、〔或配に享吾勝尊〕、応神天皇、稚武彦王、古者殿宇尤備、一旦荒廃之後爲に小祠、此社本 稚武彦王一座歟、」
神祇寶典曰、誉田天皇之御霊也、此天皇者 日本武尊之孫也、故號而曰に孫若御子神也、
神位
國内神名帳云、從三位孫若御子明神、名神
續日本後紀、承和二年十二月壬午、尾張國 孫若御子神、預に名神、熱田大神御兒神也、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 孫若御子神社 名神大について 所在は 移転前の゛今鎭皇門内にあり、彦若宮といふ、゛〈現 孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮 熱田神宮境内)〉と記しています
祭神については゛熱田大神の御子神也゛と記しています
【抜粋意訳】
孫若御子(ヒコワカミコノ)神社
今鎭皇門内にあり、彦若宮といふ、〔神名帳考証、式社考・張州府志、尾張式社確定記、〕
熱田大神の御子神也、
仁明天皇 承和二年十二月壬午、名神に預り、〔續日本後紀〕
醍醐天皇 延喜の制、名神大社に列る、〔延喜式〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 孫若御子神社 名神大について 所在は ゛熱田大宮境内゛〈現 孫若御子神社(名古屋市熱田区神宮 熱田神宮境内)〉と記し 祭神については゛稚武彦王(ワカタケヒコノキミ)゛と記しています
しかし 所在については ゛末廣町と唱ふる町の若宮八幡宮 是 孫若御子神社ならむかと 天野信荒考へ置たる當れる説゛〈現 若宮八幡宮(名古屋市中区栄)〉
これが正しいのではないだろうか と問題提起をしています
【抜粋意訳】
孫若御子(ヒコワカミコノ)神社 名神大
〇稱 彦若宮
祭神 稚武彦王(ワカタケヒコノキミ)
名神 仁明天皇 承和二年十二月壬午 尾張國 孫若御子神 預に名神 熱田大神御兒神也
祭日 二月上未日 十一月上辰日
社格 熱田摂社所在 熱田大宮境内
今按 式社考に名神大の社の熱田大宮の境内に如此 烏居も拜殿もなく小祠にてますべきにあらず 此は決めて遙拜所ならむと思はるゝ也
さらば本社はと璋ぬるに 名古屋もと松原町いま末廣町と唱ふる町の若宮八幡宮 是 孫若御子神社ならむかと 天野信荒考へ置たる當れる説と思はるるなり 元は若宮とのみ唱へて 八幡宮と唱ふるは後の事なりとぞ 熱田のも孫若御子をひこわか宮と唱へ來れば ひこを省きて名古屋のも若富とのみ唱へ來れろなるべし その上 熱田にゆかり有しこと 近世まで彼此と聞えたれば 熱田の攝社なりつらむと思はるれど 既に行幸の節も畏くも御奉幣も濟つれば 他社を軽々しく定むべきにあらずと云るは 朝庭を憚りて正しく云はざるなれど 如何にも此説に從てよく考へ正すべきことなり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇愛知縣 尾張國 名古屋市中區末廣町
縣社 若宮(ワカミヤ)八幡宮
祭神 仁徳(ニントク)天皇
應神(オウジン)天皇(左)
武内宿禰(タケシウチノスクネ)(右)當社もと名古屋庄今市場に在り、天武天皇御宇 鎮座にかゝる(尾張名所圖會、尾張名勝地志、張州志略参取)、
一説には 文武天皇御宇 勧請といふ(社記)、
醍醐天皇 廷喜年中 再営を加へ、後安養寺といふ宮寺を立つ、凡て十二坊あり社記、府志、志略、名所図會参取)、後奈良天皇 天文元年 兵火にかゝりて焼失せしを同八年再建あり(名所圖會、府志、志略参取)、
後陽成天皇 慶長十五年 名古屋城を築かるゝ時、神慮にまかせて今の地に遷し、名古屋惣鎮守と崇め、藩主 徳川氏の氏神と定め、霊元天皇 寛文四年 徳川光友 社殿を新営し、社僧を廃し 神職を置く(社記、名所圖會、府志、志略参取)東山天皇 元禄二年正月十八日 神田一百石を寄せらる(志略)、
以降 営繕及祭祀 萬端 徳川家より寄進あり、維新の際 郷社に定まり、明治十年三月十四日縣社に列す。社殿は本殿、拝殿、神樂殿、神輿殿、神饌所、土藏、社務所等を具備し、境内地三千十九坪(官有地第一種)、清淨にして樹木鬱茂し、初夏新緑の候の如きはなかなかに、春花の嬌艶にまさるの観あり、今は市内公園の一に数へられ、賓客常にたえす。
境内神社
稲荷神社 熊野神社 日吉神社 天神社
連理稲荷社 香良洲神社〔稚日孁命・少彦名命〕 祖霊社
【原文参照】