鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〈『延喜式』鏡作伊多神社・富都神社〔鍬靫〕〉

鏡作伊多神社(かがみつくりいたじんじゃ)は 本殿が二祠〔南本殿・北本殿〕があり 南本殿は伊斯許理度賣命を祀る 延喜式内社 大和國城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)の論社です 又 北本殿は宇摩志摩遅命を祀る 延喜式内社 大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕(ふとの かみのやしろ)の論社とされています

Please do not reproduce without prior permission.

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

鏡作伊多神社(Kagamitsukuri ita shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

奈良県磯城郡田原本町保津字村内150

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)

※別説には
天糠戸ノ命(あまのぬかとのみこと)伊斯許理度賣命の親神
 八咫鏡(やたのかがみ)を鋳造したとされる神

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

田原本歴史遺産 神々を訪ねて

延喜式内社 旧 十市郡 保津 鏡作伊多神社
祭神 石凝姥命

 南本殿は文化年間(1800)頃の「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造

 保津・鏡作伊多神社は 大字保津環濠集落の南西端に鎮座し、保津環濠集落北側、道路・水路を挟んで、約150m北に・宮古鏡作伊多神社がある。保津と宮古の間の道路・水路を境に保津は十市郡、宮古は城下郡で、この道路・水路は整然とした大和国条里に沿わず、西は大字富本から南南東に太子道・下ツ道を横切り、村屋座彌富都比売神社の中ツ道まで延びる仮称 阪手道(磯城下横道)で、太子道・下ツ道の交わる重要な場所に保津・鏡作伊多神社が存在する。

 保津集落は 近世以前には、現在の集落の東側、中垣内、奥垣内にあり、大正12年(1923)の磯城農学校の敷地造成時に採土され、現在集落跡の畑地は少なくなっているが、屋敷地の面影は残っている。平成18年の奥垣内の西、宮古池東堤改修工事時に、集落跡に伴う、檜曲物井戸枠が数基出土している。又、保津・鏡作伊多神社も、近世以前の保津集落の約200m東、小字「伊多敷」にあったと推定される。

 北本殿

 基壇上に、二殿並び建ち、旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、向拝との繋部分は直材、軒廻りは二軒本繁垂木、正面扉口は方立柱を立て、向拝柱に斗拱を組み、象鼻を取り付ける。身舎は角柱で土台上に建ち、登階5級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。

 南本殿

 旧は檜皮葺、現在銅板で覆う春日造で、千木、勝男木、向拝角柱、身舎との繋材はなく、珍しい手法で、向拝虹梁を組み象鼻の木鼻を取付け、向拝柱に斗拱を組み、象鼻の木鼻を取り付ける。身舎は円柱で土台上に建ち、軒廻りは一軒本繁垂木、正面扉口は方立柱を立て、登階は7級、三方に縁を廻し、脇障子を付ける。この南本殿は「隅木入春日造」の珍しい手法の春日造である。境内に文化二年(1805)の石燈籠と、天保六年(1835)の狛犬がある。

平成20年度 No.9 田観54 田原本町観光協会 編 中西秀和

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

【由  (History)】

『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年(1989)発行 奈良県史編集委員会編集〉 に記される伝承

【抜粋意訳】

十三・磯城郡 1、田原本町

鏡作伊多神社

 当社鎮守地に二説あり、
Aは 田原本町保津字南垣内一五〇、
Bは 同町宮古字補屋六〇鎮座の神社で、

A社は近鉄田原本駅の西約一キロメートルの位置に
B社は保津のA社から北北東に当って程近い宮古集落の東南端の社である。
二社の中いずれが『延喜式』神名帳の鏡作伊多神社に比定すべきか定め難い。

 A社について『大和志』には「在 穂津村 傍有 小池 名鏡作 式載在 城下郡」とあるが『延喜式』神名帳作製当時は 城下郡と呼んでいた当地は江戸中期の『大和志』編集当時は十市郡と呼んでいたことになる。例祭は十月十三日。

 B社は古来 城下郡に属して補屋明神と称し、祠の東北に沿ってある池の字名を伊多の坪という。享保一七一六三六まで田地であったのを池にしたという。例祭は十月十三日。保津と宮古の社は南と北に道を距てた両大字に鎮座しているが、往古は両地共 鏡鋳造の作業をする氏族の住地であったと考えられる。

 社伝によると、両社祭神の石許利止売命石凝姥命は鏡の材料を板状に引き伸し鍛えられるのに力の強かった神だったという。この付近の作部の氏族が信仰した神の社が両社であったと考えられるが創建年代など明らかでない。

【原文】

『奈良県史』第5巻 神社〈平成元年(1989)発行 奈良県史編集委員会編集〉

『奈良磯城郡誌』大正4年(1915)に記される内容

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)について 式内社 富都神社であるとする説を挙げています

【抜粋意訳】

第九章 町村 平野村 大字保津

鏡作伊多(かがみつくりいた)神社

 式內村社にして石凝姥命を祭る、或は云ふ 本社は富都神社ならんかと、其説に曰く、富都神社は神名式考証に  城下郡小阪村 武雷神なり、
日本紀に曰く、五十瓊敷皇子
 太刀一千口を作りて忍阪村に藏し、然る後 忍阪より之を移して石上神宮に藏すと云ひ、
大和志には、富本村に在ると云ふ。

 案するに富津は ホツに充てたる借字にて、富津は即ち 保津と同く穂積の約語なり、
故に保津村の
鏡作伊多神社は、富津神社にして 穂積朝臣の祖 伊香色男命を祀れるに似たり。

 姓氏録に 穂積朝臣は神饒速日命六世の孫 伊香色雄命の後なり、穂積臣は伊香色雄命の男 大水口宿禰の后なるとあり、伊香色雄命の孫子 此邑に居住せしを以て、穂積の氏を負へること明なりと。

 今 本社の祭神に二座あり、里人は云ふ、本社は元と一座なりしか 更に村内に在りし宇摩志摩遅公の祠と傳へしを 近世 此社に配祀せりと。
因て謂へらく、宇摩志摩遅命は 饒速日命の子にて
 物部連の祖なれは、伊香色雄命は其孫子なり、祠の此地に在る由なきにあらす。

【原文参照】

奈良縣磯城郡 編『奈良縣磯城郡誌』,奈良県磯城郡,大正4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/950933

スポンサーリンク

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

保津の環濠集落

保津の環濠集落

 農家は古くから条里制と環濠集落の中に生活した。環濠の形態は様々であるが、保津のものは最も単純な形式で、集落全部を環濠しており、一部支濠を持つものもある。集落内部は迷路が多く、内部からの出口は限られていて、これを木戸と呼び、明治中期まで門番をおいて引き橋がかけられていた。農産物や家財道具を外敵から防ぐための農家の小さな城であった。

田原本町

現地案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)旧鎮座地の推定地

 保津の東方300メートルに「伊多敷(いたしき)」という字がある 当社の旧地と伝わる

現地案内板に色付け 赤枠が現在の鎮座地 オレンジ色が旧鎮座地の推定地

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『風土記(ふどき)』和銅6年(713)
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

『風土記(ふどき)』和銅6年(713)の特徴について
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本です
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史の総称

・『日本書紀』養老4年(720)完成
『續日本紀』延暦16年(797)完成
『日本後紀』承和7年(840)完成
『續日本後紀』貞観11年(869)完成
『日本文徳天皇実録』元慶3年(879)完成
『日本三代實録』延喜元年(901)完成

〇『延喜式(えんぎしき)』延長5年(927)完成
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)全50巻 約3300条からなる

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)は 二つの式内社の論社となっています

①大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕
②大和國城下郡 鏡作伊多神社

①大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 富都神社鍬靫
[ふ り が な ](ふとの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Futo no kaminoyashiro

②大和國城下郡 鏡作伊多神社

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和國 286座(第128座(月次新嘗・就中31座預り相詳細)・小158座(波官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)城下郡 17座(大3座・小14座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 鏡作伊多神社
[ふ り が な ](かかみつくり いたの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Kakamitsukuri ita no kaminoyashiro

【原文参照】

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

古代 大和國の「鏡作郷」に鎮座したと思われる式内社の論社について

鎮座地の周辺には 鏡作の守護神を祭祀した式内社「鏡作坐天照御魂神社・鏡作伊多神社・鏡作麻氣神社」などが鎮座し 古くは鏡を製作していた技術者集団が居住した古代 大和國「鏡作郷」であったとされます

延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作坐天照御魂神社(大 月次 新嘗)(かかみつくりにます あまてるみたまの かみのやしろ)

・鏡作坐天照御魂神社(田原本町)

・鏡作神社(三宅町石見)

延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)

・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)

・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)

延喜式内社 大和國 城下郡 鏡作麻氣神社(かかみつくり まけの かみのやしろ)

・鏡作麻氣神社(田原本町小阪)

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)は 二つの式内社の論社となっています

①大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕
②大和國城下郡 鏡作伊多神社

延喜式内社 大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕(ふとの かみのやしろ)

・冨都神社(磯城郡田原本町富本)

・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)

延喜式内社 大和國城下郡 鏡作伊多神社(かかみつくり いたの かみのやしろ)

・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)

・鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄 西田原本駅から県道14号経由で北西方向へ約1.2km 徒歩での所要時間は16~18分程度

当社は保津の環濠集落の西南内側に鎮座していますので 西側と南側は環濠が張り巡らされていますので 東から廻り込み 北側から境内への通路を進むようになっています

Please do not reproduce without prior permission.

通路を進むと 鳥居は北向き 社殿は西を向いて建てられています

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

一礼をしてから 石鳥居をくぐり抜けて 境内に進みます
拝殿の横から進んで お参りをするような形式になっています
拝殿の奥に 本殿が見えています

Please do not reproduce without prior permission.

砂岩で出来た狛犬は 天保六年(1835)奉納と刻字がありました
すぐ後ろには 水道付きの手水鉢が置かれています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

ここからは社殿全体が見渡せますが 本殿が二棟あります

拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.

延喜式内社 鏡作伊多神社との社名板が掲げられています

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 本殿が二つ並んで祀られています

Please do not reproduce without prior permission.

二つの本殿は〔南本殿〕〔北本殿〕と呼ばれていて 〔北本殿〕は境内社であるとの説もあります

正面に鎮座する〔南本殿〕は 現在の祭神は《主》伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)を祀ります

本殿の向って鎮座する〔北本殿〕境内社〉であり 宇間志麻遅神社《主》宇摩志摩遅命〈物部氏の祖〉とする説があります

『奈良磯城郡誌』には

 本社の祭神に二座あり、里人は云ふ、本社は元と一座なりしか 更に村内に在りし宇摩志摩遅公の祠と傳へしを近世 此社に配祀せりと。因て謂へらく、宇摩志摩遅命は饒速日命の子にて 物部連の祖なれは、伊香色雄命は其孫子なり、祠の此地に在る由なきにあらす。」

『神社辞典』1997年には 二つの本殿について次のように記しています

「『延喜式神名帳』にある鏡作麻気神社、鏡作伊多神社については同じく社伝に
左座 麻気神者 天糠戸ノ命 大山祇之子也、此ノ神 鋳作日之御像鏡、今伊勢崇秘大神也、
 右座 伊多神者、石凝姥命、天糠戸命之子也、比ノ神モ鋳作日象之鏡、今紀伊之国日前神是也」とみえる。」

社殿に一礼をしてから 境内を戻ります 鳥居は北を向いて建っています

Please do not reproduce without prior permission.

参道というか 神社への通路は 境内の北側から東へと抜けています

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)は 二つの式内社の論社となっています

①大和國城下郡 富都神社〔鍬靫〕
②大和國城下郡 鏡作伊多神社

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 富都神社について 所在は゛富木村に在す、゛〈現 冨都神社(磯城郡田原本町富本)〉と記しています

【抜粋意訳】

富都神社

富都は假字也

〇祭神 韴靈(フツミタマ)歟

〇富木村に在す、〔大和志、同名所圖會〕

式内社 鏡作伊多神社について 所在は゛穗津村に在す、今 十市郡に属す、゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〉と記しています

【抜粋意訳】

鏡作伊多神社

鏡作は前に同じ、伊多は假字也、

○祭神詳ならず

○穗津村に在す、今 十市郡に属す、大和志

 日本紀神代巻上、一書曰、鏡作部遠祖 天糠戸者、また鏡作遠祖 天抜戸已凝戸、」
 舊事紀、天孫本紀饒速日命十一世 物部鍛冶師連公、鏡作等租、」
 神宮雑事云、鏡作遠祖 天香古山命、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 富都神社について 所在は゛ 富木村にあり、゛〈現 冨都神社(磯城郡田原本町富本)〉と記しています

【抜粋意訳】

富都(フツ)神社

 富木村にあり、〔大和志、名所圖會〕

已上 五社、醍醐天皇 延喜の制、祈念祭並に鍬靫各一口を加奉る、〔延喜式〕

式内社 鏡作伊多神社について 所在は 十市郡穂津 鏡作池の傍あり、゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)〉と記しています

【抜粋意訳】

鏡作伊多(カカミツクリイタノ)神社

 十市郡穂津 鏡作池の傍あり、〔大和志、奈良縣神社取調書〕

盖 伊斯許理度賣(イシコリドメノ)を祭る、〔社傳〕

【原文参照】

Please do not reproduce without prior permission.

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 富都神社について 所在は゛富本村(磯城郡都村大字富本)゛〈現 冨都神社(磯城郡田原本町富本)〉と記しています

【抜粋意訳】

富都(フツノ)神社

祭神 建布都(タケフツノ)神

 今按 社傳 祭神 登美夜毘賣(トミヤビメノ)命とあれど 社號を富都(トミツ)など非訓して云る説と聞ゆれば とりがたし 又 素戔嗚尊 武雷命とある内 武雷い云るぞ本社の祭神なるべき具は 建御雷之男神 亦名 建布都神とも云れば 建をはぶきて富都神と申せしなるべし 故 今之を訂せり

祭日 九月八日
社格 村社

所在 富本村(磯城郡都村大字富本)

式内社 鏡作伊多神社について 所在は゛神社覈録 保津村 明細 十市郡保津村  宮古村有し同社號 村社にして 共に式内と唱へ居れり゛〈現 鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津)と鏡作伊多神社(磯城郡田原本町宮古)〉と記しています

【抜粋意訳】

鏡作伊多神社

祭神 伊斯許理度賣命

祭日 九月二十一日
社格

所在 (神社覈録 保津村 明細 十市郡保津村  宮古村有し同社號 村社にして 共に式内と唱へ居れり

 今按 奈良縣の注進に宮古村とあれど 大和志に保津村に神社あり社傍小池あり 土人云 村東三丁に字伊多敷と云田地あり 此所 伊多神社の舊地なり 又 村の申方六丁に字鏡池あり 今は宮ノ池と云 亦 田地の字に的場 政所綱懸 神子橋などの名も存せりと云へれば 此地ならむ猶よく考べし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

鏡作伊多神社(磯城郡田原本町保津) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

大和国 式内社 286座(大128座(並月次新嘗 就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)について に戻る

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2025 All Rights Reserved.