奈良波良神社(ならはらじんじゃ)は 『皇太神宮儀式帳〈延暦23年(804)〉』゛楢原神社 大水上の兒 那良原比女(ナラハラヒメ)命を祀る 倭姫命の祝ひ定め給ふ所゛と記される古社です 中世に頽廃しますが 寛文3年(1663)大宮司 大中臣精長によって再興されました 延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
奈良波良神社(Narahara shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県度会郡玉城町宮古字矢倉戸833
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》那良原比女命(ならはらひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮要綱』に記される内容
【抜粋意訳】
奈良波良神社
鎭座地 三重縣度會郡下外城田村大字宮古
殿舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司廰造替奈良波良(ナラハラ)神社も亦、延喜大神宮式及ぴ神名式に載す。皇太神宮儀式帳楢原神社に作り、大水上の兒 那良原比女(ナラハラヒメ)命を祀るとし、倭姫命の祝ひ定め給ふ所と記す。
寬文三年現地俗稱ヤグラドに再興す。但し四至儀式帳に合はず。一説 上宮古(カミミヤコ)の産土神を本社に擬す。明治二十五年上地官林六段八畝十九步を復舊して現狀を為せり。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下に記される内容
【抜粋意訳】
鴨廻(かもまわ)り
奈良波良神社(ならはらじんじゃ)
小社神社の参拜を終へて、それから西の方へ步を移し、下外城田村大字宮古の部落財西へ出はづれると、狩田池がある。その手前に、皇大神宮の攝社 奈良波良(ならはら)神社のお森が見えて來る。
延喜式神名帳には 奈良波良神社と見えるが、同大神宮式や齋宮式には ,神の字が無く、たヾ奈艮波良社(ならはらのやしろ)と見え、儀式帳には奈良波良に楢原の文字を宛てて楢原神社と兒えてゐる。
何故、このやうな相違があるかといふとこの中で、最も古い社名は奈良波良社で、この社名は、この神社が、奈良波良社で、この社名は、この神社が、奈良波良の祭りの庭であることを示したものである。
これに對して、奈良波良神社といふのは、奈良波良に鎭座まします神を奈良波良の神と申し、この神の鎭ります社であるといふことを示したものである。
而して、奈良波良といふ書き方は ,その音をそのまま採った古い書き方であるが、奈良時代元正天皇の御とき風土記を撰する時代に地名には好き二文宇を宛てよといふ所から、これを楢原といふ文宇に替へたといふ変遷が見受けられるのである。これを要するに楢原神社といふのは、この邊り一帶が楢の木の原野であつたことを示すもので、この楢原の守護神を祭つた神社であるといふことが出來るのである。御鎭座になつたのは儀式帳に倭姫命時代であると見えてゐるから、古代からのこの地方の産土神であることが分るのである。
御祭神は儀式帳に那良原比女命(ならはらひめのみこと)と申し、大水上命(おほみなかみのみこと)の兒であると傳へてゐる。楢原の地域の田野灌漑の御田の守護神であることが分る。中世に至り戰國時代の餘波を受けてね、本社も一時退轉のことありしも、江戸時代の寛文三年に、士藩「ヤグラド」といふ所に地を求めて、再興されるに至った。境内の裏の方には土壺の跡が兄出される。
又神社の入り口には紀州藩が建てた「奈良波良神社」•「禁殺生」、「享保甲辰」の石の標柱が建ってゐる。こゝ宮古の地は外宮神領目錄に「宮古御薗(みやこみその)」とあって、古くから外宮の神領地となってゐた所である。
又宮古には、曹洞宗の總洞寺である神照山 廣泰(こうたい)寺の名刹がある、道すがらこゝに逝く秋の紅葉を求め神明水の泉に心を澄ますのも、ーしほの風情を添へるものである。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
奈良波良神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭に並預゛と記されます
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】
伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 奈良波良神社
[ふ り が な ](ならはらの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Narahara no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊勢國 度會郡 奈良波良神社(ならはらの かみのやしろ)の論社について
・奈良波良神社(玉城町宮古字矢倉戸)〈皇大神宮(内宮)摂社〉
・上宮古神社(玉城町宮古)
〈旧鎮座地とする説あり〉
内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について
お伊勢さん125社について
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 田丸駅から県道530経由で南下 約2.7km 車10分程度
鎮守の杜の南側に 生垣があり 入り口が設けられています
奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
一礼をしてから 小砂利が敷き詰められた参道を進みます
社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
鎮守の杜の中に差し込む日差しを見上げると
この森が神聖な森と化していることがわかります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
入口の生垣が四角に剪定されているので ちょうどトンネルから出るような視覚になります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 奈艮波良神社について 所在は城田郷宮子村に在す〈現 奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
奈艮波良神社
奈良波良は假字也
○祭神 那良原比女命
〇城田郷宮子村に在す 神名略記
○式四、伊勢大神宮 大神宮所摂二十四座の第十八に載す、
〇儀式帳云、橘原神社、稱に大水上兒 那良原比女命、形石坐、倭姫内親王定祝、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 奈艮波良神社について 所在は城田郷宮古村に在り〈現 奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
奈艮波良(ナラハラノ)神社
〇按 延暦儀式帳、奈艮波良を楢原に作る
今 城田郷宮古村に在り、神祇本源、神名秘書、延暦儀式解
大水上兒 那良原比女命を祀る、形石に坐す、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 奈艮波良神社について 所在は城田郷宮子村としているが 寬文三年に再興した現在地〈現 奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉は 愛須彈正親忠の砦址であり 神社の旧跡ではない
本来の旧鎮座地は 広泰寺に社域をとられて狭くなっているが 上宮子村の産神〈現 上宮古神社(玉城町宮古広泰寺裏)〉であると記しています
【抜粋意訳】
奈艮波良神社
祭神 那良原比女命 (大水上神兒 )
祭日 同上
社格 内宮所攝廿四所之一 (内宮攝社 )所在 三重縣城田郷宮子村 (度會郡下外城田村大字宮古)
今按 神社檢錄に寬文三年 今地に造立せしなれ共其地は愛須彈正親忠の砦址にて矢倉戸と云ふ處なれば古址にあらず
舊社は上宮子村の産神なるが 今は神照山廣泰寺に社域を侵されて狭隘になれりと云へり
【原文参照】
奈良波良神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)