御穗神社(みほじんじゃ)は 世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の内『芸術の源泉』としての構成資産゛三保松原(みほのまつばら)゛に含まれます その創建は古く〈927年12月編纂〉『延喜式神名帳』所載 駿河國 廬原郡 御穂神社(みほの かみのやしろ)です 「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く 朝野の崇敬をあつめてきました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
御穗神社(Miho shrine)
【通称名(Common name)】
・三保大明神(みほだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
静岡県静岡市清水区三保1073
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》大己貴命(おほなむちのみこと)
三穂津彦命(みほつひこのみこと)
三穂津姫命(みほつひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・夫婦和合縁結び、安産子育て(きれいで健康な頭の良い子)、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 駿河国三之宮
【創 建 (Beginning of history)】
御穂神社(三保大明神)由緒
静岡市清水区三保一〇七三番地鎮座
主祭神
大己貴命(大国主命、三穂津彦命)三穂津彦命
三穂津姫命祭 典
例 祭 十一月一日 湯立の神事
筒粥祭 二月十四日の夜より同十五日由緒略記
創建の時は不明であるが、千古の昔より、三保の中心に鎮座し、三保大明神とも称せられ、国土開発の神、海の神と崇められると共に天から天女が舞い降りた「羽衣伝説」ゆかりの社としても名高く朝野の崇敬をあつめた延喜式内社である。中世以降、武士の崇敬篤く、殊に徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したが、寛文八年落雷のため焼失し、今の社殿は、その後 仮宮として建てられたもので、本殿は清水市指定有形文化財に指定されている。
信仰は三保の氏神様・清水・庵原の総氏神として親しまれ文化発祥の地である。祭神の神徳により、お祭や、正月など全国各地より多くの人々が参拝する「御神木(ごしんぼく)羽衣の松」の名社です。社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
御穂神社
三保の中心に鎮座する御穂神社(祭神は大己貴命と三穂津姫命)は、平安時代の書物『延喜式神名帳』にも記録のある由緒ある神社で、朝廷や源氏、今川氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の武将に篤く崇敬されました。特に徳川幕府は、慶長年間(1596-1615)に壮大な社殿群を造営寄進しましたが寛文8年(1668)の落雷により焼失しました。
御穂神社の神馬(しんめ)は、子どもの守り神として地域の人々が幼少期を懐かしむ馬です。11月と2月のお祭りの時に、馬屋の扉が開き、馬のお腹をくぐってお供えのお豆を食べると、おねしょが治るという言い伝えが残っているためです。また、この神馬は、静岡浅間神社の2頭の神馬が逃げてきて1頭が残ったという説があり、北原白秋作詞の『ちゃっきりぶし』(神の道に歌碑あり)にも詠われています。
SHIZUOKA CITY PROMOTION
静岡市シティプロモーションより
https://www.shizuoka-citypromotion.jp/mihonomatsubara/learn/area.html
由緒
大国主之命は須佐之男之命(すさのおのみこと)の御子で、豊葦原瑞穂国を開きお治めになり、天孫瓊々杵尊が天降りなられた時に、自分の治めていた国土をこころよくお譲りになったので、天照大神は大国主命が二心のないことを非常にお喜びになって、高皇産霊尊の御子の中で一番みめ美しい三穂津姫命を大后(おおきさき)とお定めになった。
そこで大国主命は三穂津彦命と改名されて、御2人の神はそろって羽車に乗り新婚旅行に景勝の地、海陸要衛三保の浦に降臨されて、我が国土の隆昌と、皇室のいや栄とを守るため三保の神奈昆(かむなび)(天神の森)に鎮座された。
これが当御穂神社の起
一般民衆より三保大明神として親しまれています。彦神は国土開発の神様で、姫神は御婦徳高く、二神は災いを払い福をお授けになる神様として知られています。
御神徳は顕著(いやちこ)に夫婦和合縁結び、安産子育て(きれいで健康な頭の良い子)、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神とも仰がれています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
子安神社《主》須佐之男命、稲田姫命
子安神社
御祭神
須佐之男命(すさのおのみこと)
稲田姫命(いなだひめのみこと)御穂神社ご祭神である大国主命の父母にあたる神々であり古来より子宝・安産・子育ての神として信仰される
また昔から安産の祈願やお礼参りとして底を抜いた柄杓を奉納する風習があり、水がつかえず軽くぬける如くに楽なお産が出来ますようにとの願いが託されている現地案内板より
〈5社合殿 舞殿東側〉
・稲荷神社《主》宇迦之御魂神、大宮姫神、太田命
・胡夫大夫神社《主》事代主命
・産霊神社《主》高皇産霊命、神皇産霊命
・呉服之神社《主》長白羽命
・磯前神社《主》少彦名神
〈3社合殿 本殿西側〉
・八幡神社《主》応神天皇
・八雲神社《主》須佐之男命
・神明社《主》天照大神
神明社 祭神は天照大神
本宗は伊勢神宮です
皇室の御祖先神として尊ばれ
また国民の総氏神様として仰れています八幡神社 祭神は応神天皇
仲哀天皇の第四皇子、母神は神功皇后です
源氏の氏神としてあがめられています八雲神社 祭神は須佐之男命
大国主命の父神です
・神馬
神馬(しんめ)の由緒
三保大明神 御穗(みほ)神社
元(もと)は木の馬であり 左甚五郎の作といわれ安永二年(一七七三年)駿府大火で、静岡浅間神社の二頭の神馬が、当社に逃げ一頭は残り一頭は戻ったと伝えられている。
明治四十五年北原白秋来清のとき詠まれたチャッキリ節に「賎や賎機浅間さまの白いお馬よ三保へお馬よなぜ逃げた」と唄われている。今も浅間さんには黒いお馬さんの馬屋と空屋の馬屋がある。
このように由緒ある神馬は古くから信仰され親しまれてきた。当社の十一月の例祭、二月の筒粥(つつかゆ)祭に子どものみお馬さんの腹の下をくぐり、お供えのお豆を食べると「かんしずめ」「はぎしり」「寝小便とめ」などの病気がなおると信仰されている。
現在、神馬のご神徳により、おせんげんさまの神馬と共に「なんでも叶(かな)う」叶え馬としてお守をうけて絵馬(えま)に願事(ねがいごと)をかき奉納し祈願する。 願事が叶い感謝のお礼参りをする人が年々増えている。現地案内板より
・社務所
・舞殿
・社頭
・三保松原〈神の道〉
神の道
御穂神社の正面から真南に向って樹齢200年とも云われる老松の並木が約500m続く、この見事な並木路は、海の彼方より御穂神社に来臨する常世神(とこよかみ)がお通りになる道である。
現在も毎年2月14日の深夜、この道を通って神迎えの神事が行なわれている。
「ふるさと三保」静岡県と三保地区まちづくり推進委員会発行より
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈御神木〉゛羽衣の松゛
・羽車神社《主》三穂津彦命・三穂津姫命
〈羽衣の松の横に鎮座〉
羽車神社
羽衣の松の際にある石造りの社は、羽車磯田社とも言い、御穂神社の離宮で、「筒粥神事」の際、海の彼方より来臨する常世神(とこよかみ)は、まずこの社に降臨し、松並木の神の道を通って御穂神社に入るとされている。
「ふるさと三保」静岡県と三保地区まちづくり推進委員会発行より
再建之碑
当 羽車神社御祭神は 三穂津彦命(大国主命)三穂津姫命の二神を斎き奉る その昔 彦神 国土を天孫瓊々杵尊に譲り給ひて 後みめ麗はしき姫神を大后と定め 二神相携へて天の羽車に召され「三保の浦」に鎮坐せられ 当社を離宮として設けられたる由 古伝に伝ふ 爾来 特に縁結び 歌舞音曲 農耕 海上安全 大漁守護神として 海内に尊崇せられ 御神木として「羽衣の松」を現存す 更に 霊峯冨士の眺望は 将に天下随一の景観にして 近時その風光を賞する者 踵接すと雖も 当社殿は 永く荒廃に任せられたり 此の状を痛嘆せし氏子崇敬者有志は 御神慮に副ひ奉るべく その再建を謀り 大方江湖各位の絶大なる賛同を得て 御造営の業終に遂ふ 即ち 御造営の次第を慎みて茲に誌す
現地石碑文より
・御穂神社 一の鳥居〈塚間の渡し〉
御穂神社「一の鳥居」と「常夜燈」
慶安三年(1650年)の古地図には、この場所に鳥居の姿を見ることが出来、元禄十六年(1703年)駿府目付三島清左衛門の「駿府巡見帳」の一節に
「磯ぎわの松原入口に、三保明神への道しるべの抗木が左右に立つ」とある。
その姿は、時と共に変遷があったが、この「石鳥居」が慶応年間の建立となれば打ち続く飢餓と、天保安政の大地震に加えて、幕末騒擾の中で往時の人々が、日々の平安と世直しを求めて神佛の加護を願い、丈余のこの鳥居と常夜燈を建立した由緒を、今にして思い浮かべることができる。
「私たちのふるさと三保」平成四年発行 三保地区まちづくり推進協議会この鳥居は江戸時代の末 慶應元年(1865)に、御穂神社の「一の鳥居」として、三保村の有志を始め村外の多くの崇敬者達によって寄進建立された。
現地案内板より
塚間の渡し
古く鎌倉時代(寛元三年 西暦1245年)から、御穂神社へ詣でる人々や
名勝三保の松原への遊客が興津と塚間を結ぶ渡し舟を利用していました。御穂神社への参道は興津から海路をのぼり塚間から陸路に替え当時約十三丁の道程でした。特に塚間からの陸参道は「どう者道」といって当時かなりの賑わいを呈し その名残りを現在もこの石鳥居や常夜灯に見ることが出来ます。
塚間の渡しの途中にある貝島には、かつて徳川家康の「貝島御殿」があり 宏大な富士見櫓が建てられ家康の保養の目的と徳川水軍の基地としての目的をになっていたと伝えられます。
鎌倉時代から永い間 船司をつとめた三保の領主 太田家は御穂神社の宮司と清見ケ関の関守を兼ね 慶長年間には徳川家康からも一〇七石(三保五四石、折戸一七石、駒越三五石)のお墨付きが与えられていました。
高山樗牛の「清見潟日記」にも
「一月、二月の頃には参宮の道者、興津の駅に下るもの絡駅として絶えず清見寺に詣で三保に渡り」としるされてあります。現地案内板より
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
駿河國 御盧神と表記 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
巻十一 貞觀七年(八六五)十二月廿一日〈戊辰〉の条
○廿一日戊辰
授に
下野國 正三位勳四等 二荒神 從二位
武藏國 正五位下 氷川神 從四位下
駿河國 從五位下 御盧神(ミホノカミ) 從五位上 正六位 上大井神 從五位下
【原文参照】
【抜粋意訳】
巻卅五 元慶三年(八七九)四月五日〈甲子〉の条
○五日甲子
授に
駿河國 從五位上 御廬神(ミヲノカミ) 正五位下
下総國 正六位上 子松神 從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)駿河国 22座(大1座・小21座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)廬原郡 3座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 御穂神社
[ふ り が な ](みほの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Miho no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
゛三保松原゛は 世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産のひとつに登録されています
中でも富士山と関わりがある゛羽衣伝説゛〈天女と地元の漁師との交流を描いた伝説〉によって ゛三保松原゛は その景観とともに 富士山の『芸術の源泉』として欠かすことのできない世界文化遺産の構成資産となっています
゛御穗神社゛のゾーンとしては
゛三保松原(みほのまつばら)゛は
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産については
富士山 世界文化遺産 構成資産と浅間神社 の記事を見る
゛三保松原゛は 世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産のひとつに登録されています
中でも富士山と関わりがある゛羽衣伝説゛〈天女と地元の漁師との交流を描いた伝説〉によって ゛三保松原゛は その景観とともに 富士山の『芸術の源泉』として欠かすことのできない世界文化遺産の構成資産となっています
゛御穗神社゛のゾーンとしては
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
静鉄 新清水駅から 折戸湾を廻るようにR150号を南下して 県道199号線を北上 約7.2kmの道程 車15分程度
・゛羽衣伝説゛で有名な「羽衣の松」
・羽衣の松を御神木とする「御穂(みほ)神社」
・松と神社の間の松並木「神の道」
が 構成資産゛三保松原゛のゾーンとして含まれています
世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産については
富士山 世界文化遺産 構成資産と浅間神社 の記事を見る
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
静鉄 新清水駅から 折戸湾を廻るようにR150号を南下して 県道199号線を北上 約7.2kmの道程 車15分程度
神社の南側に参拝者用駐車場があり 車を下ります
社頭の社号標には゛縣社 御穂神社゛と刻字
御穗神社(静岡市清水区三保)に参着
社頭の南には 参道として゛三保松原(みほのまつばら)゛が゛神の道゛として 海岸にある゛羽衣の松゛まで 一直線に500m程伸びています
一礼をして鳥居をくぐり 境内参道をすすみます
拝殿にすすみます
拝殿内の明かりの灯る提灯には゛御穂神社゛
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿と続いていますが ちょうど修復中でした
社殿に一礼をして 参道を戻ります
鳥居の先には 参道として゛三保松原(みほのまつばら)゛が゛神の道゛として 一直線に伸びていますので 海岸にある゛羽衣の松゛に向かいます
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 御穗神社について 所在は 三保浦〈現 御穗神社(静岡市清水区三保)〉と記しています
【抜粋意訳】
御穗神社
御穂は假字也
○祭神 三穂津彦神、三穂津姫神、駿河志
〇三保浦に在す、今有度郡に属す、駿河志参考
例祭 月 日、
○惣國風土記五十四残欠云、薦河伊穂原郡 御穂神社、所祭 大己貴命、又號 御穂津彦 御穂比咩命也、日本武尊 奉勅供官幣 始献 圭田五百畝 為國之三宮 所謂 瀬織戸邑 矢部村 興津郷蘆崎役也 羽車磯田社 離宮也 大己貴登天上奏可順條々 勿乗御天日鷲 大羽鷲羽車 休御穗御崎 後其 鷲為挙之社 曰天女脱羽衣謬羽車也 潮風不連時 波濤不挙境 可奇之嶋也」
駿河國志云、三穂大明神の社は、有度郡三穗浦に鎮坐ます 三穂津姫神、三穂津彦神 二柱並びまします、出雲の國 三穗の崎を御神縁の始として、跡を此浦に垂給ふ故、此島を三保の浦といふ、又は 三穗の御崎といふ、中略 此浦は有度 蘆原 二郡に跨りて、古の瑞籬の地は菴原郡なるべし、後の世に郡境の綴革りて、今は社地の北 三保村貝島を郡境として、趾地は有渡郡の中となれり、三保村の漁家けみな奄原郡なり、また當御社は東照神君 御造営ありて、結構にありしに、寛文年中炎上して、今は南向に二間四方の假本社、三間に四間程なる拝殿ばかりなり、縁起も神寳も炎上によりて、鎮座の事も詳ならずとり、
類社
出雲國 島根郡 美保神社神位
三代實録、貞観七年十二月廿一日戊辰、授ニ駿河國 從五位下 御蘆神 從五位上、元慶三年四月子五日甲子、授ニ駿河國 從五位上 御蘆神 正五位下」國内神名帳云、從二位三保明神、社領
當代卿朱印高 百六石
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
【抜粋意訳】
御穂(ミホノ)神社
〇按 御穂、三代實録 御盧に作る
有度郡 三保村三保浦にあり、駿河國志、國華万葉記、駿河新風土記、
大己貴命 三穗津姫命を祀る、土人傳説
清和天皇 貞観七年十二月廿一日戊辰、授ニ駿河國 從五位下 御蘆神 從五位上、陽成天王 元慶三年四月子五日甲子、授ニ駿河國 從五位上 御蘆神 正五位下、三代實録
後村上天皇 正平元年六月丁巳、使を遣して社司に中祓を科す、御穂神の御祟ありと云を以て也、宮主秘事口傳 〇按穂、本書稲に作る、謬れり、故之を訂す
凡 年中祭祀 正月六月十五日 十一月午日中申日、祭を行ふ、
正月を筒粥祭と云、
六月 神鋒、離宮羽衣社に幸す、十一月午日、佐久神、御井神を祭る、
摂社 八雲社、神明社あり、祭毎に必先漁して、鮮魚海菜を二社に奉るを恒例とす、駿河新風土記、東海道名所圖會
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 御穗神社について 所在は 三保村〈現 御穗神社(静岡市清水区三保)〉と記しています
【抜粋意訳】
御穂(ミホノ)神社
祭神 大己貴(オホナムチノ)命
三穗津姫(ミホツヒメノ)命今按〈今考えるに〉
惣國風土記に御穂神社 所祭 大己貴命 又號 御穂津彦 御穂比咩命也 とみえたるによらば大己貴命を御穂津彦とも甲し奉れる歟 こは古傳によれるものなるべし 駿河國志に三穂大明神の社は 有度郡三穂浦に鎮座ます 三穂津姫神 三穂津彦神 二柱並びまします 出雲國三穂の崎を御神縁の始として 跡を此浦に垂玉ふ云々とみえ 出雲風土記島根郡美保郷云々所造天下大神命 娶 高志國坐 神意支都久辰爲命 子 奴奈加波比賣命 而令産神御須々美命 是神坐矣故云美保とある 大神は大己貴命にまし 又 神代巻に高皇産霊尊勅 大物主神 汝若以國神爲妻吾猶謂汝有疏心故 今以 吾女 三穂津姫配 汝爲妻宣領八十萬神 永爲皇孫奉護とある 此に由あり 出雲三穂神社にます神を遷し祭れるなるべし神位
清和天皇 貞観七年十二月廿一日戊辰、授ニ駿河國 從五位下 御蘆神 從五位上、陽成天王 元慶三年四月子五日甲子、授ニ駿河國 從五位上 御蘆神 正五位下祭日 十一月二十八日
社格 郷社所在 三保村(有度郡)(安部郡三保村大字三保縣社 御穂神社)
今按〈今考えるに〉
この地 古へは蘆原郡なりしが 中古より巴川を見通し 具島より南北に分かれ 有度 蘆原 郡境としつるを以て 社地は有度郡に属し 民衆は蘆原郡に隷せりと云へり
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
御穗神社(静岡市清水区三保)について 式内社 蘆原郡 御穗神社であると記しています 延喜式の当時は 蘆原郡であり その後 有度郡となり 今は 安倍郡であるとしています
【抜粋意訳】
〇静岡縣 駿河國 安部郡三保村大字三保字宮方
郷社 御穂(ミホノ)神社
祭神 大己貴(オホナムチノ)命
三穗津姫(ミホツヒメノ)命御穂、又御蘆、三穂、三保に作る、創立年代詳ならす、
但 延喜式に、蘆原郡 御穂神社と見えたるは當社なり、郡の蘆原なるは、當時是地 蘆原に属せるが故なり、後ち 有度郡となり、今 安倍郡と稱す、式の小社たり、是より先、貞観七年神位奉授の事ありたり、
三代實録 清和天皇條に云く、
「貞観七年十一月二十一日戌辰、授 駿河國 從五位下 御蘆神 從五位上」と、次いで陽成天皇元慶三年四月五日、正五位下を奉授せらる、後ち 神階累進し、諸郡神階帳には、「從二位 一所三保明神(坐蘆原郡)と記せり、社家太田氏、当社に関する古文書を蔵す、即ち、天正五年九月の武田勝頼の朱印状、次いで同年十月。八年四月、九年二月の朱印状あり、又同十八年の豊臣秀吉の数書を蔵す。慶長年間に至り、徳川氏社領百六十石を寄す、
諸社御朱印寫に云く、
「三保大明神社領、駿河國有渡郡 三保、織部、別府三ケ村郡合百六石事、並臨浜二十九ケ所、舟二艘之内役義曁 山林竹木亦免除、任慶長七年十二月十日、元和三年三月十二日、寛永十三年十一月九日。先判之旨、永不可有相違者也、仍如件、
寛文五年七月十一日」外に除地二百七十一石四斗五升五合を有せりと、又慶長年間兵乱治まりて後、徳川家康当社を再建し奉りしが、寛文八年社殿回禄、諸宇尽く灰燼となりければ、社職再興せり、然れども古制の十分が一を存するのみ也と、古来三保村の産土神たり、明治六年郷社に列せられ、三十一年九月縣社に昇格す。 社殿ば本殿、拝殿、其他神樂殿、神饌所、社務所等を具備し、境内は2104坪(官有地第一種)あり、地は玉芙蓉の秀峯と相竝んで、東海の名勝の名を恣にせる、三保松原にあり、「有度濱に天羽衣むかしきて振りけん袖やけふのはふり子」と能因法師が詠せる羽衣の松は、社頭を距る東南数町の地にあり、高さ十丈周囲一丈、老枝蒼翠又幽邃の致あり、樹下一碑を樹つ、風雨剥蝕碑面辮ずべからざる所、老松と相侯つて古色掬すべし、当社は、羽衣の切れと称する五六寸の切を藏す、黒色し、又往昔の神木と称する樟樹の根を蔵す、同神木は社記に依れば、周囲七丈三尺と見えたり、又社鏡あり、正保二年の寄進に係る。
境内神社
八幡神社 子安神社 八雲神社 稲荷神社 故夫大夫神社 呉羽神社 産霊神社 磯前神社
【原文参照】
゛羽衣伝説゛について
国指定名勝 三保松原 羽衣の松 羽衣伝説
昔々、三保に伯良という漁師がおりました。
ある日のこと、伯良が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言いました。「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯良は「天人の羽衣なら、お返しはできません。」と言いました。
すると天女は「その羽衣がないと天に帰ることができません。」と言って懇願しました。
伯良は天上の舞を舞うことを約束に羽衣を返しました。天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞いながら、富士の山に沿って天に昇っていきました。
現地石碑文より
謡曲「羽衣」と三保ノ松原
地上に舞い降りた天女が浜辺の松に懸け忘れた羽衣を漁夫白竜に拾われ、それを返してもらうために天人の舞を舞うという「羽衣」伝説は日本各地にありますが、駿河国三保ノ松原を舞台としたのが本曲です。 そのときの舞が後世に伝わって東遊(あづまあそび)の駿河舞となったと言われております。
謡曲では、天女は漁夫から羽衣を返してもらい、愛鷹山(あしたかやま)や霊峰富士山を見おろし乍ら昇天してゆきます。 そのさまは一幅の絵のようで、能の中でも、最も秀(すぐ)れた曲として、多くの人々に愛好されてきました。
謡曲史跡保存会
現地立札より
御穗神社(静岡市清水区三保)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)