
実践和學 Cultural Japan heritage
天穂日命神社(伏見区石田森西)〈『延喜式』天穂日命神社・石田神社〔大 月次新嘗〕〉
天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)は 『三代實録』貞觀四年(862)六月に官社に預り・神階を正六位上から從五位下を授った 式内社 山城國宇治郡 天穂日命神社(あめのほひのみことの かみのやしろ) 又鎮座地は『万葉集』に多く詠まれた名所「石田の森」にあった式内社 山城國久世郡 石田神社〔大月次新嘗〕とも云われます
石田神社(八幡市岩田茶屋ノ前)〈『延喜式』石田神社〔大 月次 新嘗〕〉
石田神社(いしだじんじゃ)は 社伝には 延暦六年(787)三月十一日 御神託「山科 石田神を久世郡石田に遷座せよ」があり当地に遷座したと云う 八幡市岩田には石田神社が当社と(八幡市岩田里)に2ヶ所あり どちらも延喜式内社 山城國久世郡 石田神社〔大 月次 新嘗〕(いはたの かみのやしろ)の論社となっています
石田神社(八幡市岩田里)〈『延喜式』石田神社〔大 月次 新嘗〕〉
石田神社(いしだじんじゃ)は 承應年中(1652~55年)火災に罹り 創立由緒などは不明ですが 鎮座地 八幡市岩田には2座の石田神社 当社(八幡市岩田里)と(八幡市岩田茶屋ノ前)があり どちらも延喜式内社 山城國久世郡 石田神社〔大 月次 新嘗〕(いはたの かみのやしろ)の論社となっています
棚倉孫神社(京田辺市田辺棚倉)〈『延喜式』棚倉孫神社〔大 月次新嘗〕・天神社〉
棚倉孫神社(たなくらひこじんじゃ)は 社伝に推古天皇31年(623)相楽郡棚倉ノ庄より高倉下命を勧請とあり 『三代實録』貞観元年(859)正月27日条「棚倉孫神」に従五位上を叙す 又二つの式内社 山城國 綴喜郡(①棚倉孫神社〔大月次新嘗〕(たなくらひこの かみのやしろ)②天神社(あまつかみのやしろ)の論社です
天神社(てんじんじゃ)は 社伝によると もとは松井交野ヶ原(かたのがはら)に創祀されたものを現在の地 松井向山に遷座したと云う 明応2年(1493)に社殿が造営された記録も残っています 延喜式内社 山城國 綴喜郡 天神社(あまつかみのやしろ)の論社です
朱智神社(京田辺市天王高ケ峯)〈『延喜式』朱智神社・天神社〉
朱智神社(しゅちじんじゃ)は 社伝では 仁徳天皇のとき現在地より西方の西峰頂上に創建され 宣化天皇元年(五三五)天王号を付け「朱智天王」と称し 桓武天皇のとき神託に依り今の地に遷ったとされます 現在 二つの式内社〔山城國 綴喜郡①朱智神社(すちの かみのやしろ)②天神社(あまつかみのやしろ)〕の論社となっています
江文神社(えぶみじんじゃ)は 古くは江文山とも称した金毘羅山の頂上で朝日の一番早く当たるところに祀られていた神々を平安時代末期に山麓に社を建造し鎮座願ったと云う 伴信友の著した『神名帳考証土代』には延喜式内社 山城國 愛宕郡 伊多太神社(いたたの かみのやしろ)の論社とされています
崇道神社(京都市左京区)〈『延喜式』出雲髙野神社・小野神社二座・伊多太神社〉
崇道神社(すどうじんじゃ)は 桓武天皇の実弟 早良親王が 藤原種継暗殺事件に連座 幽閉 途中無実を主張し絶食死した 天皇の近親者の死 疫病が流行が続き 親王の祟りとされ 崇道天皇の追号を贈り 怨霊を鎮めるために創建されたと云う 3つの式内社〔出雲髙野神社・小野神社二座・伊多太神社〕が 境内社として祀られています
岩上神社(いわがみじんじゃ)は もとは二条堀川付近にあったが 徳川家康の二条堀川城築城時 岩上通六角へ 更に後水尾天皇の女御の御所へと移されると 小僧に化けるなどの怪異が絶えず 雲乗院と云う真言宗の僧が今の地に安置し寺としたと伝わります 延喜式内社 山城國 愛宕郡 大柴神社(おほしはの かみのやしろ)の論社でもあります
神明神社(しんめいじんじゃ)は 飛鳥時代に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を弔うために建立されたと伝えられる天台宗の尼寺「寂光院(じゃっこういん)」の裏山中腹〈北西〉に鎮座します 延喜式内社 山城國 愛宕郡 大柴神社(おほしはの かみのやしろ)の論社ともされます
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