吉川八幡宮(よしかわはちまんぐう)は 永長元年(1096)京都 石清水八幡宮の別宮として創建と伝わり その後 慶長年中(1596~1615年)に断絶したが 後光明天皇 寛永21年(1664)に寄付の記録があります 『備中誌』に 吉川村の村内に布郡(ふこほり)と呼ばれる地名があり ここが式内社 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の所在ではないかと記しています
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
吉川八幡宮(Yoshikawa Hachimangu)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
岡山県加賀郡吉備中央町吉川3932
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》応神天皇(おうじんてんのう)
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
《配》楽楽森彦命(ささもりひこのみこと)
猿田彦命(さるたひこのみこと)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全, 商売繁盛, 学業成就
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の論社
【創 建 (Beginning of history)】
吉川八幡宮
祭神、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、もと県社
京都の石清水八幡宮の別宮として 永長(えいちょう)元年(1096)に創建されたという。「右石清水八幡宮文書」によれば、備仲国 吉川保(よしかわほ)に御調別宮(みつぎべつぐう)、椙原別宮(すぎはらべつぐう)とがあったというが、八幡宮と称するようになったいはさつは不詳。 平安時代末期吉川が石清水八幡宮の荘園であった事から、両神社の関係は特別深かった。 鎌倉時代に書かれた「古事談」によれば石清水八幡宮の楽人、元正(もとまさ)が当社の大祭にはるばる下向し、秘楽を奉納したという。 本殿は国指定重要文化財、当番祭は県指定無形民俗文化財である。他に建造物などの町指定文化財がある。
吉備中央町教育委員会社頭案内板より
【由 緒 (History)】
吉川八幡宮(ヨシカワハチマングウ)
由緒
当社は永長元年(1096)に京都の石清水八幡宮の別宮として、創建された。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祀っている。
「石清水八幡宮文書」によれば、備仲国吉川保に御調別宮、椙原とがあった。 平安時代末期吉川が石清水八幡宮の荘園であったことから両神社の関係は特別深かった。鎌倉時代に書かれた「古事談」によれば石清水八幡宮の楽人、元正が当社の大祭にはるばる下向し、秘楽を奉納したといわれる。
本殿は国指定重要文化財で平成9年から平成10年8月まで、全面解体修理が行われた。解体の際に応永2年(1395)再建当時の建築工具としてしては縦引き鋸が無く、縦一列にノミを打ち込んで割る工法の部材が全国で初めて発見された。(町指定)
當番祭は毎年10月1日に迎え當、當指しではじまり(10歳前後の男児2名を當番様として決めて)こりとり、口開(くちあけ)祭、走り競べ神事、ハクケあげ祭と約1月間続く祭りである。これは岡山県無形民俗資料に指定されている。拝殿・随神門は岡山県指定文化財である。
旧県社に列格した。
岡山県神社庁HPよりhttps://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/18599/
【境内社 (Other deities within the precincts)】
本殿向かって右脇の鳥居の奥
・鳥居をくぐり両脇に 末社稲荷神社
・若宮神社
・山神社
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)備中国 18座(大1座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀夜郡 4座(大1座・小3座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 古郡神社
[ふ り が な ](ふるこほりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Furukohori no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『延喜式神名帳927 AD.』所載の備中国 賀夜郡 古郡神社(ふるこほりの かみのやしろ)の論社は 三ヶ所あります
・古郡神社(総社市総社)
・〈槇谷鎮座 村社・古郡神社を合祀〉池田神社(総社市槙谷市井谷)
・吉川八幡宮(吉備中央町吉川)の境内社
吉川八幡宮 当番祭(よしかわはちまんぐう とうばんまつり)について
吉川八幡宮(国指定重要文化財)・吉川八幡宮当番祭(県指定重要無形民俗文化財)
京都の石清水八幡宮の別宮として、平安時代中期に創建されたと伝えられる国指定重要文化財です。当番祭は県下三大祭りの一つであり、約1ヶ月続き、大祭のハイライトは、白装束の当番様による「走り競べ」です。
祭神 應神天皇、仲哀天皇、神功皇后
開催日 毎年10月1日~下旬 (大祭は第4日曜日)
内容
吉川八幡宮で毎年10月1日から10月下旬まで1ヶ月近く続く秋の大祭で、古代から伝承された民衆的な祭りでもあり、日本的な感傷やユーモアを祭りの全体を通して伺い知ることができる文化的価値の高い祭りです。
当番祭とは「訪問する最初の祭り」という意味であり2社以上の八幡宮の氏子互いに訪問し合い、氏子の反映と豊穣を神に祈り同族の絆を深める祭りです。
祭りは「当ざし」という神事で吉川地区の男児(10歳前後)を神社の南北から1人づつ選ばれた候補者の氏名を書き込んだ紙片を丸めて三宝にのせ、宮司祝詞を奏でながら御幣によってつり上げ、当人を決めることから始まります。
10月第3土曜日には「垢離(こり)とり(心を守る)」で当番が神人になり、後日神の降臨をあおぐ「はくけ」という工作物を当番の家の庭に作り、古式にのっとり諸神事を行います。
第4土曜日が宵祭、第4日曜日に大祭が行われ、当家で着飾った馬に乗った当番を中心とした行列が神社に参拝し祭りのクライマックスである「走り競べ」の行事を行います。大祭翌日の「はくけあげ」の神事で昇神し、当番が俗人にかえり、祭りが終わります。吉備中央町 教育委員会事務局 生涯学習班HPより
https://www.town.kibichuo.lg.jp/site/kanko/34.html
岡山県指定重要無形民俗文化財(昭和三十四年三月十八日指定)
吉川八幡宮 当番祭(とうばんまつり)
当番祭は古代から伝承された庶民の民衆的な祭りであり日本的感傷やユーモアが祭りの全体を通して伺い知ることが出来る極めて文化的価値の高い祭りである。
十月一日の当指し(とうざし)から始まり十月二十六日の大祭、翌日の波区芸揚げ(はくけあげ)と一カ月にわたる長期の祭である。(平成二年から大祭日を十月の第四日曜日とした。)当番祭とは「訪問する最初の祭」という意味であり、二社以上の八幡宮の氏子が互いに訪問し合い、氏子の繁栄と豊穣を神に祈り、同族の親睦と 絆を深める祭りである。当指しによって十才前後の男児二人を 当番(当人)とし、垢離取り(こりとり)(心を守る)という神事によって神人となり祭りの主役をつとめる。
当番の家では庭に「波区芸」を建てて神の降臨を仰ぐ施設を作る。祭りの中心的なシンボルである。
宵祭りの前日には、境内のかりやうつの地に当番一行が落ち着く仮の施設(仮屋)を設ける。
大祭日、当番一行は乗馬姿の当番様を守りつつ八幡宮へ参詣し、仮屋で参拝者から祝福を受ける。やがて神事、式典が行われ、午後は四〇〇m離れた旅所までの御神幸があり、最後は当番、供人の走り競べがあって、祭りのクライマックスとなる。
翌日、波区芸揚げの行事で、当番は紳界から俗界に戻り大祭の全てを終了する。
吉備中央町教育委員会境内案内板より
吉川八幡宮 当番祭(とうばんまつり) 境内のかりやうつの地
宵祭りの前日には 境内のかりやうつの地に当番一行が落ち着く 仮の施設(仮屋)を設ける
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
岡山自動車道 岡山米子線 賀陽ICから R484号 岡山中部縦貫道路を東へ 約7.6km 車10分程度
吉備環状線を右折〈東南へ〉県道307号右折〈南へ〉すると社頭へ出ます
社号標には 縣社 八幡神社 とあり なだらかな石段に鳥居が建ちます
吉川八幡宮(吉備中央町吉川)に参着
一礼をして 鳥居をくぐります
隋神門〈檜皮葺きの八脚(やつあし)門〉の扁額には 吉川八幡宮 と記されています
隋神門をくぐると 社殿は南東向きに鎮座します
拝殿〈元治元(1864)年建造 切妻造り 妻入栩葺きの縦長拝殿で海老虹梁で本殿と繋ぐ〉にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
額が架かり 神は心を見る と記されています
拝殿の奥に本殿が鎮座します
本殿は 国の重要文化財です
国指定重要文化財
吉川八幡宮本殿
大正14年4月24日指定五間三間入母屋造の本殿の屋根は厚板を葺いた栩葺(とちぶき)で、室町時代の応永2(1395)年に建てられたと言い伝わる。
正面の向拝(こうはい)と呼ばれる部分は、江戸末期元治元年(1864)に一新されている。地元で代々大切にされてきたため何百年たった今日でもその勇姿を目にすることが出来る。
平成8年から3ヵ年かけて、建物の部材をひとつひとつ丁寧に取り外し、建物のもつ長い歴史を尊重しながら痛んだところを直して再び組み立てる全解体修理が行われ、建立当初の姿に近い形でよみがえった。修理中一建築部材に、木材に鑿(のみ)を打ち、楔(くさび)で引き裂いて製材する古代以来使われてきた「打ち割り」技法の詳細がわかる痕跡がはじめて発見された。本殿を建てるときには、縦挽(たてび)きの鋸(のこ)が一切使われていない。
この本殿には、中世の建築の特徴が色濃く残されている。
吉備中央町教育委員会
現地案内板より
粋神門へと向かうと 仮屋の右側 隋神門の左 には 注連縄が廻された大檜(おおひのき)があり その横に小さな鳥居があります
鳥居の奥は「檜皮(ひわだ)の森」となっています 檜皮(ひわだ)は 立木の檜(ひのき)から採取した皮を使用した屋根瓦材です この檜(ひのき)が繁茂しています
社殿に一礼をして 隋神門を戻ります
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
『式社考』を参照として 式内社 古郡神社の所在は 惣社より二里の槇谷村 と記しています
【抜粋意訳】
古郡(フルコホリ)神社
考 今在に 槇谷村に 惣社より二里
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の所在は 槇谷村と記しています
【抜粋意訳】
古郡神社
古郡は 布留古保里と訓べし
〇祭神詳ならず
〇日羽郷槇谷村に在す 式社考
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の論社は 三ヶ所ある
1.八田部村 四山宮山〈現 古郡神社(総社市総社)〉
2.槇谷村〈現 池田神社(総社市槙谷市井谷)〉
3.上房郡吉川村〈現 吉川八幡宮(吉備中央町吉川)〉と述べています
この中で 1.八田部村〈現 古郡神社(総社市総社)〉であろうと 記しています
【抜粋意訳】
古郡神社
祭神 吉備武彦命
祭日 十一月一日
社格 明細帳には田部村なし 総社村字四山古那神社 村社とあり取調の事所在 八田部村 四山宮山(吉備郡総社町大字惣社)
今按〈今考えるに〉
古郡神社と云もの三所にあり 一は槇谷村 一は上房郡吉川村と本社と是なり
槇谷村は一も証とすへきものなく 八幡の末社 鉾振社と云を布古布里社と訛りしものなれば古郡神社にあらず 唯 神名帳頭注に備中國風土記云 賀陽郡 伊勢御神社 東有川 宮瀬川々西者 吉備建日子命 宮造 此三世王故 名宮瀬云々 永仁六年模寫の服部郷 古図に古郡里宮 妋里あり その図の欄外に山崎宮山と云ありて 八田部郷と服部郷と相接するを以て考るに この図に宮山と云る者 西山宮山是なり 宮山の以東は即 古郡里にして 山崎も宮山の南方の地名なるが 今に宮山山崎と云もの証とすへし故 今之に従う
【原文参照】
『備中誌(びつちゅうし)〈明治35~37年(1902~1904)〉』に記される伝承
槇谷村の条に 現在 池田神社(総社市槙谷市井谷)に合祀されている 古郡神社について 式内社の可能性を記しています
【抜粋意訳】
備中誌 賀陽郡 卷之七 槇谷村の条
古郡神社
延喜式神名帳に出 備中國十八社の一なり 是は非なりと 秀雄云り 文徳天皇 嘉祥四年正月庚子 正六位上 清和天皇 貞観元年正月二十六日従五位下
祭禮 十一月十七日
古代 古郡神社は上房郡今跡なし
山林一町二反余 本社一間四方 神子一人
【原文参照】
『備中誌(びつちゅうし)〈明治35~37年(1902~1904)〉』に記される伝承
式内社 古郡神社の所在について 上房郡 吉川村の条に 村内の地名の中に 布郡(ふこほり)という所があり そこが式内社ではないだろうか と記しています
【抜粋意訳】
備中誌 上房郡 卷之壹 吉川村八幡宮の条
吉川村八幡宮
・・・・・・
・・・・・・
当村枝村八名あり 其の内に布郡と云う處有り 疑らくは 延喜式に載る處 古郡社ならんか
・・・・
【原文参照】
吉川八幡宮(吉備中央町吉川)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)