龍田神社(たつたじんじゃ)は 第10代 崇神天皇の御代 年穀の凶作が続いた時 帝自ら卜占をもって占い 天神地祇を龍田山の聖地に祀られたことに始まり 後 推古14年(606)2月25日 聖徳太子が 白髪の老人に化身した龍田大明神に「斑鳩(いかるが)の里こそ仏法興隆の地」とのお告げを受け 法隆寺を建立した 鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
龍田神社(Tatsuta shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
〈東本殿〉(龍田大社の分霊)
《主》天御柱大神(あめのみはしらのみこと)〈龍田大神〉
国御柱大神(くにのみはしらのみこと)〈龍田大神〉
〈西本殿〉
《配》龍田比古大神(たつたひこのおほかみ)〈天御柱命〉
龍田比女大神(たつたひめのおほかみ)〈国御柱命〉
〈東社殿〉三大神
〈西社殿〉瀧祭大神(たきまつりのおおかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・五穀豊穣、息災長寿、天地萬有厄除の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒沿革
産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱之大神、国御柱之大神の二荒魂と、龍田比古之大神、龍田比女之大神、陰陽二柱の皇神である。雨風を鎮め水難、疫病を防ぐ神と楓・桜などの四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿、天地萬有厄除の神である 延喜式神名帳所載の龍田地主大神である。他に末社として十二社を祀る。
十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を龍田山の聖地に祀られた。後に聖徳太子が推坂山で法隆寺建立の地を指示された龍田大明神を法隆寺の守護神として鬼門除神として法隆寺建立と同時に御廟山(錦ヶ丘)南麓の地に移し祀られた(聖徳太子伝私記より)。
中世は法隆寺より別当坊三十口を給い、龍田三十講、平群四十八郷の産土神にして荘厳なる祭儀を行った神宮である。
社頭の案内板より
【由 緒 (History)】
龍田神社護持ご奉賛のお願い
龍田神社は、聖徳太子が法隆寺を創建さ札る時 龍田御南廟山の南麓の地に守護神としてお祀りされた神社であります。
風雨を鎭め水錐、疫病を防ぐ神様、五穀豊穣、息災長寿、天地万有厄除けの神様、学問、体育の神様、西宮戎神社より分祀されました龍田戎神社等十二社をお祀りしています。
法隆寺と並び称される由緖ある龍田神社は、千四百年にわたり、人々から厚い 信仰を受け崇敬されてまいりました。
私たちの祖先が築き護ってまいりました神社建物も拝殿を除くその他の建物は、非常に老朽化が進み修復が必要となってまいりました。
そこで、龍田神社の護特とご神徳を悠久に奉賛する目的の会を、神社ご神紋の八葉の楓にちなみ「龍田神社神楓会」と名付け乎成十三年八目に創設致しました。
本趣旨をご理解いただき、地元はもとより多くの方々の暖かいご奉賛を懇願申し上げます
奉賛申込書は社務所に用意致しておリます。
平成十三年十目吉日龍田神社神楓会 会長 田中輝彦
龍田神社氏子総代会長 竹本好美
籠 田 神 社 宮司 福原敬子事業の内容
ー、社務所の改築
二、神饌所、宝物車の改修
三、参拝者受付所の新建築現地案内板より
由緒
産土神、風宮龍田神社の御祭神は天御柱大神、国御柱大神の二荒魂と龍田比古大神、龍田比女大神、陰陽二柱の皇神である。風雨を鎮め水難・疫病を防ぐ神と 楓・桜等の四季を司る神を祀る。五穀豊穣、息災長寿天地萬有厄除の神である。延喜式神名帳記載の龍田地主大神である。他に末社として12社を祀る。
大和川の北岸、風光明眉な楓の竜田川の北東の神奈備、御廟山の南麓に鎮座し敬神の中枢である。
十代崇神天皇の御代に年穀の凶作が続いた時、帝自ら卜占をもって占い、天神地祇を「朝日日照處、夕日日陰處」竜田小野である龍田山の聖地に大宮柱太敷立鎮座された。
たまたま聖徳太子(16才)が法隆寺建立を企てられ橘の京から来られて平群川(竜田川)の辺りに伽藍建設地を探し求められた。その時聖徳太子は椎坂山で白髪の老人に顕化した竜田大明神に会い、まだらばと(斑鳩)で指示して貰った地を法隆寺建設地とされた。即ち「こゝから東にほど近い処に斑鳩の里がある。そここそ仏法興隆の地である。吾また守護神となろう。」依って太子は法隆寺建立と同時に御廟山南麓の地に鬼門除神として竜田大明神を移し祀られた。
その后、法隆寺より法施僧(別当坊)30口(30人)を給ひ、竜田三十講、平群四十八郷(当時の平群四十八郷は現在の生駒郡、郡山市も含む)の産土神として荘厳なる祭儀が執り行なわれた。(聖徳太子伝私記)
それで法隆寺は竜田神社の社務を管理してきたもので、神社の由緒、祭礼、神田等法隆寺の記録に出ている。
中世の有様は「嘉元記」に竜田参りや、田楽、猿楽について詳しく伺われる。
一説に能楽発祥の地とする学者もある。中世は現在の建物の外に、東には塔と経堂があり、門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊、等各坊屋敷が集っていた。拝殿の東側には神仏分離の時代に醍醐へ持って行かれた胎金堂(大日堂)があった。楼門の西には北房、いなばや、与三郎屋、その他鐘楼、とかり屋、みさと屋、観音堂、高安座等十二座等あり、荘厳、広大な規模を持った神宮寺であった。(神社古図)
歴代天皇の崇敬殊に厚くしばしば勅願の御寵遇を受けたのもむべなるかなといえる。古来より竜田は神代の竜田として紅葉の勝地でもある。萬葉の御代よりかくれた静かなこの旧蹟を、この神社を訪れる文人、歌人の雅客は絶えない。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
〈境内西側の境内社〉
・〈正面の一番奥〉白龍大神
・〈向かって鳥居の右〉〈3社合殿〉・広瀬神社・粟島神社・祇園神社
・〈向かって鳥居の左〉事代主神(恵美須)
・〈向かって左端〉小祠一宇
・正一位稲荷大明神 楠大明神
・ソテツの巨樹
県指定天然記念物
ソテツの巨樹
昭和三十二年六月十三日指定
ソテツは雌雄異株の裸子植物で、分岐の少ない円柱状の茎に、大形で羽状の葉を茎頂にむらがらせてつける。成長すると高さ数 mにもなる常緑樹で、熱帯から亜熱帯にかけて分布し、その一部は九州南端にも自生している。
雄花も雌花も大形で茎頂につけるが、暖地でなければほとんど花をつけることがなく、近畿ではまれに八月頃に見られる。
このソテツの巨樹は植栽されたもので、東西に二株あり、根元の総周囲は約五.七mに達する。茎頂にはしはしば雄花を付けている。
平成十一年三月 奈良県教育委員会現地看板より
・金剛流發祥之地
金剛流は、能楽シテ方の一流で、大和猿楽四座(結崎・円満井・外山・坂戸)のうちの坂戸座を源流とする。
坂戸座は、その名称を法隆寺周辺部にあった古代郷で、おおむね現 斑鳩町の並松・五百井・服部・竜田・小吉田・稲葉車瀬・神南付近を範囲とする坂戸郷に由来し、古刹法隆寺に所属して発展をみた猿楽の座である。
中世の法隆寺付近には、法隆寺東郷・西郷が成立しており、その郷民たちの精神的紐帯として祀られた竜田神社を中心に、竜田市が栄えていた。「法隆寺々要日記」によれば、覚元元年(一二四三)にはこの市の守護神として、摂津西宮から戎神が勘請され、その祭礼に郷民自身による猿楽が演じられたとある。
法隆寺付近の郷民たちは、竜田市の経済力を背景に強固な自治組織を生み育て、祭礼に彼ら自身が芸能を演じて楽しむとともに、彼らのなかで法隆寺に所属し、大和一円で活躍した専門の猿楽集団である坂戸座が育てたのである。
よってここに金剛流発祥之地の碑を建てる。現地案内板より
スポンサーリンク
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・奈良街道と当麻街道
奈良街道(ならかいどう)と当麻街道(たいまかいどう)(近世の道)
奈良街道は、大坂と奈良を結ぶ街道として栄えました。大坂からは奈良街道・奈良からは大坂街道と呼ばれ、この街道筋の龍田は、浪速・奈良・伊勢・当麻への分岐点として龍田神社を中心に商家・旅籠が軒を並べ、西和地方の商業の中心でした。
街道筋の龍田は、郡山(こおりやま)に次ぐ宿場町として栄えました。そのにぎわいは、「龍田宮前はかいでもきれいな宿屋の女がスソではく」とまで歌われ、当時の繁栄ぶりがうかがえます。
また、当麻街道は信仰の道として、法隆寺・当麻寺とを結んでいました。
当麻からは法隆寺参りの道と呼ばれ、法隆寺からは当麻参りの道と呼ばれていました。
この街道の分岐点の龍田神社から南の小吉田(こよしだ)・稲葉車瀬(いなばくるませ)・神南(じんなん)にかけては、往時のなごりを残す道標が多く残されています。社前の掲示板より
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
大和國 平群郡 龍田比古龍田比女神社二社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)平群郡 20座(大12座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 龍田比古龍田比女神社二社
[ふ り が な ](たつたひこ たつたひめの かみのやしろ ふたやしろ)
[Old Shrine name](Hirosenimasu wakaukame no mikoto no kamino yashiro)
【原文参照】
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 大和國 平群郡 龍田比古龍田比女神社二社(たつたひこ たつたひめの かみのやしろ ふたやしろ)の論社について
龍田大社は゛龍田本宮゛
龍田神社は゛龍田新宮゛と呼ばれ その関係は深く
龍田神社は ゛龍田大社の御旅所゛であった事もあり 明治4年(1871)龍田大社の摂社となったが 大正11年3月(1922)龍田大社から独立 近代社格制度の縣社に列した
式内社 大和國 平群郡 龍田比古龍田比女神社二社には 龍田大社の内陣に鎮座する摂社 龍田比古神社・龍田比売神社とともに 論社となっています
・龍田神社(斑鳩町龍田)
・龍田比古神社・龍田比売神社(三郷町立野南)
〈龍田大社の摂社 内陣に鎮座〉
【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大和路線 法隆寺駅から北西方向へ約2.1km 車10分程度
龍田神社(斑鳩町龍田)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には
三棟の〈東社殿〉〈東西本殿〉〈西社殿〉が並び鎮座します
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について ゛龍田町に在す、今新宮と称す゛〈現 龍田神社(斑鳩町龍田)〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田比古龍田比女神社二座
龍田は前に同じ、比古比女は假字也、
○祭神 立野坐神に同じ
○龍田町に在す、今新宮と称す、○祈年穀廿二社本宮に准ず
諸社根元記、龍田條 又云、龍田比古龍田比女神社とのみあり、廿一社記、廿二社本緑、同注式共に詳ならず、』
祝詞考に、天御柱國御柱の二神と、龍田彦龍田姫二神を、神名式に別に挙ケ、今も別社に齋奉るは、和魂荒魂のよしか、又一神も二名おはするは、其功に依て、別に齋ふ類ひなるか云々、右は別神にはおはさざる也、と云るは然るべし、尤立野坐神の和魂なるべし、考証に、四坐同宮地、今法隆寺坤別称龍田者離宮也、大和志にも、倶在立野村云々、神幸之地、在龍田村舊名御憩所、今建小祠稱曰 新宮、と云る共に據を知らず、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について ゛天御柱國御柱社の右に在り゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)の摂社〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田比古龍田比女神社二座
今 天御柱國御柱社の右に在り、大和志、神名帳考、
蓋 風神を祭る、萬葉和歌集
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 龍田比古龍田比女神社二座について゛立野村゛〈現 龍田大社(三郷町立野南)の摂社〉と記しています
【抜粋意訳】
龍田比古龍田比賣(タツタヒコタツタヒメノ)神社
祭神 龍田比古ノ神
龍田比女ノ神祭日
社格
所在 立野村
【原文参照】
龍田神社(斑鳩町龍田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)