楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 白鳳時代(645~710年)の往昔 出雲国から丹波国を経て当国〈但馬國〉で栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が 遠祖 彦狭知命を楯屋丘 多田谷に祀ったのが始りと伝わる 延喜式内社 但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)です 昭和22年(1947)現在地に遷座奉祀されました
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
楯縫神社(Tatenui shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木677-1
〈兵庫県城崎郡日高町鶴岡字保木677-1・〉
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
楯縫神社
《主》彦狭知命(ひこさしりのみこと)
《相殿》八幡宮
《相》誉田別命(ほんだわけのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
敬神之碑
楯縫神社
御祭神
彦狭知命(ひこさしりのみこと)兵庫県城崎郡日高町鶴岡字保木677-1番地 鎮座
白鳳時代 今から千三百年の往昔
出雲国から、丹波国を経て当国で、栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が
遠祖(とおつおや)彦狭知命を
楯屋丘(たてやのおか)多田谷にまつる。
西暦一九四七年 此地に遷座奉祀す八幡宮
御祭神
誉田別命(ほんだわけのみこと)
息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)
西暦一九四七年 合祀す稲荷社
御祭神
保食神(うけもちのかみ)現地石碑文より
【由 緒 (History)】
由 緒
白鳳時代(645~710)の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷にまつる。
昭和22年(1947)、此地に遷座奉祀す。
2008 兵庫県神社庁HPより
https://www.hyogo-jinjacho.com/data/6322216.html
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・楯縫神社 社殿
・〈境内社〉稲荷社
《主》保食神(うけもちのかみ)
・鳥居
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・旧鎮座地 楯屋丘(たてやのおか)多田谷(たたのや)
多田谷(たたのや)は 楯縫氏の楯屋の転訛とも云う
現在の楯縫古墳辺り
『但馬地誌略』に記される内容
【抜粋意訳】
壽留喜嶽は 郡の東南隅 蓼川の南岸に聳え、此の郡及び 出石 養父の三郡に跨る、高山なり、
其山脈續きて八幡山となる、此の山頗る高峻たらすと雖も、往昔 下津谷 伯耆守の居城なり、今に古城趾を存す、鬱林中に井田神社、楯縫神社を鎮坐す、山下に一小邑あり、多々谷と云ふ、
是より北して上ノ郷 中ノ郷 引野、土淵、加陽、清冷寺、八社宮等 蓼川の東邊に連れり、河の両邊の景色頗る風致、此の河往時 氣多川と呼びしが、嘗て源頼光任を受けて国府に在りしき、頌歌せしを以て此名あり、上ノ郷に大己貴神を祭る氣多神社と名く、社格は郷社なり、其背後に一城跡あり、赤木ノ城と云ふ、・・・・
【原文参照】
・井田神社(豊岡市日高町鶴岡字城山)
〈楯縫神社は 明治15年以降 円山川対岸の井田神社に合祀されていました
昭和22年(1947)現在の(豊岡市日高町鶴岡字保木)に遷座しました〉
井田神社は
延喜式内社 但馬國 氣多郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式巻7 神祇七 践祚大嘗祭』に記される伝承
践祚大嘗祭で用いる神楯4枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めています
【抜粋意訳】
延喜式巻七 神祇七 大嘗祭式 神楯戟条
大嘗宮の南北門には神楯4枚・戟8竿を立てること
その寸法は本条規定のとおり
これは左右衛門府が9月上旬に太政官に申請し兵庫寮をして作製し備えよ なお 楯は丹波国の楯縫氏 戟は紀伊国の忌部氏が作製し 祭祀終了後には衛門府に納めよ
又 朱雀門・應天門・会昌門に立てる大楯6枚・戟12竿も 同じく兵庫寮が修理すること
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)気多郡 21座(大4座・小17座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 楯縫神社
[ふ り が な ](たてぬいの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Taterui no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
楯縫神社の祭神 彦狹知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
『日本書紀』では 彦狹知命は 紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)〈楯縫連の祖神〉とされ
彦狭知神は 盾を作る 作盾者(たてぬい)と記されます
【抜粋意訳】
巻第二 神代下 第九段 第二 一書
時に
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が 大物主神(おほものぬしのかみ)に勅された
「汝(なんじ)が もし国神(くにつかみ)を妻とするなら 吾(われ)は汝(なんじ)が まだ疏心(うときこころ)〈揺れ動く心〉があると思う それ故 我が娘の三穂津姫(みほつひめ)を 汝に娶あわせ 妻とさせたい 八十万神(やおよろずのかみ)を率いて 永く皇孫(すめみま)を守り奉りなさい」そして 還り降らせられた(地上に戻された)紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)
手置帆負神(たおきほおいのかみ)を 笠を作る「作笠者(カサヌイ)」とされた
彦狭知神(ひこさちのかみ)を 盾を作る「作盾者(タテヌイ)」とされた
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を 「作金者(カナダクミ)」〈鍛冶〉とされた
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を 作木綿者(ユウツクリ)とされた
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を 作玉者(タマツクリ)とされた太玉命(ふとたまのみこと)を 弱々しい肩に太手繦(フトタスキ)をかけて 「御手代(ミテシロ)」とされた
この神を祀るのは これが始まりです天児屋命(あめのこやねのみこと)は 神事を司る宗源者(モト)なり
だから 太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)をして神事に参加された高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して曰く
「吾(われ)は 天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を樹(たてて)吾孫(すめみま)に斎奉(いつきたてまつる)
天兒屋命と太玉命は 天津神籬(あまつひもろぎ)をもって葦原中国(あしはらなかつくに)に降りて 吾孫(すめみま)を斎奉(いつきたてまつり)なさい」そして 二神をそえて従わせ遣わし 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を降らせられた
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
神代段は 父神 手置帆負神と共に 天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し 御笠・矛・盾を制作したと記され
神武天皇段にも 再び父神と共に 太玉命の孫・天富命に率いられて山から木を伐採し 神武天皇の正殿を造営し また その末裔は紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいると記しています
【抜粋意訳】
古語拾遺 一巻 神代段
一(ひと)は聞くところによると 天地の初め伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の二神は共に夫婦と成り 大八州国(オオヤシマノクニ)及び山川草木を生み 次に生まれたのは 日の神と月の神 その後に 素戔嗚神を生まれた 素戔嗚神は常に激しく泣き喚いていた
故に 人民(ひとぐさ)を夭折(あかにさま)にし 青山は枯山と成り 父母の二神は 勅(みことのり)して曰く 汝の行いは無道(あるべきみち)ではない 早く根の国に退去しなさい」天地が別れ 初めに天で生まれた神の名は 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
次に 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古語では 多賀美武須比 これは皇親神留伎命(スメラカムツカミルキノミコト)]
次に 神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは 皇親神留彌命(スメラカムツカミルミノミコト)で この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の祖先]高皇産霊神が生んだ娘の名は 栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖 天津彦尊の母なり]
其の男子の名は 天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖]
又 男子の名は 天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]太玉命の率いる神の名は 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐国の忌部の先祖]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊国の忌部の先祖]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲国の玉作りの先祖]
天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)[筑紫・伊勢の両国の忌部の先祖]
【原文参照】
【抜粋意訳】
高皇産霊の神は 八十萬(ヤヲヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集め 今後の方策を議論された
思兼神(オモイノカネノカミ)が 深謀遠慮して「太玉神(フトタマノカミ)に諸部神(トモノオノカミ)を率いて 和幣(ニギテ)を作らせ
石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で 作鏡(カガミツクリ)の遠祖]に 天香山(アメノカグヤマ)の銅(アカガネ)を取り 日像(ヒカタ)の鏡を鋳(い)させ
長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢国の麻績(オミ)の先祖 今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの由縁]に麻を植え 青和幣(アオニキテ)[古語は爾伎弖(ニキテ)]
天日鷲神(アメノヒワシノカミ)と津咋見神(ツクヒミノカミ)とに 殻(カヂ)の木を植えせ 白和幣(シロニキテ) [是は木綿(ユフ) その前の二つのもの(麻・殻)は一夜で生い茂りました]
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖]に 文布(シツ)を織らせ 天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせ 所謂、和衣(ニギタエ)[古語は 爾伎多倍(ニギタヘ)と言う]
櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に 八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ
手置帆負(タオキホオヒ)と彦狹知(ヒコサシリ)の二柱の神に 天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名]を使って 大峡・小峡の木を伐り瑞殿(ミヅノミアラカ)を造り[古語は美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う]また 御笠と矛盾を作らせました
天目一箇神(アマノメヒトツカミ)に 雑(クサグサ)の刀(タチ)・斧(オノ)、また、鐡(クロガネ)の鐸(サナキ)[古語は佐那伎(サナギ)と言う]を作らせ それらの物が揃ったら 天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古語は 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う]を堀って
上の枝には玉を掛け 中の枝には鏡を掛け 下の枝には青和幣・白和幣を掛け 太玉命に捧げ持たせて讃えさせ
また 天児屋命(アメノコヤネノミコト)に命じて 相共に祈祷させ また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古語は天乃於須女(アメノオスメ)と言う・・・
・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
神武天皇の段
天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫] は 手置帆負(タオキホオイ)と彦狹知(ヒコサシリ)の2柱の神の孫を率いて 斎斧(イミオノ)・斎鉏(イミスキ)を持ち 始めて山の木を採り 正殿(ミアラカ)を建てた 所謂 底津磐根(ソコツイワネ)に(ミヤハシラ)を建てて 高天原に届くほど搏風(チギ)は高く 皇孫命(スメミマノミコト)の御殿を作り 奉りました]
その末裔は 今は紀伊国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居ます[古語は正殿を麁香(アラカ)と言う]
木材を採取する斎部の居る所を 御木(ミキ)と言い 殿を造る斎部の居る所を麁香(アラカ)と言うのはその證です
【原文参照】
『延喜式927 AD.』に所載 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社について
延喜式内社 楯縫神社には いずれも 彦狹知命を祀るとする伝承があります 下記に現在の論社を記します
常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(稲敷郡美浦村木原)
丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)
但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(養父市建屋字宮山)
・齋神社(養父市長野字東山)
・楯縫神社〈齋神社の境内摂社〉(養父市長野字東山)
但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)
丹波國 多紀郡 川内多多奴比神社二座(かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)
・川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR山陰本線 江原駅から東へ円山川の西岸 約1.1km 車3分程度
参道入口にある社号標には゛式内 楯縫神社゛と刻字されています
右手の土手は 円山川です
楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)に参着
一礼をしてから 鳥居をくぐり 境内へ進みます
左手に 境内社の稲荷社があり 稲荷の赤鳥居が立ち並びます
拝殿にすすみます
拝殿には扁額が2枚あり 左に「楯縫神社」右に「八幡宮」
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 楯縫神社について 祭神・所在については不祥と記されています
【抜粋意訳】
楯縫神社
楯縫は 多天奴比と訓べし
〇祭神 在所詳ならず
〇當國 養父郡楯縫神社もあり
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 楯縫神社について 祭神は゛丹波 楯縫氏の祖 彦狭知命を祀る゛
所在は゛今 多々野屋村にあり、゛〈現 楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)の旧鎮座地 楯屋丘(たてやのおか)多田谷〉と記されています
【抜粋意訳】
楯縫(タテヌヒノ)神社
今 多々野屋村にあり、〔神社明細帳、神社道志流倍、〕〔〇按 多々野屋は、楯の屋にて、楯縫の轉語に似たり〕
盖 丹波 楯縫氏の祖 彦狭知命を祀る、〔日本書紀、延喜式大意〕
凡 其祭 三月十六日を用ふ、〔神社明細帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 楯縫神社について 祭神は゛彦狭知命゛
所在は゛多田屋村〔字山口〕゛〈現 楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)の旧鎮座地 楯屋丘(たてやのおか)多田谷〉と記されています
【抜粋意訳】
楯縫神社
祭神 彦狭知命
祭日 三月十六日
社格 村社所在 多田屋村〔字山口〕
今按 式社道志流倍に 多田屋は楯の屋の義なりと云り さもあらんか恐らくは 楯縫の轉訛なるべし 本社所在の證とするに足れり
【原文参照】