玉諸神社 奥宮(たまもろじんじゃ おくみや)は 社伝によれば かつて高さ7尺 周囲6尺8寸の水晶の玉が神体として祀られおり この神体が神社名の由来と云う 玉諸神社(甲州市塩山竹森)の北東約600m竹森山(水晶山)中腹に奥宮として鎮座する 延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社です

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目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
玉諸神社 奥宮(Tamamoro shrine okumiya)竹森山(水晶山)中腹
【通称名(Common name)】
・玉宮大明神(たまみやだいみょうじん)
【鎮座地 (Location) 】
山梨県甲州市塩山竹森 扇山(別名・竹森山・水晶山)
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天羽明玉命(あめのはあかるたまのみこと
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
玉宮大明神
当地は、往古より「玉の井の郷」と称し 倭名抄に東郡の郷名となる。とあり 更に 社中に 玉の井の云う池あり郷名の起る所是なりとある如く 近隣の里に先駆けで展けた土地柄である。
当社は 玉宮大明神と称し 鎮座の年代は不詳であるが社記によれば、往古より竹森村及び福生里村 両村の鎮守にて 御代々様 御朱印 御黒印頂戴したとあり 更には 相伝延喜式内社として載つており その祭神は 天羽明玉の命で 御身体は 水昌の玉石で 高さ七尺余 上六角 大きさ六尺八寸ある。
本殿は記録によれば 又 甲斐源氏の祖 新羅三郎義光造営 以来幾世代に旦り造営言々と由結深き社殿であったが その老朽化に伴い 昭和六十一年及び昭和六十二年にかけて源型そのまゝに改築したものである。現地案内板より

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【由 緒 (History)】
『甲斐志料集成』2〈昭和7~10年〉に記される内容
【抜粋意訳】
玉室祠(タマモロノヤシロ) 竹森村
社領二石餘 祭神は天羽昔玉命(アマノハアキタマノミコト)なり 鎭座の始は詳ならす。當社を延喜式に載たる玉諸神社なりといへども、同社他にも數多あれは、孰れをいづれと决めかたし。神殿に水品 高七尺餘 周回(メグリ)六尺八寸許なるあり これを神體と齋(イハ)ひ奉るといへり。每年十一月申酉の日 祭祀ありて是を烏乞(トリコヒ)の神事と云。申の刻ばかりに白烏(シロキカラス)必らす飛來(トビキタ)り供御(グゴ)を哺(ク)ひもて去(ユ)く。土人(サトビト)これを見て翌年の豊凶 又 物價の貴賤(タカヒク)をも占(ウラナ)ひしるといへり。
神垣もかがやく玉の光をそ身の行末にかけて賴まん。 武田信重朝臣
あとたれし神の惠も世にしるく玉の光のかずも添ゆく。同
【原文参照】

甲斐志料刊行会 編『甲斐志料集成』2,甲斐志料刊行会,昭和7至10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1240826
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・境内地 竹森山(水晶山)は 竹森水晶の産地
玉諸神社の奥宮は 山梨県甲州市塩山竹森の竹森山(水晶山)の中腹に鎮座しています この地域は水晶の産地として知られており 江戸後期から明治にかけて竹森村と呼ばれていました 神社の御神体は水晶の玉石で 高さは約7尺 6角形の形状を持ち 延喜式神名帳に所載の論社です 現在 神社周辺は雨宮氏の私有地となっていますので ご注意ください
竹森水晶産地の概要
〇鉱石 草入水晶
無色透明、電気石を包有することが多く、すすき水晶と称される、緑色苔状鉱物を包有するものは、「草入水晶」と称される。〇沿革
明治5年(1872)に探掘の第一歩が行われた。(故雨宮大吉氏)
大正、昭和初年にかけて、壌堀規模を増し、〇材〇科に甲府市の供した。
昭和10年(1935)頃 東京市内の旧制中学校の鉱物兵法にした水晶(長さ5~8cm)を提供。〇位置
山梨県塩山市竹森 中央線塩山駅北方3km小倉山(955m)西山腹
現地より15分水晶山主 塩山市竹森1425番地 雨宮 愼
玉諸神社(甲州市塩山竹森)近くの案内板より

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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・本宮〈里宮〉
・玉諸神社(甲州市塩山竹森)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)甲斐國 20座(大1座・小19座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)山梨郡 9座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 玉諸神社
[ふ り が な ](たまもろの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tamamoro no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 甲斐國 山梨郡 玉諸神社(たまもろの かみのやしろ)の論社について
・玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)
〈玉諸神社(甲州市塩山竹森)の奥宮(御神体)〉
・玉諸神社(甲州市塩山竹森)
・玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉
・玉諸神社 拝殿跡(甲府市善光寺)
〈月見山 別名を゛御室山゛の遥拝所〉
・御室山の山頂 石祠(玉諸社)(甲府市酒折町)
〈月見山 別名を゛御室山゛玉諸神社(甲府市国玉町)の当初の鎮座地〉
・柴宮神社(甲府市善光寺)〈御室山の山頂 石祠(玉諸社)の合祀先〉
〈月見山 別名を゛御室山゛の山頂 石祠(玉諸社)を合祀〉
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
・玉諸神社(甲州市塩山竹森)から北西方向へ約700m程 徒歩で15分程度
扇山(別名竹森山、水晶山)中腹から 里宮である玉諸神社(甲州市塩山竹森)振り返ります

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参道の入口はわかりづらいですが 獣除けの扉が設置されていましたので 開け閉めをしてから 進みます

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参道のような 林の中のような 竹森山(水晶山)中腹です

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社殿が見えてきました
玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)に参着

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 玉諸神社について 所在は゛甲斐名勝志云、竹森村 玉室明神゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記され
別の説として゛國玉村 国玉明神、゛〈現 ・玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉〉
この゛國玉村 国玉明神、゛の旧鎮座地は゛往昔 酒折の御室山に鎮坐あり゛〈現 御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〈旧鎮座地〉〉と記しています
【抜粋意訳】
玉諸神社
玉諸は多麻毛呂と訓べし
○祭神 在所等詳ならず
甲斐名勝志云、竹森村 玉室明神、祭神 玉屋命也、〔叢記云、天羽国玉命也、〕
相傳 延喜式所載 玉諸神社也、社壇の中に大なる水精(すいしょう)あり、周廻五尺許高七尺許、地中より出たり、社中に水精(すいしょう)数多あり、
傳聞 陸奥國金華山に大なる水精あり、高十余丈、然れども色黒しと云、其水精の大なるは、此社より大なるはなしと云傳ふ、』又云、國玉村 国玉明神、〔三宮と称す〕祭神 大國魂神也、〔参考亦同〕
相伝 延喜式所載 玉諸神社也、往昔 酒折の御室山に鎮坐ありしを、何れの頃か此地に遷し祭る、今 御室山に玉諸明神の小祠あり、』〔蓮胤〕云、両説未執れかしらず、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 玉諸神社について 所在は゛今 竹森村に在りて、玉室大明神といふ゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記されます
【抜粋意訳】
玉諸(タマモロノ)神社、
今 竹森村に在りて、玉室大明神といふ、神殿に地中より生出たる高七尺 徑六尺八寸の白玉あり、祀て以て神体とす、〔甲斐名勝志、甲斐國志、神名帳考土代、〕
凡 十一月 甲酉の日、島乞神事を行ふ、〔甲斐國志〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第12−14巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815496
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 玉諸神社について 所在は゛竹森村〔字鳥坂〕(東山梨郡玉宮村大字竹森)゛〈現 玉諸神社(甲州市塩山竹森)〉と記し その奥宮について゛奥宮の神體は 高七尺餘の地中より突出たる水精゛〈現 玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)〉と記されます
その他二説を挙げて
゛國玉村の國玉明神゛〈現 玉諸神社(甲府市国玉町)〈甲斐国三之宮〉〉
゛板垣村なるは御室山゛〈現 御室山〈大蔵経寺山〉(笛吹市春日居町)〉
この二説は付会であり 式社ではないであろう と記しています
【抜粋意訳】
玉諸神社
祭神
祭日 六月十四日 十一月中旬酉日
社格 郷社所在 竹森村〔字鳥坂〕(東山梨郡玉宮村大字竹森
今按 この社を玉宮明神と稱して天羽明玉命を祭ると云ひ
其 奥宮の神體は 高七尺餘の地中より突出たる水精(すいしょう)なるを以て 玉諸神社なることも知られ 又 社中一面に大小の玉石あり 皆 六角なりと云も いとよしありて聞るを
國玉村の國玉明神 板垣村の御室山なる神社ともいへど 國玉村なる祭神 大國魂命の玉と云より玉諸神社と唱へ 又 板垣村なるは御室山の室より 玉諸と付会せしにて 其は明和寛政の頃頻りに式社を争ふこと起りしよりのことなりと云へば 何れも式社ならぬこと顯然なり
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
玉諸神社(甲州市塩山竹森)について 式内社であり 郷社に列したことが記されています
【抜粋意訳】
〇山梨縣 甲斐國 東山梨郡玉宮村大字竹森組字烏尾坂
郷社 玉諸(タマモロノ)神社
祭神 天明玉(アメノアカルタマノ)命
創立年代詳ならざれども、廷喜式に山梨郡九座〔並小〕とある中の一座なる玉諸神社是れなり、「今 竹森村に在りて玉室大明神といふ、神殿に地中より生ひ出たる径六尺八寸の白玉あり、祀つて以て神體とす、
凡 十一月甲酉の日、鳥乞神事を行ふ、社中に水精(すいしょう)数多あり、傳へ云ふ、陸奥國金華山に大なる水精あり、然れども色黒し、眞水精の大なるは此社より大なるはなしと、〔神祇志料 神社覈録〕
又「玉諸神社、今云 竹森村玉太明神是也、豐城入彦命孫 御諸別(ミモロワケノ)命、土佐国 天石門別安國玉主(アメノイハトワケヤスクニタマモリ)神社、萬葉四云 玉主(タマモリ)」〔神名帳考証〕とも見え、現に竹森福生両村の産土神たり、
後冷泉天皇の康平六年癸卯 新羅三郎義光、及 文安元甲子年 武田刑部太輔信重、及 後孫昌昭 社造営の梁牌あり、
降つて徳川氏に至りても、黒印状を以て社領高一石一斗餘の寄附あり、更に慶安中 徳川家光 朱印状に改め社領二石餘を寄附せり、〔社記、甲斐国志、甲斐叢記、同名勝記〕霜月甲酉の日 社中二所に神幸す、之れを鳥乞神事と云ふ、申の刻に至り白鳥飛び来つて、供御を哺み去る、土人 之れを見て來歳の鼻款物價 の貴賤を占ふと云ふ、武田の歌とて社記に録せるあり、
「神垣にかがやく國の光をぞ身の行くすゑにかけて頼まん」
「あとたれし神の恵もよにしるく國の光のかずもそひゆく」
又 寳物としては、武田信重の奉納に係る太刀一口を藏せり、寛永二年十一月社殿再営、明治三年社領を上地し、同乙未年三月郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、渡殿等を有し、境内六百八坪(官有地第一種)にして風色絶佳なり。境内神社
大神宮 八幡社 天神社 疱瘡神社 秋葉神社 子安神社
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
玉諸神社(甲府市国玉町)について 式内社であり 郷社に列したことが記されています
別の説として゛然れども竹森なる玉明神゛〈玉諸神社(甲州市塩山竹森)〉についても式内論社であると記しています
【抜粋意訳】
〇山梨縣 甲斐國 西山梨郡國里村大字國玉村
郷社 玉諸(タマモロノ)神社
祭神 大國玉(オホクニタマノ)大神
本社は當国三ノ宮と称す、創建年代詳ならざれども古社たること著し、「延喜式 山梨郡 玉諸神社は 即ち当社なり〔社記〕
國主建立の社にして、武田信玄の時、尤も崇敬を極めたり、往昔は酒折の御室山に鎭座ありしを、何れの頃か此處に遷し奉る、今 御室山には小祠を置き、當社の旅所と爲せり、〔名勝志社記 甲斐国志〕
又「鎭座の義は年久敷義にて、篤と相知不申候、甲斐國惣鎭守一國の中央にて國の魂納め候處と申傳候、」〔甲斐国寺社由緒書抄〕
天正十年の乱に兵火に罹りて赤地となれり、翌年四月二十四日 徳川家康、國玉、巨世、上阿原、鹽部、酒依にて百三貰文を先規の如く社領として寄附ありて、舊に復する事を得たり、其後國主より数度造替へ修復等ありしと云ふ、」〔甲斐国志 甲斐叢記〕
社領は「三宮神領、甲斐國山梨郡国玉村之内、六拾一石三斗餘事、並社中 竹木諸役等、任ニ天正十一年四月二十四日、寛永十九年七月十七日両先判之旨 永不可有ニ相違者也、年月日」〔諸社朱印寫〕
日本寺社領員数記には六十六石とも見ゆ、当時の社運の隆昌なりしを推して知る可し「年中祭禮七十五度、総て公祭にして就中 夏冬両度の神幸、一ノ宮、二ノ宮同様なり、但し此神は古より馬に乗つて御幸する例なり、官兵杖を給ふと云ふ、」〔甲斐国志〕是れ蓋し徳川氏の崇敬に依りてなり、
相傅ふ、淳和天皇御宇天長二年(825)、白根嶽崩壊、洪水国中を浸し、當国再び湖水に化す、依つて詔を奉じ、本社並に一ノ宮 二ノ宮と倶に鎮水祭を行ふ、是れ此祭の起源なりと社記に見ゆ、神庫に蔵する所に貫文朱印状を始めとし、古文書宝物数十種あり、さて當社を式内社と認むるものは、巡舊神祠記に「玉諸神社同郡國玉村」とあり、又地名辞書に「舊趾は酒折の御室山に在りしを、中世 此處に移したりと説く、或は然らん、玉諸とは玉村、若しくは玉森の義にて、國の御魂の社に因める地名なる事想ふ可し」とありて、當社に賛せるあり、
然れども竹森なる玉明神の條に、萬葉玉主(タマモリ)を引證したる神明帳考證の説に近きは、竹森村の明神なるが如し、諸書 疑を存すれば暫く後勘を侯って決すべきなり、而して三ノ宮の號を綬けられしは、一條天皇なりと云ふ、明治初年社領を上地し、尋いて郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、幣殿、参籠所、神樂殿(徳川家康造立の社殿なりと云ふ)等を有し、境内千四百四十六坪(官有地第一種)にして、古樹鬱蒼、假山あり、地邊に紫藤を植ゑ、風趣多く、四時の詣者絡繹たり。
境内神社
神明社 浅間神社 美和神社 諏訪神社
琴平神社 疱瘡神社 天満宮 秋葉石尊神社
山神社
【原文参照】

明治神社誌料編纂所 編『明治神社誌料 : 府県郷社』中,明治神社誌料編纂所,明治45. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1088278
玉諸神社 奥宮(甲州市塩山竹森)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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