武内神社(たけうちじんじゃ)は 式内社 甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)の論社です 吾妻川沿いには 北面を吾妻川・南面を険しい山・東西の集落間を分断する「峡谷」を境界とした「島」状の3つの「島」と名が付く集落〈・箱島・祖母島・川島〉があり それぞれに論社が鎮座〈海神や川神を祀る神社は 三社構成が多いとする説〉その中央が祖母島(うばじま)です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
武内神社(Takeuchi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
群馬県渋川市祖母島499
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》建内宿禰命(たけしうちのすくね)
《配》宇気母智神(うけもちのかみ)
速須佐之男命(はやすさのをのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
始まりは
文安元年(1444)9月21日 川島の甲波宿禰神社より勧請と伝わる
【由 緒 (History)】
社号は
江戸時代までは゛宿禰大明神゛と呼ばれていた
明治2年(1869)武内神社と改称
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿・石祠群
・二の鳥居・天満宮など
・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
元宮とされる・甲波宿禰神社 古社地(渋川市川島)
文安元年(1444)9月21日
川島の甲波宿禰神社より勧請したことが始まりと伝
〈甲波宿彌神社(渋川市川島)の古社地〉
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
无位(無位)甲波宿禰神は 神階〈從五位下〉の奉授が 記されています
【抜粋意訳】
績日木後紀 巻十六 承和十三年(八四六)八月辛巳〈十二〉
○辛巳
奉授 上野國 群馬郡 无位 甲波宿禰神 從五位下
【原文参照】
『日本文徳天皇実録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承
甲波宿禰神は 官社に列します
【抜粋意訳】
文徳實録 巻二 嘉祥三年(八五〇)十二月庚戌〈甲辰朔七〉
○十二月庚戌
詔以 上野國 甲波宿禰神 列す 於に官社
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
甲波宿禰神は 神階〈正五位下~從四位下〉奉授が 記されています
【抜粋意訳】
三代實錄 巻十四 貞觀九年(八六七)六月廿日〈丁亥〉
○廿日丁亥
授 上野國
從四位下勳八等 貫前神從四位上
從五位上 赤城神 伊賀保神 並 正五位下
從五位下 甲波宿禰神 從五位上
【原文参照】
【抜粋意訳】
三代實錄 巻十六 貞觀十一年(八六九)十二月廿五日〈戊申〉
○廿五日戊申
授
陸奧國 五位上勳九等 苅田嶺神 從四位下
上野國 正五位下 赤城神 伊賀保神 並正五位上
從五位上 甲波宿禰神
近江國 從五位上 新川神 並正五位下
美濃國 正六位上 金神 從五位下勅令 五畿七道諸國 限以三日 轉讀金剛般若經 謝地震風水之 厭隣兵窺隙之寇焉
【原文参照】
【抜粋意訳】
三代實錄 巻二十八 貞觀十八年(八七六)四月十日〈丁巳〉
○十日丁巳
授 上野國
從四位上 貫前神 正四位下
正五位上 伊賀保神 從四位下
正五位下 甲波宿禰神 正五位上是夜 子時 大極殿 延燒小安殿 蒼竜白虎兩樓 延休堂及北門北東西三面廊百餘間 火數日不滅
【原文参照】
【抜粋意訳】
三代實錄 巻卅七 元慶四年(八八〇)五月廿五日〈戊寅〉
○廿五日戊寅
授 上野國
正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等
從四位下 赤城石神 伊賀保神 並從四位上
正五位下 甲波宿禰神 從四位下
正五位下 小祝神 波己曾神 並正五位上勳十二等
從五位上 賀茂神 美和神 並正五位下勳十二等
正六位上 稲褁地神 從五位下勳十二等内藏寮置寮掌二員 其衣粮 以藏部料内 給之
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)上野国 12座(大3座・小9座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)群馬郡 3座(大1座・小2座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 甲波宿禰神社
[ふ り が な ](かはすくねの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kawasukune no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 上野国 群馬郡 甲波宿禰神社(かはすくねの かみのやしろ)の論社
・甲波宿彌神社(渋川市川島)
・甲波宿禰神社 古社地(渋川市川島)
〈甲波宿彌神社(渋川市川島)の古社地〉
〈甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)と武内神社(渋川市祖母島)の元宮〉
・甲波宿禰神社(東吾妻町箱島)
・武内神社(渋川市祖母島)
・甲波宿禰神社(渋川市行幸田)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR吾妻線 祖母島駅から東へ約850m 車4分程度
吾妻川の゛吾妻(あがつま)゛と呼ぶのは 「吾妻(私の妻)アガツマ」からきていると云う
日本武尊(やまとたけるのみこと)が 自分のために海に身を投げた妻・弟橘媛(おとたちばなひめ)をかの地で偲び「ああ吾(あ)が妻(つま)よ」と嘆げいた伝説に拠っているとされます
『群馬郡村誌』によれば 竹内神社は 御祭神 日本武尊とされています
一方『式内社調査報告』には
甲波宿禰神社の論社 3つの鎮座地が・箱島・祖母島・川島と「島」のつく土地
さらに 3つはほぼ等間隔に しかも吾妻川に沿って並んでいる 海神や川神に関する神社は 三社構成であることが多い と記されています
しかし、何故 この山間の土地が゛島゛と呼ばれるのか?
不思議でしたが 下記を読んでよくわかりました
《群馬・渋川金島のみち―火山・河岸段丘・製鉄の風土》の歴史風景論
―司馬遼太郎『街道をゆく』に基づく「感性哲学」の応用実践として―
桑島 秀樹 広島大学大学院総合科学研究科
《群馬・渋川金島のみち―火山・河岸段丘・製鉄の風土》の歴史風景論 : 司馬遼太郎『街道をゆく』に基づく「感性哲学」の応用実践として - 広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)
【抜粋引用】
現在の県道に沿い、「登沢峡谷」のおおきく湾曲する近代的高架橋を通って「川島」へと入っていくのは、同じ「金島」内での移動ながら、左右に屈曲しながら断崖の縁にかかる高い橋を越えていくため、大きな「断絶」「結界」を越える感覚がある――じっさい幼少期の筆者は、自家用車でこの「峡谷」を通過する際、その大カーヴが与えてくる不可思議な重力荷を経験したし、傾く車窓から谷間を覗き込むのは怖かった。「川島」に入ると、この県道は見通しの利く直進道となり、次の「祖母島」に至るカーヴまで、ほぼ一直線に続いていく(現在、「祖母島」にいたる手前の上川島地区に県道と直交する上越新幹線の高架橋が見える)。
なお、「川島」から「祖母島」のあいだにも、やはり「大輪沢(おわんさわ)」という川があって、県道は上位段丘面の崖の縁を走りながら、「川島」と「祖母島」という二つの集落間を分断する「峡谷」を越えていく。その地名の示すとおり、「川島」や「祖母島」は、こうした小さな「峡谷」を境界とする「島」状の集落なのだ。これはまさに、「渋川」から「金井」までに認められる風景とはある意味まったく異なる地勢の現れだといってよい(さらに祖母島の北限には、遠く榛名湖から流れ出る「沼尾川」が刻む大峡谷―「箱島」との境界―が待っている)。
小括しよう。金島地区の「金井」と「川島」のあいだには、地形上の「大断絶線(グレイト・ディバイド)」があるということだ。この自然地理上の特徴は、「金島」の人文のあり方にも影響しよう――ちなみに「金井」の金蔵寺近くの地元小学校に徒歩で通っていた「川島」在住だった母とその姉妹(伯母と伯母)など、この「登沢峡谷」を斜に渡る高架鉄橋がいまだ存在していなかったため、深く切れ込んだ湾曲する断崖沿いを進み、峡谷最深部の短い橋を渡った後、ゴツゴツした岩だらけの山道を一段高みにある棚上の断崖上部まで登ったと証言している。つまり、この「金井」と「川島」のあいだに截然と横たわる「登沢峡谷」は、関東平野から山間部へと入る最初の峡谷ではないか。そうだとすれば、この「登沢峡谷」こそ、まさしく「関東平野の果つる地」であり、江戸から広々と続く、司馬が驚愕した「空」の風土の北限のひとつなのである(なお、現在の渋川市は、広報上これを逆手にとって、「関東平野ここに始まる」13とアピールする)。本稿のあつかう主たるフィールド《群馬・渋川金島のみち》のおもしろさは、関東平野の辺縁部を、このように具体的なランドマークとして見究め、その風景を通じてそこに培われた歴史的人文まで読み解くことにあると言えよう。
川島から 大輪沢(おわんさわ)を渡り 祖母島(うばしま)に入る
県道35号線の右手に゛祖母塚古墳゛と呼ばれている丘陵があります
県道35号線から 下へと細い道が付けられています
車を降りて 向かいます
丘陵の東南に鳥居が建ちます
武内神社(渋川市祖母島)に参着
一の鳥居の扁額には「正一位宿禰大明神」と刻字
二の鳥居は 朱色の木製の両部鳥居です
一礼をして 鳥居をくぐり 石段を上り
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
境内社にお参りをして
参道石段を下ります
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 甲波宿彌神社について 六国史の神階の奉授を記し 所在は 川島村に在り〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉としています
【抜粋意訳】
甲波宿祢(カハスクネノ)神社
績日木後紀、
承和十三年八月辛巳、奉授 上野國 群馬郡 無位 甲波宿禰神 從五位下、文徳實録、
嘉祥三年十二月庚戌、詔以 上野國 甲波宿禰神 列於 官社、三代實錄、
貞観九年六月廿日丁亥、授 從五位下 甲波宿禰神 從五位上、
同十一年十二月廿五日戊申、授 從五位上 甲波宿禰神 正五位下、
同十八年四月十日丁巳、授 正五位下 甲波宿彌神 正五位上、
元慶四年五月廿五日戊寅、授 正五位上 甲波宿禰神 從四位下、新撰姓氏録
豊城入彦命四世孫 賀袁真稚命」可保夜沼 上野
〇按 賀表 甲波 相通ず 國帳 正一位 甲波宿禰大明神 國人 清奥云 川島村に在
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 甲波宿彌神社について 所在は 川島村に在す〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉とし 六国史の神階の奉授を記しています
【抜粋意訳】
甲波宿彌神社
甲波宿禰は 加波乃須久尼と訓べし
〇祭神明か也 地名記云、速秋津日命、
〇川島村に在す 地名記神位 官社
績日木後紀、
承和十三年八月辛巳、奉授 上野國 群馬郡 無位 甲波宿禰神 從五位下、
文徳實録、
嘉祥三年十二月庚戌、詔以 上野國 甲波宿禰神 列於 官社、
三代實錄、
貞観九年六月廿日丁亥、授 從五位下 甲波宿禰神 從五位上、
同十一年十二月廿五日戊申、授 從五位上 甲波宿禰神 正五位下、
同十八年四月十日丁巳、授 正五位下 甲波宿彌神 正五位上、
元慶四年五月廿五日戊寅、授 正五位上 甲波宿禰神 從四位下、
國内神名帳云、
正一位 甲波宿禰大明神、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 甲波宿彌神社について 所在は 川島村に在り〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉とし 六国史の神階の奉授を記しています
【抜粋意訳】
甲波宿彌神社、
今 川島村に在り、上野國志、巡拝奮祠記、神名帳考、
宿禰大明神と云、即 四宮也、神道集仁明天皇 承和十三年八月辛已、無位甲波宿禰神に從五位下を授け、績日木後紀
文德天皇 嘉祥三年十二月庚戌、官社に列り、文徳實録
清和天皇 貞観九年六月丁亥、從五位上を加へ、十一年十二月戊申、正五位下に進め、十八年四月丁己 正五位上に至り、
陽成天皇 元慶四年五月戊寅、從四位下を授く、三代實錄
凡 ,九月二十九日祭を行ふ、熊谷縣注進状
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 甲波宿彌神社について 所在は 川島村〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉とし 六国史の神階の奉授を記しています
【抜粋意訳】
甲波宿彌神社
祭神
神位
仁明天皇 承和十三年八月辛已 奉授 上野國 群馬郡 無位 甲波宿禰神 從五位下
文德天皇 嘉祥三年十二月庚戌 詔以 上野國甲波宿禰神 列於官社
清和天皇 貞観九年六月二十日丁亥 授 上野國 從五位下 甲波宿禰神 從五位上 十一年十二月二十五日戊申 授 上野國 從五位上 甲波宿禰神 正五位下 十八年四月十日丁巳 授 上野國 正五位下 甲波宿禰神 正五位上
陽成天皇 元慶四年五月二十五日戊寅 授 上野國 正五位上 甲波宿禰神 從四位下祭日 九月二十九日
社格 郷社
所在 川島村(群馬縣金島村大字川島)
【原文参照】
『上野國志(Kozukekokushi)』〈明治43年(1910)〉に記される伝承
式内社 甲波宿彌神社について 所在は 川島村〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉とし 六国史の神階の奉授を記しています
【抜粋意訳】
甲波宿彌(かはすくね)神社
川島村に坐す、金井村と牧村の際
績日本後紀、承和十三年八月辛巳、奉授 上野國 群馬郡 甲波宿禰神 從五位下、
文徳實錄、嘉祥三年十二月庚戌、詔以 上野國 甲波宿禰神 列官社、貞観九年六月廿日丁亥、授 上野國 從五位下 甲波宿禰神 從五位上、
三代實錄、貞観十一年十二月廿五日戊中、授 從五位上 甲波宿禰神 正五位下、同十八年夏四月十日丁酉、授 正五位下 甲波宿禰神 正五位上、延喜式曰、群馬郡 甲波宿禰神社、
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
甲波宿彌神社(渋川市川島)は 式内社 甲波宿彌神社であるとして 六国史の神階の奉授を記しています
【抜粋意訳】
〇群馬縣 上野國 群馬郡金島村大字川島字南大塚
甲波宿彌(カハノスクネノ)神社
祭神
速秋津日子(ハヤアキツヒコノ)神
速秋津比賣(ハヤアキツヒメノ)神本社は一に宿禰大明神と稱す、
績日木後紀に 仁明天皇 承和十三年八月辛巳 無位 甲波宿彌神に從五位下を授くとあり、
文德實錄に 文德天皇 嘉祥三年十二月庚戌 官社に列せられ、
三代實錄に 清和天皇 貞観九年六月丁亥從 五位上を授けられ、同十一年十二月戊申正五位下、〇三代實錄 同十八年四月丁巳正五位上、〇同上 陽成天皇 天慶四年五月戊寅 從四位下 〇同上を授けられ給ふ等 國史に散見せる古來若名の大社にして、延喜の制 式内の小社に列せられ、
國帳に正一位 甲波宿彌大明神と見え、當國四ノ宮たり、光格天皇 天明三年 浅間山噴火の際、社殿其災に罹る、此時古記錄等悉く失ひなるを以て本社の由緒沿革を詳に知ること能はざるは遺憾なりとす、然れども同五年九月社殿再建す、但、奮社地より高きこと二三丁なりと、明治十三年五月卿社に列す。
社殿は本殿・拜殿其他神饌舎・神樂殿等あり、境内は九百四十一坪、官有地第一種たり。境内神社
火雷社 稻荷社 八坂社 諏訪社 神明社 淡島社 大山祇社 菅原社
【原文参照】
『群馬県群馬郡誌(Gunmaken gunmagunshi)』〈大正14年(1925)〉に記される伝承
甲波宿彌神社(金島村大字川島)〈現 甲波宿彌神社(渋川市川島)〉について 式内社 甲波宿彌神社であるとして 六国史の神階の奉授 宝物について 記しています
【抜粋意訳】
- 社寺教会 第一節 神社 第三項 郷社
一、甲波宿彌神社(金島村)
【由緒】
金島村大字川島に在り、祭神は速秋津日子神・速秋津比賣神・譬田別尊•大山祇尊なり。當社創立は不詳なれども宝亀二年九月二十九日なりと云ひ傅へらる。
延喜神名式に群馬郡三座大一座小二座、伊賀保神社・椿名神社・甲波宿彌神社とあり、
績日本後記に承和十三年八月辛己 奉授 上野國 无位 甲波宿彌神 從五位下、
文德實錄に嘉祥三年十二月庚戌 詔上野國 甲波宿彌神 列於官社、
三代實錄に貞観九年六月廿日丁亥 授上野國 從五位下 甲波宿彌神 從五位上、同十一年十二月二十五日戊申 授 上野國 正五位下、同十八年四月十日丁己 授上野國 正五位下 甲波宿彌神 正五位上、元慶四年三月二十五日戊寅 授上野國 正四位上勳八等 貫前神 從三位勳七等從四位下 赤城沼神 伊賀保神 並從四位上 正五位上 甲波宿彌神 從四位下 正五位下小祝神 波己曾神 並正五位上 勳十二等從五位上 賀茂神 美和神 並正五位下 動十二等正六位上 稻裏神 從五位下 勳十二等とあれば此の時の位階奉授は貫前神より第三位にましますを知る、
上野國神名帳に正一位 甲波宿彌大明神とあり、明治十三年五月郷社に列せらる、明治四十二年二月二十七日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。當社は往古より皇室の御崇敬厚く数々位階を奉授せられしことありて、貞観十八年より年々九月廿九日の祭日には奉幣ありしが其の後中絶し 貞應二年聖護院宮奉幣使下向ありしより数々奉幣ありしといふ、其の他武田氏・長尾氏•後北條氏等の崇敬厚く奉幣祈願社領の寄進ありしといふ。光格天皇の寬政七年に甲波宿彌大神社の勅額を奉納あらせられ、近くは常宮昌子内親王殿下より幣帛.料御奉納あらせらる。
【實物】
ー、扁額 一面 光格天皇勅額
ー、劔 ー振 備前國一文字助包
ー、鏡 一面
一、曲玉 一聯
ー、玉取獅子 二個
ー、玉取龍 一個
ー、神宣狀
宗源 宣旨
正一位甲波宿彌大明神 上野國群馬郡川島村
右往古之勘請也深守其古格勿敢軽慢矣者神宣之狀如件
寬政五年八月二十六日 日神部壹岐宿彌奉
神祇道管領卜部朝臣良俱ー、從一位庭田通玄公詠歌懐紙
ー、高松大納言公祐卿詠歌懐紙
一、正四位千種有任卿詠歌懷紙
ー、大納言萬里小路建房卿詠歌色紙
ー、左少辨萬里小路正房卿詠歌色紙
ー、從二位動一等子爵黑田清綱卿詠歌短冊
ー、陸軍大臣寺内正毅戲納明治三十七八年戰役戰利品五種
【原文参照】
甲波宿彌神社(豊秋村大字行幸田)〈現 甲波宿禰神社(渋川市行幸田)〉について 六国史の神階の奉授のある゛式外のふるき社゛であるとして 宝物についても 記しています
【抜粋意訳】
社寺教会 第一節 神社 第四項 村社
八十、甲波宿禰神社 (豊秋村)
【由緒】
豊秋村大字行幸田に在り、創立年月は詳ならず、速秋津彦神・速秋津姫神外十二柱を祭神とす、山吹日記に湯の上(行幸田)の左の方いと蔭高く古にし森あるは甲波宿禰の社と開ゆ云々式外のふるき社にやおはすらん、と云へるは實に然る説にて上野國式外神名帳に從五位上 甲波宿禰明神と記されたれば一條天皇の長徳年間より以前なりしことは古書に徴して明かなり、文久元年九月再建、明治二十六年十月二十一日近衞機動演習あり畏くも、明治天皇陛下此の地に御親閲あらせ給ひしを以て、村民歓びの餘り行幸祭を行ひ境内に紀念の櫻を植ゑつけ行幸櫻と称せしが翌年征清の役起り捷報に接する每にー株づつ櫻を増加し共の翌年四月十七日講和成れるを以て大捷祭を行ひ以来每年此の吉日を以て九月十九日と共に例祭日と定めたり、同三十四年二月境内に行幸紀念碑を建立す。
明治三十九年十二月神饌幣帛料を供進し得べき神社に指定せらる。
【寶物】
ー、扁額 一面 正三位勝安房筆
ー、刀 ー口 伊藤市三郞母奉額
ー、鈴 一個 黑澤新吾奉納
ー、掛軸 岡木半助筆一幅 狩野平衞奉納
ー、中江藤樹筆 一葉 狩野利房奉納
ー、短冊 典侍柳原愛子詠 一葉 宮内省出仕 鶴久子奉納
一、同 権典侍正六位敦子詠 一葉 同 上
ー、同 從一位久我通建詠 一葉 狩野利房衣納
ー、有栖川宮殿下御染筆 一葉 藤井三郞奉納
【原文参照】
武内神社(渋川市祖母島)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)