和歌山県
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荒田神社(岩出市森)〈延喜式内社 荒田神社二座の論社〉
荒田神社(あらたじんじゃ)は 天正十三年(1585)豊臣秀吉の根来攻めにより 灰燼に帰し 縁起 寄進状 宝物等すべて焼失し 由緒は定かではありませんが 『延喜式神名帳(927年)』には 紀伊國 那賀郡 荒田神社二座(あらたの かみのやしろ ふたくら)と所載される由緒ある古社です
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海神社(紀の川市神領)〈延喜式内社 海神社の論社〉
海神社(かいじんじゃ)は 通称「海神(うながみ)さん」の名で親しまれ 主祭神は豊玉彦命・国津姫命です 創建は 第11代 垂仁天皇の御代〈BC.29~72AD.〉忌部宿禰が 神のお告げによって創建したと伝えられる古社で 『延喜式神名帳(927 AD.)』所載の紀伊國 那賀郡 海神社(あまの かみのやしろ)とされます
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高積神社(和歌山市祢宜)
高積神社(たかつみじんじゃ)は 高積山〈和佐山 わさやま〉の山頂に゛上の宮゛麓に゛下の宮゛が鎮座します 上の宮は゛髙宮・髙三所明神゛下の宮は゛氣鎭社゛とも呼ばれ 式内社の都麻都比賣(つまつひめの)神社(名神大 月次 新嘗)とも 同じく式内社の髙積比古(たかつみひこの)神社 髙積比賣(たかつみひめの)神社ともされています
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都麻津姫神社(和歌山市平尾若林)
都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座 大宝2年(702)に分遷した三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕の一つです 亥の森から遷座後は 三社は各々 式内社の名神大社となりましたが 都麻津姫神社の所在地は不明となり 論社は現在三ヶ所です
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都麻津姫神社(和歌山市吉礼)
都麻津姫神社(つまつひめじんじゃ)は 当初は三社〔伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売〕で一つの神社でした 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉日前・國懸の両神宮に和歌山市秋月の社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へと遷座します 大宝2年(702年)三社は分遷 亥の森から遷座 各々が 式内社の名神大社となりました 都麻津姫神社の論社は 現在三ヶ所あります
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大屋都姫神社(和歌山市宇田森)
大屋都姫神社(おおやつひめじんじゃ)は 当初の鎮座地は 日前・國懸両神宮(和歌山市秋月)の地 その後 垂仁天皇16年〈紀元前14年〉両神宮に社地を譲り 山東の「亥の森」(和歌山市伊太祁曽)へ遷座します 大宝2年(702年)伊太祁曽・大屋都比売・都麻都比売3社の分遷により 亥の森から現社地の北方 古宮に遷座した後 現在地に遷座と伝えています
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水門吹上神社(和歌山市小野町)
水門吹上神社(みなとふきあげじんじゃ)は 『古事記』に云う゛男之水門゛であると伝えられる地〈神武天皇が御東征のみぎり 御兄の彦五瀬命が 和泉で長髄彦の流失に当り 出血甚だしく 崩御されたと言われる旧跡地〉に鎮座します 延喜式内社 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)の論社でもあります
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伊達神社(和歌山市園部)
伊達神社(いたてじんじゃ)は 『六国史』に゛伊達神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 伊達神社(いたての かみのやしろ)と載る名神大社です 神名「伊達」は伊太氏により山東庄に鎮まる伊太祁曾神と同神とされます 志磨神社 静火神社と共に紀州三所神とされ その一之宮として里人は゛一宮大明神゛とも゛園部一の宮゛とも称え奉ると云う
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志磨神社(和歌山市中之島)
志磨神社(しまじんじゃ)は 神功皇后の創建との伝承があり 正史の『六国史』に゛志摩神゛と記載 『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 志磨神社(名神大)(しまの かみのやしろ)と載り 伊達神社 静火神社と共に紀州三所神と呼ばれた名社です 中世に廃絶 所在不明となり 元和年間(1615~24年)中之島の小祠゛九頭明神゛を志磨神社と定め 紀州徳川家により再興されました
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静火社 舊地(和歌山市和田)
静火社 舊地(しずひのやしろ きゅうち)は 神功皇后の御創建とされる 延喜式神名帳 名神大 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)の旧鎮座地です 静火社の御社殿は古来より度々の浸水に遭い 今は天霧山の山上に祀られていますが 和田の氏神の社として永くこの地に祀られていた事を後世に伝えるために石碑が建てられていました 老朽化のため再建されました
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静火神社(和歌山市和田)〈延喜式内社 名神大社〉
静火神社(しずひじんじゃ)は 『六国史』に゛靜火神゛『延喜式927AD』に 紀伊國 名草郡 靜火神社(名神大)(しつひの かみのやしろ)と載る名社ですが 永仁以前(~1293年)には既に廃絶して社伝・創建年代等は不詳 『国造家記』の記録には「日前神宮・國懸神宮」境内「草ノ宮」で「静火祭」の神事祭祀が 暦応~應永年間(1338~1428年)も継続していたと記されます
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熊野三所大神社(那智勝浦町大字浜の宮)
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)は 創建の伝承には 神武天皇が東征の時 御上陸の地点で 頓宮の御遺蹟であり 又 その御上陸の際に抵抗した゛熊野の首長 丹敷戸畔(にしきとべ)゛の小祠を祀ります 平安時代からは 補陀落渡海(ほだらくとかい)の拠点となった補陀洛山寺とともに 那智山から下った那智浜に鎮座する 熊野三所権現(渚王子)として有名です
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丹生官省符神社(九度山町慈尊院)
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は 一宮~四宮は 北の方宮の橋といふ地にあったが 天文年中(1532~)の洪水により 慈尊院に遷座した 此の時 三社宮も遷座して神通寺七社明神となる 近代には丹生七社大明神 丹生神社と呼ばれ 昭和21年(1946)現在の社号となっています 或説に 式内社 小田神社とも云われます
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小田神社(橋本市高野口町)
小田神社(おだじんじゃ)は 建立は1,400年前で 神領も多く朝野ともに尊敬の深かった式内社 紀伊国 伊都郡 小田神社(をたの かみのやしろ)と伝えられます その後の数々の兵乱に合い 社地も衰廃し 祠は焼失してしまいました 紀伊藩主 徳川頼宣公が元和年間(1615~1624)に旧境内本殿跡に石の宝殿を建て「小田神社」と刻し ご神体として後世に伝えさせ 現在に至っています
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丹生都比賣神社(かつらぎ町上天野)紀伊国一之宮
丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)は 創建は古く 少なくとも今から千七百年前のことと伝えられます 神功皇后の三韓征伐の時 丹生都比売大神の託宣によって 衣服・武具・船に朱砂〈丹〉を塗り戦勝されたので 応神天皇が 社殿と広大な神領を寄進されたとする 式内社であり 紀伊国一之宮でもあります
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紀伊国 式内社 31座(大13座・小18座)について
紀伊国(きいのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 紀伊国 31座(大13座・小18座)の神社です
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濱宮(和歌山市毛見)〈日前神宮・國懸神宮の元宮〉
濱宮(はまのみや)は 神武天皇が御東征のとき 神鏡及び日矛を天道根命に託し 斎祭せしめた日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)の元宮であり 豊鋤入媛命が斎祭った元伊勢 奈久佐浜宮(なくさのはまのみや)でもあります
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〈紀伊国一之宮〉日前神宮・國懸神宮(和歌山市秋月)
日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)は 『日本書紀』天石窟(あめのいわや)の段 一書に 日矛(ひぼこ)と日前神(ひのくまのかみ)記されます 三種の神器である伊勢の神「八咫鏡(やたのかがみ)」と同等とされる 2つの御神鏡「日像鏡(ひがたのかがみ)日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る崇高な神宮です
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三生神社〈亥の森:伊太祁曽神社 旧鎮座地〉(和歌山市伊太祈曽)
三生神社(みぶじんじゃ)は 亥の森(いのもり)とよばれる伊太祁曽神社の旧鎮座地の森に鎮座します 御祭神は本社と同じ 五十猛命(いたけるのみこと)大屋津比賣命(おおやつひめのみこと)都麻津比賣命神(つまつひめのみこと)を祀ります
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伊太祁曽神社(和歌山市伊太祈曽)
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)は 紀伊国一之宮で『続日本紀』大宝二年(702)に記事が見える古社 木の国〈紀伊国〉のルーツとされ“木の神”五十猛命を祀ります 秋月(現在の日前宮鎮座地)より山東(現在の伊太祈曽周辺「亥の森」)に遷座されたと伝えられ 『延喜式神名帳927 AD.』には 紀伊国 名草郡 伊太祁曽神社〈名神大 月次 新嘗 相嘗〉と記されます