滋賀県

柏木神社(甲賀市水口町北脇)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

柏木神社(かしわぎじんじゃ)は 白鳳元年(673)創建 山王社〈祭神 大己貴命〉でした 建久元年(1190)源頼朝が上洛の折 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を合祀し社名を若宮八幡宮とした 明治4年(1871)柏木神社と改称しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

上葦穂神社(湖南市柑子袋)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

上葦穂神社(かしほじんじゃ)は 孝徳天皇 白雉元年(650)阿星嶽より五色の御旗が降り祀られたのが創祀 この御幡の降った地を御幡塚として現在も聖地と伝える その後社殿を設け 旧社号を白雉神社(博智・博打・薄知)と云う 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)論社の一つです

吉御子神社(湖南市石部西)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉御子神社(よしみこじんじゃ)は 社伝に 崇神天皇六十八年に神降があり 垂仁天皇二年に宇加之彦の子 吉比古・吉比女の神を谷黒の御前に祀り創祀と云う 弘仁二年(811)災害により石部宿の東西に分社され 西側に鎮座しました 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の後身とされます

鹿鹽上社 吉比女宮跡〈御旅所〉(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

鹿鹽上社 吉比女宮跡(かしほのかみしゃ きちひめのみやあと)は 式内社 石部鹿鹽上神社の論社「吉姫神社」の旧鎮座地で 現在は御旅所となっています 元々は柏木と称す所から当地へ遷座 明応年度(1492~1501)兵火により焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」と伝えています

吉姫神社(湖南市石部東)〈『延喜式』石部鹿鹽上神社〉

吉姫神社(よしひめじんじゃ)は 創祀年代は不詳です 御旅所のある上田の地に斎き祀られていたが 明應年度(1492~1501)兵火によりこれを焼失し 社記には「寛保3年(1743)12月14日の夜 今の地に遷り給へる」とあります 延喜式内社 近江國 甲賀郡 石部鹿鹽上神社(いそへのかしほのかみの かみのやしろ)の論社です

石部神社 上社跡〈石部神社の御旅所〉(愛知郡愛荘町石橋)〈『延喜式』石部神社二座〉

石部神社 上社跡(いそべじんじゃ かみしゃあと)は 石部神社は 元々は二座で 上社(かみしゃ)と下社(しもしゃ)に分かれていたが 応仁・文明の乱(1467~1477年)で上社は罹災(りさい)し 下社(現在地)境内に移されたと伝わる 上社の跡地は磯部の小字善法寺方といわれ 現在は石部神社 下社の御旅所となっています

石部神社(近江八幡市安土町下豊浦)〈『延喜式』石部神社〉

石部神社(いそべじんじゃ)は 創祀年代不詳ですが 社伝には 景行天皇21年 吾地山に社殿を造営し 勅使の参向を得 盛大なる鎮座祭を斉行 同22年更に勅使参向の栄に浴し 安土山湖水に臨み其の南麓を磯辺の岡と号し社を石部神社と称すと伝える 延喜式内社 近江國 蒲生郡 石部神社(いそへの かみのやしろ)の論社です

石部神社〈磯部大明神〉(蒲生郡竜王町七里)〈『延喜式』石部神社〉

石部神社〈磯部大明神〉(いそべじんじゃ)は 創立年代は不詳ですが 社伝によれば 正応2年(1289)池内真清等により社殿を奉遷と云い 古くは磯部大明神と称したが 延寶七年(1679)吉田家より正一位の宗源宣旨を受け 石部神社と改称された 延喜式内社 近江國 蒲生郡 石部神社(いそへの かみのやしろ)の論社です

馬路石邊神社(守山市吉身)〈『延喜式』馬路石邊神社〉

馬路石邊神社(うまじいそべじんじゃ)は 社伝に 白鳳三年(675)建速須佐之男命を奉斎し創祀 朱鳥元年(686)大己貴命を合祀と云う 社名の馬路は「馬道首」に因む地名 石邊は馬道郷の土豪「石邊君氏」の姓 馬道(路)郷の石邊君の氏社で 延喜式内社 近江國野洲郡 馬路石邊神社(むまみちのいそへの かみのやしろ)とされます

小野道風神社(大津市小野)〈『延喜式』小野神社二座(名神大)〉

小野道風神社(おののとうふうじんじゃ)は 小野篁の孫で平安中期の書家ある小野道風を祀ります 道風は 柳に飛び付く蛙の姿を見て発奮努力して 文筆の極地に達せられた 文筆の神として崇められています 延喜式内社 近江國 滋賀郡 小野神社二座(名神大)(をのの かみのやしろ ふたくら)の論社です

小野神社(大津市小野)〈『延喜式』小野神社二座(名神大)〉

小野神社(おのじんじゃ)は 第5代孝昭天皇の第一皇子 天足彦国押人命〈小野一族の祖〉と 同命から数えて七代目の米餅搗大使主命〈餅及菓子の匠・司の始祖〉の二柱を祀ります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 小野神社二座(名神大)(をのの かみのやしろ ふたくら)とされる古社で 境内には小野篁(たかむら)を祀る篁神社もあります

天皇神社(大津市和邇中)〈『延喜式』小野神社 二座 名神大〉

天皇神社(てんのうじんじゃ)は 創立は不祥 社伝によれば 村上天皇 康保3年(966)和邇荘が崇福寺領の頃 京都八坂の祇園牛頭天王を奉遷して和邇牛頭天王社と称したと伝えられる 和邇中 今宿の産土神として崇敬され 明治9年(1876)「天皇神社」と改称されています 『式内社調査報告』には゛小野天皇社゛と記されます

倭神社(大津市滋賀里)〈『延喜式神名帳』倭神社〉

倭神社(しどりじんじゃ)は 赤塚古墳の上に鎮座しています 被葬者が倭姫〈第38代 天智天皇の皇后〉だとする伝承があり 御祭神となっています 学術的に推定される築造年代は5世紀前半とのことで 7世紀の天智天皇の時代とは食い違いはあります 延喜式内社 近江國 滋賀郡 倭神社(しとりの/やまとの かみのやしろ)の論社です

那波加荒魂神社〈上宮〉(大津市苗鹿)〈『延喜式』那波加神社〉

那波加荒魂神社〈上宮〉(なはかあらみたまじんじゃ)は 天太玉命が この地に降臨「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け 苗(稲)を鹿が背負って運んだ」ので苗鹿の地名と云う 下宮の創建は天智天皇7年(668) 上宮は大同2年(807)別宮の荒魂社として創建とされますが 本殿裏に霊石があり盤座信仰の名残とも伝えられています

那波加神社〈下宮〉(大津市苗鹿)〈『延喜式』那波加神社〉

那波加神社(なはかじんじゃ)は 社伝には 大古 天太玉命がこの地に降臨 苗鹿の地名も「老翁となった天太玉命の農事を鹿が助け 苗(稲)を鹿が背負って運んだ」と云う 創建は天智天皇7年(668) 大同2年(807)別宮の荒魂社(上宮)を創建 地域を治めた小槻氏が崇敬した 式内社 那波加神社(なはかの かみのやしろ)です

竹田神社(東近江市鋳物師町竹田)〈製鉄の神 天目一箇命を祭神とする延喜式内社〉

竹田神社(たけだじんじゃ)は 製鉄の神 天目一箇命を祭神とし 鎮座地は゛鋳物師(いもじ)゛と呼ばれ 古代からの鋳造を行う工人たちの住地だと云う 社伝に 第10代 崇神天皇の御代 明神森の地に創祀 延暦6年(787)坂上田村麿が社殿を再造し 『延喜式』の 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)であると云う

菅田神社(近江八幡市中小森町)〈菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀る 延喜式内社〉

菅田神社(すげたじんじゃ)は 御祭神は 天津日子根命の御子で 鍛冶屋の祖とも伝えられている天目一命(あめのまひとつのみこと)です 古代には この子孫である蒲生稲置や菅田首が 祖神〈天目一命〉を祀り 蒲生平野一帯を治めていたとされます 延喜式内社 近江國 蒲生郡 菅田神社(すかたの かみのやしろ)の論社です

田村神社(甲賀市土山町北土山)〈征夷大将軍・坂上田村磨呂公を祀る神社〉

田村神社(たむらじんじゃ)は 垂仁天皇45年(西暦16年)甲可翁(こうかのおきな)と云う人が 倭姫命を崇敬し その生霊を鎮祭し 鈴鹿社〈高座大明神〉と云われた 弘仁三年(812)嵯峨天皇の勅により坂上田村麻呂を神社程近き二子峰に鎮祭し 同十三年(822)現地に遷し 鈴鹿社に合祀し 高座田村大明神〈田村神社〉と稱しました

神前神社(長浜市木之本町石道)

神前神社(かみさきじんじゃ)は 白鳳三年(663)役小角が神前大神を崇敬し 神亀元年(724)行基が ゛高尾寺゛を一宇建立するも焼失 延暦15年(796)最澄が行基の聖蹟をたどり 祠(神前神社の旧跡)の御前で゛杉の枝゛を玉串として地面に挿した この゛神前杉゛は「逆さの杉」と呼ばれる大木に成長し 現在も毎年4月29日 神前神社の氏子は参拝し 神前杉に御幣を捧げます

近江國 式内社 155座(大13座・小142座)について

近江国(おうみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される当時の官社です 近江国には 式内社 155座(大13座・小142座)の神々が坐します 現在の論社を掲載しています

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