大阪府

愛宕神社(堺市中区福田)〈延喜式内社 火雷神社の古社跡地〉

愛宕神社(あたごじんじゃ)は 延喜式内社 和泉國 大鳥郡 火電神社(いなひかりの かみのやしろ)の古社跡地です 愛宕大権現〈式内社 火電神社〉は 明治41年(1908)明治政府の「神社令」により 陶荒田神社に合祀されました 現在の社殿は 戦後新たに福田の人々の信仰によって 元の境内地の一隅に愛宕神が奉斎されたものです

陶荒田神社(堺市中区上之)〈古代の陶器の生産拠点゛陶邑(すえむら)゛鎮座〉

陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は 第十代 崇神天皇の勅により太田田根子〈素盞鳴命十世の孫〉が創建し 社号゛陶荒田(すえあらた)゛は 地名の゛陶邑(すえむら)゛〈古代の陶器生産地〉・人名の゛荒田直(あらたのあたい)〈祖神の祭祀を司る一族〉から付きました

咸古神社(富田林市龍泉)〈弘法大師空海が 加持祈誓し龍神を呼んだ社〉

咸古神社(かんこじんじゃ)は 『龍泉寺縁起』弘仁14年(823)この地を訪れた弘法大師空海が加持祈誓し 龍が再来 池が戻り3つの小島が現れた・弁財天・聖天・吒天を祀り 牛頭天王を鎮守社としたのが創建と云 江戸時代には鎮守社 牛頭天王社 明治に咸古神社と改称 明治42年(1909)相殿に式内論社 咸古佐備神社が合祀された

生根神社(大阪市住吉区住吉)

生根神社(いくねじんじゃ)は 創建年代は不詳ですが 社伝では「住吉大社が当地に御鎮座の以前より奉祀せられて居り 古伝によれば少彦名命は造酒の祖神であり 神功皇后も当社で酒を造り住吉三神に献ぜられた」とあり 『延喜式神名帳927 AD.』所載 摂津國 住吉郡 生根神社(大月次新嘗)(いくねの かみのやしろ)とされています

住吉大社(大阪市住吉区住吉)・境内外・摂社・末社について

住吉大社(すみよしたいしゃ)の・境内・境外・摂社・末社と要所について 

船玉神社〈住吉大社境内摂社〉(大阪市住吉区)

船玉神社(ふなたまじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の時 船に祀った守護神とされ 由緒には「船玉(船魂)とは 船舶そのものの神霊で 住吉大神とは表裏一体の関係として尊崇され 時には住吉大神の荒魂とされる」とあり 住吉大社の境内摂社ですが 元々は第四本宮〈神功皇后〉の前 海に向かって 4つの本宮の先頭に鎮座していたと伝わっています

大歳神社〈住吉大社 境外摂社〉(大阪市住吉区住吉)

大歳神社(おおとしじんしゃ)は 住吉大社の「はったつさん」と呼ばれる゛初辰まいり゛〈商売や家庭の発達繁栄を祈るお参り〉の四社の締めくくりに参拝する習わしのある境外摂社です 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の論社ともされています

式内社 努能太比賣命神社 社跡(大阪市住吉区杉本)

式内社 努能太比賣命神社 社跡(しきないしゃ ぬのたひめのみことじんじゃ やしろあと)は 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載 摂津国 住吉郡 努能太比賣命神社(ぬのたひめのみことの かみのやしろ)の社跡とされます 明治40年(1907)大依羅神社に合祀されました

式内 草津大歳神社趾(大阪市住吉区苅田)

式内 草津大歳神社趾(しきない くさつおおとしじんじゃあと)は 明治40年(1907)大依羅神社に合祀された 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載  摂津国 住吉郡 草津大歳神社(鍬靫)(くさつをほとしの かみのやしろ)の旧鎮座地です 創建・由緒など不明ですが 跡地に残る大楠が御神木であったことを彷彿させます

大依羅神社(大阪市住吉区庭井)

大依羅神社(おおよさみじんじゃ)は 神功皇后が新羅征討の際 住吉三神〈底筒男命・中筒男命・表筒男命〉の神託により戦勝と航海の無事を祈り「依羅吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)」が住吉三神を祭る祭主を務めたことが『日本書紀』に記載されるのが起源とされている 式内社 大依羅神社 四座(おほよさみの かみのやしろ しくら)(並 名神大 月次 相嘗 新嘗)に比定される古社です

住吉大社(大阪市住吉区住吉)〈摂津國一之宮〉

住吉大社(すみよしたいしゃ)は 『日本書紀』に神功皇后が三韓征伐の帰路 住吉三神の神託を得て 住吉大神の和魂(にきみたま)を鎮めて祀ったのが創建と記される 全国に2000社余ある住吉神社の総本社で 摂津國一之宮です 延喜式内社 住吉坐神社四座(並 名神大月次相嘗新嘗)(すみのえにます かみのやしろ しくら)です

神須牟地神社(大阪市住吉区長居西)

神須牟地神社(かみすむちじんじゃ)は 式内社 摂津国 住吉郡 神須牟地神社(鍬靫)(かむすむちの かみのやしろ)とされます 慶長年間〈1596~1615〉兵火に罹り 元和四年(1618)八月二十一日再建されました その後 衰頽し廃絶に瀕していたが 元文元年(1736)九月 徳川幕府の命により神須牟地社と多米社の鎮座地に社号を刻した石碑が建てられ 復興して現在に至ります

延喜式内 多米神社之址(大阪市住吉区長居)

多米神社之址(ためじんじゃ のあと)は 延喜式内社 摂津国 住吉郡 多米神社(貞)(ための かみのやしろ)の旧鎮座地の跡です 多米連(ためのむらじ)〈朝廷に供する米作りに関わり 成務天皇の御代「大炊寮御飯を作りて香美なりし」と賞されて多米連の姓を賜わった〉が 創建した神社とされます 多米連の氏人は 住吉大社の神饌に深く関わっていたと伝わります

種貸社〈住吉大社 境内末社〉(大阪市住吉区)

種貸社(たねかししゃ)は 「はったつさん」と呼ばれる゛初辰まいり゛の一社です 元々は多禰加志宮(たねかしのみや)と呼ばれて 住吉大社から東へ2キロ離れた場所にありましたが 16世紀に火災に遭い 現在地に移されたと伝わります 『延喜式神名帳』(927年12月編纂)所載 摂津国 住吉郡 多米神社(貞)(ための かみのやしろ)の論社です

大海神社&志賀神社〈住吉大社 境内摂社〉(大阪市住吉区)

大海神社(たいかいじんじゃ)&志賀神社(しがじんじゃ)は 住吉大社の境内摂社です 大海神社は かつては別宮で『延喜式神名帳927 AD.』所載の式内社 摂津国 住吉郡 大海神社二座(元名 津守安人神)(たいかいの かみのやしろ ふたくら)とされます 社前の井戸は「玉の井」と呼ばれ 山幸彦が海神より授かった潮満玉を沈めたところと伝えられます 志賀神社は大海神社の境内摂社であったと伝わります

神津嶽本宮(東大阪市出雲井町)〈枚岡神社 創祀の地〉

神津嶽本宮(かみつだけほんぐう)は 枚岡神社 創祀の斎場であり 太古の聖地です 神武天皇の即位 三年前 勅命を奉じて天種子命が 天児屋根命・比売御神の二神を霊地・神津嶽に祀り創建されました その後 白雉元年(六五〇)神津嶽の霊地より現社地〈枚岡神社〉に社殿を造営〈中臣氏の平岡進等により〉奉遷しました

枚岡神社(東大阪市出雲井町)〈河内國一之宮〉

枚岡神社(ひらおかじんじゃ)は 神武天皇の即位 三年前 勅命を奉じ・天児屋根命・比賣御神の二柱を霊地゛神津嶽゛に祀り創建されました 白雉元年(650)現在地に奉還 神護景雲二年(768)天児屋根命・比賣御神の二神が 春日大社に分祀され「元春日」と呼ばれた後・経津主命・武甕槌命の二柱が増祀され 現在の四殿となりました

摂津国 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)

攝津國(せっつのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 摂津国の 75座(大26座(並月次新嘗・就中15座相嘗祭)・小49座(並官幣)の神社のことです

和泉国 式内社 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))について

和泉國(いづみのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載されている官社〈延喜式内社〉の事で 和泉国には 62座(大1座(月次新嘗)・小61座(並官幣))の神々が 坐します

河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)

河内国(かは〈わ〉ちのくに)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』に所載される 河内国の 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)の神社のことです

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