三重県
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須伎神社(鈴鹿市長太栄町)〈『延喜式』須支神社・大木神社〉
須伎神社(すぎじんじゃ)は 社伝には 上古 津島の神を奉じて南下した人々が長太村に祠を建て祀ったと云う 元禄三年(1690)当地に移転鎮座した 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 須支神社(すきの かみのやしろ)とされ 又 明治40年(1907)大木神社(長太の大樟)を合祀し 同じく式内社 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社でもあります
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長太の大樟(南長太町)〈須伎神社 に合祀された大木神社の旧鎮座地〉
長太の大樟(なごのおおくす)は 嘉永4年(1851)地誌「勢国見聞集」名木之部に「河曲郡北堀江村 楠 当村の西の方にあり 是を大木神社と云 式内の社なり」と記され 楠木を御神体とした神社〈須伎神社に合祀された大木神社の旧鎮座地〉で 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社とされています
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大塚神社(鈴鹿市林崎)〈『延喜式』大木神社〉
大塚神社(おおつかじんじゃ)は 創建年代などは不祥ですが 明治以前は 西林崎村 一色村2村の産神「大塚大明神」でした 鎮座地の゛林崎゛は 神宮の「林崎御厨ノ地」であったとされ 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社とする説があります
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久々志彌神社(鈴鹿市下箕田)〈『延喜式』久々志彌神社〉
久々志彌神社(くくしみじんじゃ)は 社伝に第34代舒明天皇元年(629)創祀と云う 又 鎮座地の箕田は 伊勢神宮「箕田御厨(みたみくり)」の地であり 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 久々志彌神社(くくしみの かみのやしろ)に比定され 明治41年(1908)箕田村の村社 無格社をすべて合祀し 式内久々志彌神社と改称しました
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大木神社(鈴鹿市石薬師町)〈『延喜式』大木神社〉
大木神社(おおきじんじゃ)は 創建年代などは不祥です もと河曲郡高富村字船塚に鎮座したが 元和年中(1615~24)一村が今の石薬師へ移住 寛永年中(1624~44)当社も該地から今の地へ遷座したと云う「青木ノ明神ノ宮」又は「アヲキ」と云った 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 大木神社(おほきの かみのやしろ)の論社です
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楠村神社(四日市市楠町本郷)〈参考論社『延喜式』川神社〉
楠村神社(くすむらじんじゃ)は 社伝に「創祀については詳らかにし難い」とあり 楠城址の一部を占める「風呂屋」と呼ばれる地区に鎮座しています 明治42年(1909)楠郷総社に合祀されたが 昭和2年(1927)再び現在地に分祀されたものです 延喜式内社 伊勢國 河曲郡 川神社(かはの かみのやしろ)の参考論社です
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廣幡神社(菰野町菰野)〈式内論社 江田神社(江田)明治41年(1908)合祀〉
廣幡神社(ひろはたじんじゃ)は 寛永七年(1630)菰野藩初代藩主 土方雄氏公が京都の石清水八幡宮より城の鎮守として勧請 明治になり神社合祀令により近隣の神社が合祀されました 明治41年には式内論社 江田神社(江田)を合祀して 延喜式内社 伊勢國 三重郡 江田神社(えたの かみのやしろ)の論社となっています
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鵜森神社(四日市市鵜の森)〈『延喜式』江田神社〉
鵜森神社(うのもりじんじゃ)は 鎮座地は濱田城跡にあり 創建年代は定かではないが 文明(1469~87年)には濱田城主 依家の崇敬した社であった 一説には 元は江田神社と称していたとされ延喜式内社 伊勢國 三重郡 江田神社(えたの かみのやしろ)の論社となっています
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江田神社(四日市市西坂部町)〈『延喜式』江田神社〉
江田神社(えだじんじゃ)は 祭神は日本武尊の弟君 五十功彦命 古くは奥宮 中宮 下宮があったが 天正3年(1575)織田信長配下の兵火によりすべてを焼失し 下宮〈現在地〉に遷座 明治41年(1908)に坂部町地内のすべての神社が合祀されました 延喜式内社 伊勢國 三重郡 江田神社(えたの かみのやしろ)の論社です
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加佐登神社(鈴鹿市加佐登町)〈合祀『延喜式』倭文神社〉
加佐登神社(かさどじんじゃ)は 日本武尊の御陵とされる白鳥塚古墳の傍に尊が死の間際まで持っておられた笠と杖を御神体としてお祭りしたのが始まりで「御笠殿社」と呼ばれていました 明治41年(1908)高宮内の17神社を合祀した中に延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 倭文神社(しとりの かみのやしろ)も含まれています
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辰水神社(津市美里町家所)〈『延喜式』舩山神社を合祀〉
辰水神社(たつみずじんじゃ)は 前身は 辰之口神社と称えていました 明治41年(1908)大字穴倉村社 八柱神社・大字高座原村社 伊豆神社・大字日南田村社 神明社・大字船山村社 船山神社を合祀して辰水神社と改称 この時に合祀の船山神社は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)です
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船山神社 古社地(津市美里町船山)〈『延喜式』舩山神社の旧鎮座地〉
船山神社 古社地(ふなやまじんじゃ こしゃち)は 延喜式内社 伊勢國 安濃郡 舩山神社(ふなやまの かみのやしろ)の旧鎮座地です 明治四十一年(1908)字内各社を船山社に合祀して 村社に列しましたが 明治四十一年(1909)九月十八日 辰水神社(津市美里町家所)へ合祀されて 現在に至ります
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櫛田神社(桑名市島田)〈『延喜式』櫛田神社〉
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 『勢陽雑記拾遺(1656)』等の記録に「現在地の南方の丘の下に鎮座していた蔵王権現・天白天明神」とあり 後に現在地に遷座 明治42年(1909)平群神社(志知)に合祀の後 昭和27年(1952)分祀され現在に至ります 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 櫛田神社(くしたの かみのやしろ)の論社です
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平群神社(桑名市志知)〈『延喜式』平群神社〉
平群神社(へぐりじんじゃ)は 平群氏族の祖神 平群木兎宿禰(へぐりつくのすくね)を祭神とする 延喜式内社 伊勢國 員辨郡 平群神社(へくりの かみのやしろ)です 背後の平群山は古代神奈備の遺跡で 境内奥には日本武尊の足洗池の跡と伝えられる平群池があり 古代からの息吹を感ずる場所に鎮座します
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石部神社(四日市市朝明町)〈『延喜式』石部神社二座・(合祀)太神社〉
石部神社(いそべじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 石部神社二座(いそへの かみのやしろ ふたくら)の論社です 明治末期の神社合祀令により 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 太神社(おほみわのやしろ)を大正5年(1916)合祀しています 太神社は昭和22年(1947)石部神社から(北野山の現在地)に分祀されています
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大神社(いなべ市大安町片樋)〈『延喜式』太神社(おほみわのやしろ)〉
大神社(おおみわのやしろ)は 祭神 大物主命を祀る 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 太神社(おほみわのやしろ)です 永禄年間(1558~70)織田信長が北勢乱入の時 当社並に神宮寺を焼討し 元亀 2年(1571)社領・寺領も没収され廃したと云う 文禄3年(1594)藩主御検地のとき神田 1反6畝11歩を賜った記録があります
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太神社(四日市市大鐘町)〈『延喜式』太神社〉
太神社(おおのじんじゃ)は 東西大鐘2村の産土神として字大坪に鎮座した「諏訪大明神」で 延喜式内社 伊勢國 朝明郡 太神社(おほみわのやしろ)と伝わります 東大鐘の山神社・西大鐘の天一目連神社・山神社を大正2年に合祀の上 大正5年(1916)石部神社に合祀をされた後 昭和22年(1947)現在地に分祀されたものです
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竹神社(明和町斎宮)〈『延喜式』竹神社・火地神社・天香山神社〉
竹神社(たけじんじゃ)は 社伝に垂仁天皇の御宇 竹連の祖・宇加之日子の子 吉志比古が倭姫命〈皇太神を奉じて伊勢御巡幸〉に供奉して当地に子孫が定住し祖神 長白羽神を奉斎したのが始りとされる 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 竹神社(たけの かみのやしろ)です 明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移されました
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火地神社 古社地(明和町岩内 光安寺境内)〈竹神社に合祀された火地神社 古社地〉
火地神社 古社地(ひちじんじゃ こしゃち)は 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 火地神社(ひちの かみのやしろ)の古社地で 光安寺の裏 城山の山腹に火地神社跡があり 第12代 景行天皇の御代に創建と云う 寛文二年(1662)再興された光安寺境内に火地神社が移転し 明治40年(1907)斎宮村の竹神社に合祀されました
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畠田神社 跡(明和町南藤原)〈『延喜式』畠田神社三座〉
畠田神社 跡(はただじんじゃあと)は 明治41年(1908)北藤原の畠田神社に合祀 その後 中村の畠田神社へ遷座しました かつて藤原村は 南藤原 中藤原 北藤原の三村に別れており 各村に産土神があり その南藤原の社地跡です 延喜式内社 伊勢國 多気郡 畠田神社三座(はたけたの かみのやしろ みくら)の跡とされます




















