国史記載社
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博西神社(葛城市寺口)〈『延喜式』 葛木倭文坐天羽雷命神社(大月次新嘗)〉
博西神社(はかにしじんじゃ)は 旧鎮座地は倭文氏の祖神を祀る「棚機の森(たなばたのもり)」と伝わり 往古より葛木倭文坐天羽雷神社と称し 波加仁志明神と唱えた 延喜式内社 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社(大 月次 新嘗)(かつらきの しとりにゐます あめのはづちのみことの かみのやしろ)とされます
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葛木倭文座天羽雷命神社(葛城市加守)〈『三代実録』葛木倭文天羽雷命神〉
葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいます あめのはいかづちのみことじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 葛下郡 葛木倭文坐天羽雷命神社(大月次 新嘗)(かつらきの しとりにゐます あめのはづちのみことの かみのやしろ)とされ 相殿には加守神社と葛木二上神社が祀られ 二上山の雄岳山頂「葛木二上神社」の里宮とも云われます
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波布比咩命神社(大島 波浮港)〈『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』波布比賣命神社〉
波布比咩命神社(はぶひめのみことじんじゃ)は 「波浮ノ池」〈火山の火口に水を湛えたカルデラ湖で外海とは遮断されていた〉の畔に鎮座していました 元禄16年(1703)大津波によって外海と繋がり波浮湾となったと云う 『文徳實錄』波布比咩命神『延喜式』伊豆國 賀茂郡 波布比賣命神社(はふひめのみことの かみのやしろ)です
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伊奈波神社(岐阜市伊奈波通)〈『延喜式』物部神社〉
伊奈波神社(いなばじんじゃ)は 社伝に 景行天皇14年 五十瓊敷入彦命の偉徳を偲び武内宿禰により 椿原の地(丸山〈伊奈波神社 旧蹟〉)に鎮斎したのが始まりと云う 天文8年(1539)斎藤道三による稲葉山城の築城により 丸山から現在地へ遷座 合殿には『延喜式』美濃国厚見郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)が祀られます
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石床神社 旧社地〈『三代實録』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社 旧社地(いわとこじんじゃきゅうしゃち)は 当初から本殿や拝殿はなく 崖面に露頭した高さ約6m 幅10数mの巨大な「陰石(いんせき)」を 御神体とする『三代實録』平群石床神・『延喜式』大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 大正13年(1924)現在地に遷座しました
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石床神社(平群町越木塚)〈『三代實録〉』平群石床神『延喜式』平群石床神社〔大月次新嘗〕〉
石床神社(いわとこじんじゃ)は 延喜式内社 大和國 平群郡 平群石床神社〔大月次新嘗〕(へくりの いはとこの かみのやしろ)です 「舒明天皇三年(631)肇国創業の御功神 饒速日命を祀らせ給いしに創る」と石碑文にあり 古来 御神体の巨岩(陰石)を祀る旧鎮座地〈現在地の南方〉より大正13年(1924)現在地に遷座しました
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櫛田神社(射水市串田)〈『三代實録』櫛田神・『延喜式』櫛田神社〉
櫛田神社(くしだじんじゃ)は 社伝によると「創建は 平城天皇 大同貳年(807)」又「千数百年前の昔 大和朝廷から この地に遣わされた武内宿祢が斎主となり創建」とも云う 『三代實録』貞觀十八年(867年)櫛田神・『延喜式』〈927年〉越中國 射水郡 櫛田神社(くしのた かみのやしろ)と記載されている由緒ある古社です
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矢作神社(八尾市南本町)〈『三代實録』掃部神『延喜式』矢作神社・長柄神社〉
矢作神社(やはぎじんじゃ)は 鎮座する八尾の地名は当社から由来したと云う 一帯は物部氏一族の矢作連の屋敷跡と伝わり その祖神である「経津主命」を祀る 延喜式内社 河内國 若江郡 矢作神社(やはぎの/やつくりの かみのやしろ)です 又 明治40年(1907)式内社 長柄神社(なからの かみのやしろ)を合祀しています
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阪合神社(八尾市小阪合町)〈『三代實録』堺神・『延喜式』阪合神社二座〉
阪合神社(さかあいじんじゃ)は 創建年代等は不祥ですが 六国史『三代實録』堺神・『延喜式』河内國 若江郡 坂合神社二座(貞加一座)(さかえの かみのやしろ ふたくら)とされる由緒ある古社です 明治40年(1907)矢作神社(八尾市南本町)に合祀された後 昭和32年(1957)旧社地〈現在地〉に復興しました
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大虫神社(与謝野町温江)〈『文徳天皇實録』大蟲神『延喜式』大虫神社〔名神大〕〉
大虫神社(おおむしじんじゃ)は 『文徳實録』「大蟲神」・『延喜式』丹後國 與謝郡 大虫神社(名神大)(おほむしの かみのやしろ)と所載されます 旧鎮座地は池ケ成という地〈現 大江山の中腹の池ケ成公園の辺り〉に 大虫神社と小虫神社が鎮座し「虫宮(むしのみや)」と呼ばれたが 室町時代初期頃に現在地に遷座と伝わります
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蒲神明宮(浜松市中央区神立町)〈『延喜式』大歳神社・朝日波多加神社・子倉神社〉
蒲神明宮(かばしんめいぐう)は 『三代實録』蒲太神とする説があり これによって三つの式内社〈①遠江國 長上郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)②遠江國 長上郡 朝日波多加神社(あさひはたかの かみのやしろ)③遠江國 長上郡 子倉神社(こくらの かみのやしろ)〉の論社となっています
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大歳神社(浜田市三隅町下古和)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大年神社(おおとしじんじゃ)は 創建年代はあきらかでないが 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)の論社の一つとされています 明治期に地域の神社を合祀しています
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大年神社(浜田市国分町)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大年神社(おおとしじんじゃ)は 景勝地として知られる石見畳ケ浦の入口にあたる唐鐘漁港の高台に鎮座します 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』に石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)とある古社の論社の一つです
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大歳神社(浜田市大金町)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 元 大金神社と称していたが 昭和30年(1955)神社本庁の許可を得て大歳神社を創立し神社本庁に従属したとあり 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)の論社の一つです
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大歳神社(浜田市弥栄町小坂)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 創祀年代について 「神亀元年(724)十二月 田村修理によって当地に創建」と云われる由緒を持ち 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)と伝わります この論社は数が多く その内の一つとされます
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大歳神社(浜田市元浜町)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授し 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)とされる由緒ある神社ですが 所在については確証がなく 数多くの論社があります その一つとされています
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大歳神社(江津市千田町大年迫)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大歳神社(おおとしじんじゃ)は 創建は口碑に延長年間(923~931年)と云います 『三代實録』に貞觀十三年(871)大歳神 從五位上を奉授と所載され 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)とされる神社の所在については確証がなく 論社がその数多くあり その一つとされています
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大年神社(江津市渡津町塩田)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大年神社(おおとしじんじゃ)は 口碑に「神龜二年(725)六月朔日 伊勢別宮より勧請 天正年間(1573~1592)都野刑部少輔元康 社領寄附す」とあり 『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)の論社とされています
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大年神社(江津市和木町)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大年神社(おおとしじんじゃ)は 伊勢別宮より勧請され都農郷 大年免(おとしめ)山に奉斎されたと伝えられ『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)の論社とされ 江戸時代 和木村庄屋小川氏によって和木川ほとりの現在地に遷座しました
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大年神社(江津市都野津町)〈『三代實録』大歳神『延喜式』大歳神社〉
大年神社(おおとしじんじゃ)は 神亀貮乙丑(725年)六月朔日伊勢別宮より 都濃郷大年免に鎮座と伝わり『三代實録』貞觀十三年(871)に大歳神として從五位上を奉授 『延喜式(927年)』石見國 那賀郡 大歳神社(おほとしの かみのやしろ)の論社とされます 正徳元卯年(1711年)都山〈現地〉に遷座したと伝わります




















