兵庫県
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山戸春日神社(姫路市勝原区山戸)〈『延喜式』阿波庭神社〉
山戸春日神社(やまと かすがじんじゃ)は 神功皇后が三韓征伐の帰路に 麛坂王・忍熊王の二王の謀反に遭い この地に上陸され兵を募り軍備を整えられたと云う 往古は海浜の一部落で前方白波を堪うるを以て社号「阿波庭神社」と称したあり 延喜式内社 播磨国 揖保郡 阿波庭神社(あはての かみのやしろ)の論社です
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林田八幡神社(姫路市林田町) 〈『延喜式』中臣印達神社(名神大)〉
林田八幡神社(はやしだはちまんじんじゃ)は 社伝には 寛平5年(893)五月 国土安穏と子孫繁栄の為 山城国 石清水八幡宮の分霊を勧請し創建と伝わり 旧 八幡宮境内には古くから 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)があったが 頽廃し 八幡宮に合祀されたと云う
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中臣印達神社(たつの市揖保町中臣) 〈『延喜式』名神大神 中臣印達神社〉
中臣印達神社(なかとみ いだてじんじゃ)は 宝亀元年(770)創立と伝へ 延喜式内社 播磨国 揖保郡 中臣印達神社(名神大)(なかとみいんたちの かみのやしろ)とされ 又 式内社 阿波遅神社(あはちの かみのやしろ)を合祀します 更に鎮座地(中臣山)は『播磨国風土記』揖保郡「粒丘(いひほのをか)」に比定されます
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川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)〈延喜式内社〉
川内多々奴比神社(かわうちたたぬひじんじゃ)は 社伝に第10代 崇神天皇の御代 四道将軍 丹波道主命が創建と伝え 別説には 社名の多々奴比(たたぬひ)は楯縫(たてぬい)の訛りで『延喜式』にある神楯を奉仕する斎部の楯縫氏の事 楯縫氏が祖神 彦狭知命を川内郷に祀ったので 川内多多奴比神社と伝わります
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井田神社(豊岡市日高町鶴岡字城山)〈延喜式内社〉
井田神社(いだじんじゃ)は 創建は不祥ですが 元々は倉稲魂命を祀っており 嘉祥元年(848)悪疫流行の際 山城国 石清水八幡宮より誉田別命・気長足姫命の二柱を勧請したと伝わる 延喜式内社 但馬國 氣多郡 井田神社(ゐたの かみのやしろ)です 中世には下津谷伯耆守の居城〔伊福城〕があり 伊福部氏と関係があるのでしょうか
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楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)〈延喜式内社〉
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 白鳳時代(645~710年)の往昔 出雲国から丹波国を経て当国〈但馬國〉で栄えた楯縫連(たてぬいのむらじ)が 遠祖 彦狭知命を楯屋丘 多田谷に祀ったのが始りと伝わる 延喜式内社 但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)です 昭和22年(1947)現在地に遷座奉祀されました
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齋神社 & 境内摂社 楯縫神社(養父市長野字東山)
齋神社(いつきじんじゃ)は 聖武天皇 天平二年(730)創立 境内摂社 楯縫神社と共に 延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社です 伝説には 神代の昔 但馬は泥海だった 但馬五社の神様が養父明神を遣わし 斎神社に坐す彦狭知命に泥海を切り開くことを願い 豊かな大地が生まれたと伝わります
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楯縫神社(養父市建屋字宮山)〈持統天皇3年(689)創立 延喜式内社〉
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 持統天皇3年(689)の創立と伝わり 延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社とされます 『延喜式 神祇七 践祚大嘗祭』に 践祚大嘗会で用いる神楯四枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めていて 川内多多奴比神社と並んで大嘗祭に奉仕した楯縫氏の氏神という説あり
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楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)〈延喜式内社〉
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)は 創建年代などは不祥ですが 延喜式内社 丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)とされます 『延喜式巻7 神祇七 践祚大嘗祭』には 践祚大嘗会で用いる神楯四枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めていますので 川内多多奴比神社と並んで大嘗祭に奉仕した楯縫氏の氏神という説があります
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酒垂神社(豊岡市法花寺字長楽寺)〈延喜式内社〉
酒垂神社(さかたる/さかたれ じんじゃ)は 社伝は 白鳳3年(675)当地の郡司 物部韓国連久々比命が贄田(神田)に酒造所を造り 酒解子神 大解子神 子解子神の酒造3神を祀って神酒を醸造し 祖神に供えて五穀豊穣を祈願したのが創祀と云う 延喜式内社 但馬國 城崎郡 酒垂神社(さかたるの かみのやしろ)とされます
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重浪神社(豊岡市畑上字宮)〈推古天皇25年(617)の創建・延喜式内社〉
重浪神社(しきなみじんじゃ)は 社伝によると 天武天皇 白鳳3年(675)6月 久久比命が城崎郡司となり その父・楮主(かみつ)命を敷浪の丘に葬り祠を建てて祀ったとき 共に祭祀を受け 重浪神社と称したと云う 延喜式内社 但馬國 城崎郡 重浪神社(おもなみ かみのやしろ)であると伝わります
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伊川谷惣社(神戸市西区伊川谷町上脇)〈延喜式内社 物部神社〉
伊川谷惣社(いかわだに そうしゃ)は 神功皇后が三韓征伐の帰途 明石川から伊川を船でのぼり ここで一休みして「大国主命をここに祀れ」と命じたのが創始であると伝わります 『国内鎮守大小明神社記』では 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)としています
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可美真手命神社(押部谷町細田)〈延喜式内社 物部神社〉
可美真手命神社(うましまでのみこと じんじゃ)は 成務天皇十九年(149)に創建されたと伝えられる 延喜式内社 播磨國 明石郡 物部神社(もののへの かみのやしろ)とされ 又 天平勝宝六年(754)摂津国住吉大社の社家「津守連」が楯神・鉾神と共に住吉大神を勧請したと伝えられる押部谷 住吉神社 最初の鎮座地です
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久々比神社(豊岡市下宮字谷口)〈コウノトリの伝説or物部氏の伝承〉
久々比神社(くくひじんじゃ)は コウノトリが棲む地を「久々比(くくひ)」と呼び 社を建て木の神 久々遅命(くくのちのみこと)をお祀りして 始まったと云い 又 一説『国司文書 但馬故事記』には 物部韓國連 鵠(くくひ)〈久々比命〉を祀るとします 延喜式内社 但馬國 城崎郡 久久比神社(くくひの かみのやしろ)です
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韓國神社(豊岡市城崎町飯谷)〈延喜式内社 物部神社〉
韓國神社(からくにじんじゃ)は 第25代 武烈天皇の命を受け 物部眞鳥(もののべのまとり)が 韓國へ派遣された後 但馬の楽々浦に着き 都へ報告に上った その功績により 韓國連を賜わり 物部韓國連眞鳥と称し その子・墾麿(こま)は 城崎郡司に任命され その孫・物部韓國連 鵠(くくひ)が創建した物部神社とされます
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八幡社(三木市志染町安福田)&〈境内社〉御坂社
八幡社(はちまんしゃ)は 戦国期の三木合戦で羽柴秀吉が戦勝祈願の為に安福田の八幡社に出向き 帰りに麓の庄屋で休息を取ったと云い 〈境内社〉御坂社(みさかしゃ)は『播磨国風土記』「志深里(しじみのさと)三坂社の神」の伝承地にある 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社とされます
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御酒神社(三木市細川町垂穂)〈延喜式内社の論社〉
御酒神社(みさかじんじゃ)は 口伝に゛大己貴命が天降りし時 西南麓を流れる小川の辺りを霊地とし鎭座されたのを起源゛と云う 往古は岩宮と称し 磐座を拝し奉り社殿は無く 天應元年(781)社殿建立 天平2年(730)社殿再建の時 神告により氏子の酒造家等は祈願を籠めて美酒を釀造したので 御酒神社と改稱したと伝わる
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御酒神社(三木市別所町石野)〈神功皇后が三甕の酒を捧げた 延喜式内社の論社〉
御酒神社(みさかじんじゃ)は ゛神功皇后が三韓征伐より凱旋され この地へ御幸 天神地祇を親祭せられ 御酒神社に大己貴神坐すとお聞きになり 三甕の酒を捧げた゛と云う 第36代 孝徳天皇 白雉五年(654)創祀と伝わり 元亀元年(1570)大物主神・天太玉命・天鈿女命を勧請 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社の論社です
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三坂神社(三木市細川町豊地〈旧大柿村〉)〈延喜式内社〉
三坂神社(みさかじんじゃ)は 浸水の為 長享元年(1487)現在地に遷座 天保元年(1830)炎上 嘉永3年(1850)再築と伝わります 古老の口碑傳説などによれば 天之御中主尊 三坂神社として大柿 (豊地)に鎮座まします 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)とされます
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三坂神社(三木市加佐)〈神功皇后由来の伝承を持つ延喜式内社の論社〉
三坂神社(みさかじんじゃ)は 口碑に゛神功皇后が三韓征伐の帰途 当地に立ち寄られ 俄雨で衣を湿らせた この時 竹の皮の大きな笠を奉る者に「笠(かさ)人」と勅命し この「笠人」が皇后はじめ諸神を祀り創建した゛と鎮座地「加佐(かさ)」の由来も伝えます 延喜式内社 播磨國 美嚢郡 御坂神社(みさかの かみのやしろ)の論社です