延喜式神名帳

日和佐八幡神社(海部郡美波町日和佐浦)〈延喜式内社 和耶神社〉

日和佐八幡神社(ひわさはちまんじんじゃ)は 社伝には 創建は観応2年(1351)と伝わります 『海部郡誌』には 延喜式内社 阿波國 那賀郡 和耶神社(わやの かみのやしろ)の論社とします 鎮座地の大浜海岸は うみがめ産卵上陸地〈国指定文化財・天然記念物〉です 又 秋まつりの太鼓屋台「ちょうさ」も有名です

賀茂山口神社〈澤田社〉(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の摂社〉

賀茂山口神社(かもやまぐちじんじゃ)は 『本朝世紀』康治元年(1142)の条に゛賀茂の社司が澤田明神の傍らの池に蛇が出ると言上したことを受けて 軒廊御卜(こんろうのみうら)を行じた゛と記録のある摂社゛澤田社゛で 明治時代になり 延喜式内社 山城國 愛宕郡 賀茂山口神社(かものやまくちの かみのやしろ)とされました

久我神社(京都市北区紫竹下竹殿町)〈上賀茂神社 境外摂社〉

久我神社(くがじんじゃ)は 延喜式内社 山城國 愛宕郡 久我神社(こが/くが の かみのやしろ)です 祭神は゛賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)゛〈神武天皇東征の時 先導した八咫烏(やたがらす)とされ 賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉の祭神 賀茂別雷命の祖父〉を祀ります 上賀茂神社の境外摂社となっています

須波神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の摂社〉

須波神社(京都市北区上賀茂本山)は 賀茂別雷神社の摂社で 本社楼門のまえを流れる御物忌川の対岸 片山御子神社のすぐ南 片岡山の麓に鎮座します 江戸時代は゛諏訪社゛と呼ばれましたが 明治以降゛須波神社゛と改称しています 延喜式内社 山城國 愛岩郡 須波神社(すはの かみのやしろ)の論社とされます

片山御子神社(京都市北区上賀茂本山)〈上賀茂神社の第1摂社〉

片山御子神社(かたやまみこじんじゃ)は 上賀茂神社境内に鎮座する賀茂別雷神社の第一摂社です 六国史『文徳天皇實録』齊衡三年(856)の条に゛山城國 片山神を官社に列し相甞祭に預る゛と記され 延喜式(927年)に 山城國 愛宕郡 片山御子神社(大月次相嘗新嘗)(かたやまのみこの かみのやしろ)と所載される由緒ある古社です

賀茂別雷神社〈上賀茂神社〉(京都市北区上賀茂本山)〈山城國一之宮〉

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)は 京都最古の歴史を有する一社です 往古この地を支配した古代氏族゛賀茂氏゛の氏神を祀る・上賀茂神社(かみがもじんじゃ)と・賀茂御祖神社〈下鴨神社〉で 賀茂神社〈賀茂社〉と総称されます 平安京への遷都後は皇城の鎮護社として祀られてきた 山城國一之宮です

勝速日神社(鈴鹿市白子本町)〈通称 勝手さん 勝手大明神〉

勝速日神社(かつはやひじんじゃ)は 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 久留眞神社(くるまの かみのやしろ)の論社であった〈伊勢の森に鎮座した゛福徳さん゛〉が 寛永11年(1634)紀州藩の別邸と代官所を創設する時に 久留真神社を移転した その際 氏子が南北に分かれ「久留真神社」と「勝速日神社」に分社し 創設されたものです

久留真神社(鈴鹿市白子)〈伊勢の森 福徳之宮 車之女神〉

久留真神社(くるまじんじゃ)は 往昔 伊勢の森という神域に鎮座゛福徳さん゛と称され 樹齢1千年以上の゛福徳の松〈御植木〉゛が天に聳えていたと云う その後 第21代雄略天皇の御代(465年頃)相殿に漢織姫尊を合祀して゛福徳の車の女神゛と称された 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 久留眞神社(くるまの かみのやしろ)の論社です

伊勢久留麻神社(淡路市久留麻)〈淡路國三之宮〉

伊勢久留麻神社(いせくるまじんじゃ)は 伊勢國の式内社 久留真神社より勧請せるものと云われます 第三十代敏達天皇〈西暦572~585年〉御病気平癒 祈願の砌り(名)明神祭を奉祀し 快復されましたことにより「明神社」の称号を賜った 延喜式内社 淡路國 津名郡 伊勢久留麻神社(いせくるまの かみのやしろ)です

室津神社(室戸市室津船久保)〈延喜式内社 室津神社〉

室津神社(むろつじんじゃ)は 六国史『續日本紀』に「神護景雲元年(767年)夏六月の条に土佐国安芸郡小領凡直伊賀麻呂が奈良 西大寺に 稲二万束と牛六十頭を 献上」と記録されます 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』には 土佐國 安藝郡 室津神社(むろつの かみのやしろ)と所載される室戸地方では 最も古い神社です 

片山神社〈鈴鹿権現〉(亀山市関町坂下)〈延喜式内社 片山神社の論社〉

片山神社(かたやまじんじゃ)は 元は三つ子山(鈴鹿嶽・武名嶽・高幡嶽)に三宮が鎮座し その後 火災により奉遷を繰り返します やがて鈴鹿社〈祭神 倭姫命〉を合せて1社となり 坂上田村麻呂以下5柱が加わり 永仁2年(1294)現在の多津加美坂の地へと遷座しました 平成11年(1999)放火により本殿を焼失しています

大井神社の遺跡(亀山市関町古厩)〈大井神社の旧鎮座地(明治42年 関神社に合祀)〉

大井神社の遺跡(おおいじんじゃのいせき)は 史跡 鈴鹿駅跡(すずかのうまやあと)にあった延喜式内社 伊勢國 鈴鹿郡 大井神社二座(をほゐの かみのやしろ ふたくら)とされ ここから北40m程の所には゛都追美井(つつみい)゛〈神社の御神体とされる井戸〉もあります 明治42年(1909)関神社(亀山市関町)に合祀されました

江神社(亀山市下庄町)〈二つの延喜式内社の論社①大井神社二座②江神社〉

江神社(えのじんじゃ)は 雨を司る神として 社伝には゛当地は天名川〈中の川〉が流れ 上流は闇淵(くらふち)と称する大沼があって龍神が住んでいた゛と云い 社名を「鈴の宮」〈上社〉と呼び 又 下社もあったとされ これを延喜式内社 大井神社二座としていたと伝わります 又 江神社ともされ 二つの式内社の論社となっています 

加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〈延喜式内社 加和良神社(かわらの かみのやしろ)〉

加和良神社(かわらじんじゃ)は 創祀は不詳ですが『大安寺資料帳〈天平年間(729~749年)〉』に「高良社」と見え 既にこの頃には祀られており 『延喜式神名帳(927年に成立)』に所載 伊勢國 奄藝郡 加和良神社(かわらの かみのやしろ)とされます 大正11年(1922)゛花の木の宮゛〈古社地〉より現在地に遷座しました

大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〈延喜式内社の論社〉

大鹿三宅神社(おおかみやけじんじゃ )は 社伝によれば゛久安三年(一一四七)伊勢国河曲郡一ノ宮村大字池田へ建立゛と伝へるのみです 当社所蔵の棟札の記載から式内社 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)の論社とされますが この棟札については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛ との説もあります

神館飯野高市本多神社〈神戸宗社〉(鈴鹿市神戸)

神館飯野高市本多神社(こうたつ いいの たかいち ほんだじんじゃ)は 第十一代垂仁天皇の御代 皇女倭姫命が皇大神宮〈内宮〉を伊勢の五十鈴川の川上にお定めになられる時 神戸にしばらく滞留せられて御宮所としたのが 神社創建と伝えられ その後 神館神明神社に飯野神社・高市神社・本多神社が合祀され 俗に神戸宗社と呼ばれます

飯野神社(鈴鹿市三日市)〈二つの式内社〈①高市神社②飯野神社の論社〉

飯野神社(いいのじんじゃ)は 弘治元年(1555)式内社 高市神社を合殿(あいどの)に奉斎し 二つの式内社〈①高市神社(たかいちの かみのやしろ)②飯野神社(いゐのの かみのやしろ)〉の論社です 明治39年(1906)明細帳に飯野高市両神社と社名を記し 大正13年(1924)社名を変更し飯野神社と単称するに至っています

飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〈三つの式内社①飯野神社②都波岐神社③大木神社の論社〉

飯野神社(いいのじんじゃ)は 長太(なご)〈穏やかな海面・豊かな漁場の意を持つ地名〉に鎮座します 鈴鹿市無形民俗文化財「長太の鯨船行事」〈昔 伊勢湾に迷い込んだ鯨を銛で仕留める古式鯨漁法を模して 神に様々な祈願を行う祭事〉があります 三つの式内社〈伊勢國 河曲郡①飯野神社②都波岐神社③大木神社〉の論社となっています

亀山神社(亀山市西丸町)〈合祀 式内論社・片岡大明神・眞木尾神社・天満神社〉

亀山神社(かめやまじんじゃ)は かつては真澂神社(ますみじんじゃ)として亀山城内に鎮座していました 明治41年(1908)延喜式内社の論社であった・眞木尾神社(阿野田町)・天満神社(天神町)・志婆加支神社〈江戸時代には片岡明神〉や亀山皇太神社・境内の稲荷社・幸神社・天神地祇社等を合祀して亀山神社と改称されています

比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〈延喜式内社 奄藝郡 比佐豆知神社の論社〉

比佐豆知神社(ひさずちじんじゃ)は 社伝によると創祀並に由緒は゛聖武天皇天平勝宝年間(749~757年)旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位し 往昔は萱葦の神祀六宇に鎮り座し東面した゛と伝えます 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社です

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