延喜式神名帳

須美禰神社(雲南市加茂町立原)

須美禰神社(すみねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「汗乃遅社(うのぢ)のやしろ」とされ 古くから現在の宇能遅神社(宇治)と深い関係があり 社伝では 宇治村より須美禰神社を立原の地に再興したものとされます 創立された年代は不詳です 

奥田神社(雲南市大東町中湯石)

奥田神社(おくだじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に「この地まで その海潮(うしお)が至りました 故に 得塩(うしお)と云う」と記す海潮郷の入口に鎮座します 『延喜式神名帳927 AD.』出雲國 大原郡「海潮神社 うしほの かみのやしろ」の論社です 

三屋神社旧跡地〈松本古墳群〉(雲南市三刀屋町給下)

三屋神社旧跡地(みとやじんじゃきゅうせきち)は 飯石郡 神祇官社「御門屋社(みとや)のやしろ」の旧跡地で 現在地より南に300m程 松本古墳群の古墳の上に 社があったと伝ります 当社所蔵の延喜の棟札の裏書きに「大己貴命 天下惣廟神明也云々」とあり 古墳群との関連が示唆されています

三屋神社(雲南市三刀屋町給下)

三屋神社(みとやじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の御門 すなわち此の処にあり 故に三刀矢(みとや)と云う」とあり 大国主大神が八十神を追い払い 宮居を定め国土経営を始められた所で 飯石郡 神祇官社「御門屋社(みとや)のやしろ」とされます

厳島神社〈須佐神社の境外摂社〉(出雲市佐田町須佐)

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は 須佐神社の境外摂社です 須佐川の西岸に鎮座し大きな磐座が祀られて「洗度社」又は「祓戸社」と称します 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つです

竝九神社(雲南市木次町下熊谷)

竝九神社(なみくじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つとされます ここより斐伊川の上流1.5km程に「御祭神の稲田姫命が 懐妊の時 産湯に使う良い水を探し求められ 河辺社をお産所に定めた」と伝わる井戸の旧跡「熊谷さん」があります

杉森神社(雲南市吉田町川手)

杉森神社(すぎもりじんじゃ)は ヤマタノオロチが棲んでいた所「天が淵(あまがふち)」の西岸の山に鎮座し 社伝では「御正号 河辺神社 亦伝 高杉大明神」と伝えています 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つです

河邊神社(雲南市木次町上熊谷)

河邊神社(かわべじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つです ご祭神「久志伊奈太美等與麻奴良比賣命(くしいなた みとよまぬらひめのみこと)」が懐妊して 生む場所を求め 当地に至り「甚く久麻久麻しい谷なり」と云ったので この地が熊谷と云うと 記されています

奈倍山神社(雲南市三刀屋町古城)

奈倍山神社(なべやまじんじゃ)は 古くは 奈倍山(なばいやま)の麓 尾崎の川辺に鎮座し「川辺社(かわべのやしろ)」と称した『出雲國風土記733 AD.』所載の飯石郡 神祇官社「河邊社(かわべ)のやしろ」の論社の一つです 寛永三年(1626)洪水により山嶺に遷座するも 風災多く 寛延三年(1750)山頂下の現在地に遷座しました

佐比賣山神社(大田市三瓶町多根)

佐比賣山神社(さひめやまじんじゃ)は 『延喜式神名帳(927年12月編纂)』所載の石見国 安濃郡 佐比賣山神社(さひめやまの かみのやしろ)の論社です 『出雲國風土記733 AD.』の国引き神話では くにを引き寄せた「綱」が「薗の長浜(そののながはま)」この綱を繋ぎ止めた東の杭が「佐比賣山(さひめやま)〈三瓶山〉」とされます

多根神社(雲南市掛合町多根)

多根神社(たねじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』飯石郡 多禰郷(たねのさと)に 所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)大穴持命(おほなもちのみこと)と 須久奈比古奈命(すくなひこなのみこと)天下を巡り行きし時 稲種(いなだね)をここに随(のこ)す 故に種(たね)という とあります

加多神社(雲南市大東町大東)

加多神社(かたじんじゃ)は 社伝によれば「御祭神 少彦名命(すくなひこなのみこと)〈大国主命と国造りをなされた神〉は 此の地を根拠地として農耕医療等を教導された」とあります 『出雲國風土記733 AD.』所載の大原郡 神祇官社「加多社(かた)のやしろ」とされます

岩坪明神(出雲市東神西町)〈奈賣佐社の旧鎮座地〉

岩坪明神(いわつぼみょうじん)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 神祇官社に 二つある「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の一つで 大国主命と須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

那賣佐神社(出雲市東神西町)

那賣佐神社(なめさじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』に二つある神門郡 神祇官社「奈賣佐社(なめさ)のやしろ」の両方の論社です 大国主命が 須佐之男命の御子で この里の岩坪で生誕せられたという須勢理姫(すせりひめ)命を娶り 通(かよ)い坐(まし)ました所とされます

佐伯神社(出雲市神西沖町)

佐伯神社(さえきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「波加佐社(はかさ)のやしろ」とされます 中古から近世にかけて那賣佐神社に合祀され衰徴してしまった 貞享四年(1678)に始った神西沖町の干拓により里人が 日御碕神社の祭神を奉齋し これを佐伯神社として復活しました

佐志武神社(出雲市湖陵町差海)

佐志武神社(さしむじんじゃ)は 社伝によれば『日本書紀』にある「高天原から葦原中国を平定するため 経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)が遣わされた」その二神が降り立った地であると伝えます 『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「佐志牟社(さしむ)のやしろ」とされます

富能加神社(出雲市所原町)

富能加神社(ほのかじんじゃ)は 元社地は 星神山(鉾山)〈現社地の北 約1km〉中腹の巌窟に社があって 山麓に拝殿を設けて祭事を執行していました 星神大明神と称し『出雲國風土記733 AD.』所載の神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」の論社です 明治44年に現在の小野山麓〈小野神社の社地〉に遷座し 明治49年 小野神社を合祀して今に至ります

市森神社(出雲市稗原町)

市森神社(いちもりじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』所載・神門郡 神祇官社「保乃加社(ほのか)のやしろ」・神門郡 不在神祇官社「加夜社(かや)のやしろ」の二つの論社の合祀社で かつて薭原両社とも称され一つの拝殿に御本殿は「星宮大明神」「市森大明神」の同形同大の二社であったと伝わります

多伎神社(出雲市多伎町多岐)

多伎神社(たきじんじゃ)は 『出雲國風土記733 AD.』神門郡 多伎郷(たきのさと)の条に「所造天下大神(あめのしたつらししおおかみ)の御子(みこ)阿陀加夜努志多伎多伎吉比賣命(あだかやぬし たききひめのみこと)が坐(ましま)す 故に 多吉(たき)という」とあり 神門郡 神祇官社に二つある「多吉社(たき)のやしろ」両方の論社となっています

三谷神社〈阿須利神社の古社地〉(出雲市大津町 字西谷)

三谷神社(みたにじんじゃ)は 約500年前に紀州熊野(和歌山県東牟婁郡)から勧請し 上来原の大神谷の山上に祀られました 元禄5年(約300年前)池ノ内の干拓があり それまで同地 杓子山にあった式内社〈阿須利神社の古社地〉を三谷山上に遷した機会に いっしょに三谷の地に奉遷し合祀したので 式内 三谷大明神と呼ばれました 明治5年(1872)阿須利神社は独立し分離 その後 昭和37年に現在地に遷座して今日に至っています

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