狭田國生神社(さたくなりじんじゃ)〈皇大神宮(内宮)摂社〉は 『倭姫命世記』に「倭姫命が皇大神を奉じ 寒川を遡った時 速河彦命が参り゛畔廣之狹田(アゼヒロノサタ)の國゛の神田を献上し 倭姫命が゛速河狭田社゛を祝定めた」と云う 延喜式内社 伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
狭田國生神社(Satakunari shrine)
【通称名(Common name)】
・波伊古さん(はいこさん)
〈この地が 古来から゛はいこ゛と呼ばれるのは゛速川比古の社゛の意とされ 寬文三年(1663)この地に再興されました〉
【鎮座地 (Location) 】
三重県度会郡玉城町佐田字牛カウベ322
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》速川比古命(はやかわひこのみこと)
速川比女命(はやかわひめのみこと)
山末御魂(やまずえのみたま)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉
【創 建 (Beginning of history)】
『神宮要綱』〈昭和3年(1928)〉に記される内容
【抜粋意訳】
狹田國生神社
鎭座地 三重縣度會郡田丸町大字佐田
殿 舎
正 殿 神明造、板葺、南面・・・壹宇
玉垣御門 猿頭門、扉付・・・壹間
玉 垣 連子板打・・・壹重
鳥 居 神明造・・・壹其
右神宮司庁造替狹田國生(サダクナリ)神社は 延喜大神宮式及び神名式に載す。皇太神宮儀式帳には、狹田神社に作る。
太神宮本記に倭姫命 皇大神を奉じ伊蘇の宮より寒川を泝(さかのぼ)りましゝ時、速河彦命 途上に参り相ひ、畔廣之狹田(アゼヒロノサタ)の國 と白して佐々上の神田を進め、其の處に速河狹田社定め給へることを記せるもの 卽ち本社の起源にして、儀式帳には祭神 須麻留女神の兒 速川比古(ハヤカハヒコ)・速川比女(ハヤカワヒメ)・山末御玉(ヤマズエノミタマ)の三柱となせり。
寬文三年 現地に再興す。其の地を古來 ハイコの社と稱するは、速川比古の社の意ならんと云へり。
【原文参照】
【由 緒 (History)】
『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年(1943)〉に記される内容
【抜粋意訳】
狭田國生神社(さだくなりじんじゃ)
狭田國生(さだくなり)神社は 孔子廟から西に一丁、外城田橋の西の袂に鎭座してゐる。社頭入口に享保甲辰 (九年)に紀州藩で立てた「禁殺生」の社標の石柱が立てられてゐる。この社標は紀州領の中にある攝末社には皆、何れも一本づゝ立てられてゐる。注意する方々には充分目に触れられること、思ふ。
本社は皇大神宮の攝社で ,その御社名は皇大神宮儀式帳には 狭田神社(さだじんじゃ)と見えてゐる。狹田國生(さだくなり)神社といふ名前は延喜式神名式に載せる所で、同大神宮式や神名秘書には狹田國生社と見えてゐる。
鎭座地は度會郡田丸町大字佐田(さだ)で 昔の田邊郷(たのへのさと)(或は田上郷 たのへのさと)の地で、田邊とは大神宮御神田のある郷といふ意味である。地名の佐田は社名の狹田と同じく、狹田長田(さだながた)の狹田で、田邊郷を流れる外城田川の支流に挟まれた細長い田のことで、そこを支配し國土の生育を司ってゐる神が國生(くなり)の神である。
御祭神は儀式帳によると、速川比古(はやかわひこ)、速川比女(はやかわひめ)、山末御玉(やますえのみたま)の三柱の神を御祭り申し上げてゐる。速川比古・速川比女といふ神は このお宮の傍を流れてゐる外城田川の川の神で この狹田の沃野の灌漑用水を司る神である。山末御玉の神は お宮の西近くの田丸山(たまるやま)の麓にうしはきゐます神で、狹田の土地の守り神である。何れにしてもこの三柱の神とは狹田の沃野の農耕生活を俣護し給ふ神として、この土地の人々から尊崇された神々である。
御正殿は一宇で、御社地は昔は一町五段の廣さを有してゐたと云はれる。
御鎭座の緣起については、倭姫命世紀に、垂仁天皇の御代、倭姫命が皇大神を奉じて ,伊蘇(いそ)宮 (豊濱村大字磯)から寒川(さむかは)(今の外城田川)を遡られて、この地に御遷幸の御とき、速川彦命(はやかわひこのみこと)が、御迎え申し上げ、この地は 畔廣(あぜひろ)之狹田(さた)の國(くに)であると申し佐々上(ささがみ)の神田を奉った功績により、倭姫命によつて、速川狹田社(はやかはのさたのやしろ)が、祝ひ定められたといふことが傳へられてゐる。今も、外城田川の南岸に「ササガミ」と字(あざな)する耕地が傳へられてゐる。佐々上神田の遺跡である。中世、社殴の頽廃せることありしも、江戸初期の寬文三年に再興され、今日に及んでゐる。
今は神社の西に路があって、そこから参るやうになってゐるが ,昔は、南の方に参道がついてゐたといはれてゐる。
【原文参照】
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
狭田國生神社は 皇大神宮(内宮)の摂社です
・皇大神宮(内宮)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻4「神祇四 伊勢太神宮」
「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定が含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています
【抜粋意訳】
伊勢太神宮
太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】
瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】諸社卌座。
太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社
度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社
山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社右諸社,並預祈年、神嘗祭
以下略
【原文参照】国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢国 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 狭田國生神社
[ふ り が な ](さたのくなりの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sata no kunari no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
・内宮・外宮の別宮・摂社・末社について
・お伊勢さん125社について
゛國生神(くなりのかみ)゛について
『延喜式』には「國生(くなり)」を号する式内社が五社(・狭田国生神社・坂手国生神社・川原坐国生神社・大間国生神社・国生神社)あります
何れも 伊勢國の式内社で 神宮と深く関わっています
しかし 御祭神は 神社ごとに別々で 特定の御神名ではありませんので 各々の地域の地主神に対する美称であろうと考えられています
すなわち 國生神(くなりのかみ)とは ゛国土に生まれでた神゛゛国を生む神゛の意で ゛國魂神(くにたまのかみ)゛の如く そこを支配し國土の生育を司っている神が 國生神(くなりのかみ)であろう とされます
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式内社〈伊勢國〉の中で゛國生神(くなりのかみ)゛を号する五つの社
①伊勢國 度會郡 狭田國生神社(さたの くなりの かみのやしろ)
・狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
②伊勢國 度會郡 坂手國生神社(さかての くなりの かみのやしろ)
・坂手國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉
③伊勢國 度會郡 川原坐國生神社(かわはらのます くなりの かみのやしろ)
・高河原神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
・須原大社(伊勢市一之木)
〈高河原神社の旧社地〉
④伊勢國 度會郡 大間國生神社(をほまの くななりの かみのやしろ)
・大間國生神社〈豊受⼤神宮(外宮)摂社〉
⑤伊勢國 多氣郡 國生神社(くなりの かみのやしろ)
・鳥墓神社(明和町簑村字鳥墓 )
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR参宮線 田丸駅から 北西へ約450m 徒歩6分程度
境内の東側には外城田川が流れ 社頭の入り口は 境内の西側にあります
狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着
社号の石柱には゛皇大神宮 狭田國生神社゛と刻字あり
参道は ほぼ直角に折れて 社殿は 南を向き 古殿地は 見当たりません
正殿にすすみ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 挾田國生神社について 所在は湯田郷佐田村に在す〈現 狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
『倭姫命世記』を引用して 倭姫命が幸行の時 速河彦命が「畔広の狭田の国」として神田を献上したので 倭姫命が「速河狭田社」を祝い定めたと 神社の創建についても記しています
【抜粋意訳】
挾田國生神社
挾田は假宇也、國生は久爾奈利と讀り、
〇祭神 速川彦命、速川姫命、山末御玉神、
○湯田郷佐田村に在す、神名略記
〇式四 伊勢大神宮 大神宮 所摂廿四座の第廿二に戴す、
〇倭姫世記云、從に其処幸行、速河彦詣相支、汝國名何問給、白久畔廣之狭田國止白天、佐々上神田進支、其処 速河狭田社定給支、云々、」
儀式帳云、狭田神社、称須麻留女神兒、速川比古、速川比女、山末御玉三柱、形無、倭姫内親王定祝、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 挾田國生神社について 所在は湯田郷佐田村にあり〈現 狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記し
垂仁天皇 御世 倭姫命之を祀定奉る と神社の創建についても記しています
【抜粋意訳】
挾田國生(サタノクナリノ)神社
また挾田神社と云、延暦儀式帳、
今 湯田郷佐田村にあり、俗に波伊古社と云ふ、神祇本源、神名秘書、延暦儀式帳、神名帳考証、、〇按 波伊古は、速川比古の訛音なり須麻留女神の兒 速川比古、速川比女、山末御玉を祭る、
垂仁天皇 御世、倭姫命之を祀定奉る、延暦儀式帳、
醍醐天皇 延喜の制、祈年神甞の祭に預る、延喜式
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 挾田國生神社について 所在は度會郡田丸町大字佐田〈現 狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています
【抜粋意訳】
狹田國生神社 今稱 波伊古社
祭神 速川比古神
速川比女神
山末御玉神 並 須麻留女神兒祭日 同上
社格 内宮所攝二十四所之ー所在 度會懸湯田郷佐田村北田丸萱町(度會郡田丸町大字佐田)
【原文参照】
狭田國生神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)