佐肆布都神社(さしふつじんじゃ)は 明治41年(1908)中津神社に合祀された佐肆布智明神の旧 鎮座地です 式内社の佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)とされます 石祠の背後の゛巨石゛は〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
佐肆布都神社(Sashifutsu shrine)〈Former site of the shrine〉
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
長崎県壱岐市勝本町新城北触打田999
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
里人は 石祠の背後の”大石”を御神体として今でも信仰しています
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社の旧鎮座地
【創 建 (Beginning of history)】
佐肆布智明神と呼ばれていた〈明治41年(1908)を中津神社に合祀〉
【由 緒 (History)】
佐肆布都神社は1966(明治41)年に中津神社に合祀されたため、現在は丸木で作った素朴な鳥居だけが残っており、神殿はありません。地元の人は森の中にある石祠の背後にある”大石”を御神体として今でも信仰しています。
壱岐市立一支国博物館HPより
【境内社 (Other deities within the precincts)】
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈明治41年(1908)佐肆布智明神を合祀〉先 中津神社(壱岐市勝本町北触)
・中津神社(壱岐市勝本町)に合祀
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
〈明治41年(1908)佐肆布智明神を中津神社に合祀〉
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)壱岐島 24座(大7座・小17座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)壱伎郡 12座(大4座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 佐肆布都神社
[ふ り が な ](さしふつの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sashifutsu no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 佐肆布都神社の論社について
佐肆布都神社(さしふつの かみのやしろ)
・佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町)
・中津神社(壱岐市勝本町)に合祀
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神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
〈明治41年(1908)佐肆布智明神を合祀〉先の中津神社(壱岐市勝本町北触)から 北へ約700m程
坂道の途中の畑の先に鳥居が建ちます
鳥居には 佐肆布都神社 と記されています
佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)に参着
〈旧 鎮座地〉ですが鳥居には 注連縄もかかり 今でも祀られている事がわかります
一礼をして 鳥居をくぐり 真っ暗な杜の中へと進みます
森の中には 開かれた空間があり 左手には 瓦葺の拝所の中に石祠 右手には手水鉢が置かれています
中津神社に合祀された 佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉ですが 新しく造られた拝所があり すすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
里人は 石祠の背後の”大石”を御神体として今でも信仰しているとされます
石には注連縄がかかります
そのすぐ横には もう一つ石がありますが かつては一つの石だったと伝わり
この巨石〈佐肆布都神社としるす所なり 古老 昔 佐肆布都神 石舟にのりてこの地に亘り給う〉とする舟石(ふないし)と考えられています
佐肆布都神社
むかし佐肆布都神石船にのりて此の地に亘り給ふ。其石船は神居の丑子にあり。今案ずるに船石是なり。又石祠の後に大石二つあり。一つは周匝四間三尺六寸、高一間三尺。一つは周匝三間三尺、一、高七尺七寸三分。神石と見ゆ。」いつの間にか巨石は割り取られ、山は開墾され、あとには形ばかりの小祠を造つてゐる。『式内社調査報告〈第24巻 西海道〉出版社 皇学館大学出版部』より
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神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『壱岐名勝図誌』〈文久元年(1861)に完成〉に記される伝承
巻24 新城村之部に記されています
【抜粋意訳】
巻24 新城村之部
中津宮 在 中津山
祭神 中 瓊瓊杵尊 左 天兒屋根尊 右 太玉命
御殿 南向
拝殿 桁 三間半 梁 二間境内 東西三十八間半 南北四十間半 周囲一百三十八間
社領 水田
神物 石額一隻 延宝四年国主奉納
告文二通 寛政年中清朝臣奉納当社は神名式に所載 壱岐郡 中津神社 名神大 是なり
日本管領社記云 壱岐管ニ勤請 壱岐中津神社 若宮記云 若宮大明神の御女を仲姫と申し 父は応神天皇以皇后仲媛命は 今 垂迹を仲津宮大明神とまをす 今 瓊瓊杵尊と称せし是なりひ
後花園天皇享徳三年申戌二月 造替なり 今 嘉永五年に至り三百九十八年
吉野末負大宮司たり その後往々造替なり佐肆布都社
舩石 堅五尺五寸 横二尺七寸
縁髙九寸五歩 窪二寸五分・・・・
・・・・社記云掛巻に かくこれ若宮大明神 古屋敷より今の社地に遷して給ひし 須は神領多く年中数度の祭礼を厳重なりし
・・・・・
・・・・・古社地 今古屋敷と云う
此の所前は 知多にして 後は林なり
〇社記云
古屋敷といふは 若宮大明神の古宮地なり 御託宣に任せ今 此新地に安鎮座なり 是によりて 田の名を前神田といふ 又 大畠といふ 九月十六日の晩・・・右 古屋敷前 神田馬場の的場石といひて立石なり 馬出石といひて横石なり 月付石といひて立石なり
・・・・
・・・・佐肆布都神社 在 打田里
石祠 卯辰向 延宝四年 国主奉納なり
上屋 五尺方 瓦葺
境内 東西十八間 南北十九間半 周囲六十七間半
船石 図出上 畠中にあり 去御山北十七間半 其の形勢真の舟の如し
当社は式の神名帳に所載 壱岐郡 佐肆布都神社なり
延寶〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の改め 以前は 佐志布知大明神といひしなり
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 壹岐郡 佐肆布都神社の論社の所在について 新城村〈現 佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町)〉と記しています
【抜粋意訳】
佐肆布都神社
佐肆布都は假字なり
〇祭神明らかなり
〇新城村に在す 土俗 佐肆布智明神と称す 式社考〇古事記、神武段
答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 壹岐郡 佐肆布都神社について 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉の時 新城村 打田指淵大明神の指淵(さしふち)の名から由があったとされた
【抜粋意訳】
佐肆布都神社
祭神 経津主命
祭神 十一月十八日
社格 (無社格)所在 新城村(壱岐郡香椎村大字新城)
今按〈今考えるに〉
新城邑 打田指淵大明神と称して社もなかりしを 延寶の調〈平戸藩の国学者橘三喜の式内社調査〉に指淵の名によりて 佐肆布都神社とせりとみえたるによりて 式社沿革考には同村の若宮明神かとあれと 指淵の名いと由あれは長崎縣式内社記に従へり
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 壹岐郡 佐肆布都神社の所在について 新城村と記しています
【抜粋意訳】
佐肆布都(サシフツノ)神社
今 新城村に在り 蓋 建御雷之男神を祀る 古事記 延喜式
佐肆布都神は、其平國劔の亦名なり 古事記 凡十一月十八日祭りを行ふ
【原文参照】
『壱岐国神社誌』(Ikinokuni jinjashi)〈昭和16年(1941)〉』に記される伝承
明治41年佐肆布都神社を合祀と記しています
【抜粋意訳】
郷社 中津神社(旧号中津宮)
鎭座地 勝本町大字新城北触
祭 神 天津日高彦火瓊々杵尊、天児屋根命、天太玉命明治41年佐肆布都神社ヲ合祀シテ経津主命ヲ併セ祀ル。
例祭日 3月14日
境内地 234坪〔由緒沿革〕
一、吉野文書ニ曰、中津神社ハ壱岐群管領ノ神社也。
一、神名記ニ新城村中津神社、大、改以前ハ中津宮ト云、式外卜見ユ。
一、神社帳ニ河角、中津神社、二十四座ノ内、有社拝殿、定祭9月14日、延宝4年6月國主ヨリ木鏡神体石額ヲ献ゼラルト記ス。
一、吉野氏系譜ニ曰、享徳3年(1214)2月17日新庄村中津宮造営遷宮吉野五郎三郎末貞。
附記、末貞ノ時代記ニ新庄、香椎、勝本、箱崎、瀬戸、布氣、本宮、唐田、国府、湯岳、長峰、有安、黒崎、小牧、等ノ大小社務ニ與ルトアリ。
文亀元年(1261)中津宮造営遷宮、吉野九郎太夫末春。
天正4年(1576)新庄中津宮造替遷宮、吉野甚五左衛門末秋。
萬治4年新庄中津宮造替3月10日遷宮、吉野釆女尚忠。
一、明暦2年(1316)8月吉野氏惣領家藤右衛門末正ノ著、新城村若宮御祭礼記ニ中津宮、9月14日、日ノ日祭リ、庄屋々敷ヨリ献調云々、右諸社ハ若宮大明神末社也、御神事可相勤者也トアリ。
一、明治16年10月11日郷社ニ列セラル。
一、大正2年2月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。
【原文参照】
佐肆布都神社〈旧 鎮座地〉(壱岐市勝本町北触)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)