左内神社(さないじんじゃ)は 三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました その旧鎮座地は手無という地名です 『延喜式神名帳』の論社とされいて 手無にある「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地とも云われます 更に通称名として「天地(ame tsuchi)宮」とも呼ばれていて「式内社・阿米都知(ame tsuchi)命神社」の論社とも云われています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(shrine name)】
左内神社(sanai shrine)
(さないじんじゃ)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (location) 】
静岡県三島市中島字西310-2
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》阿米都瀬気多知命(ametsuseketachi no mikoto)
【御神格 (God's great power)】
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載社
・三嶋大社の御門守護神
【創 建 (Beginning of history)】
左内神社(さないじんじゃ) (中島)
この神社の祭神は、阿米都瀬気多知命(あめつせけたちのみこと)、もと中島字(あざ)園田に祀られており、梅名の右内神社とともに三嶋大社の御門の守護神として、下田街道の左右に祀られ、古くから土地の武士の棟梁(とうりょう)に敬(うやま)われていました。明治19年(1886)2月に火災に遭い、建物を全部焼失し、宝物(ほうもつ)、古文書(こもんじょ)が全部なくなってしまいました。明治20年(1887)4月に現地に移転新築し、昭和16年(1941)に改築され今日に至っています。
増訂(ぞうてい)『豆州志稿』(ずしゅうしこう)によれば、この神社は式内父梨(ちちなし)神社であると書かれています。
出典 『三島市誌 下巻』p.569、『田方神社誌』p.9、『Welcome to ふじのくに 三島』p.51三島市役所HPより抜粋
【由 緒 (history)】
三島の村名9 中島―その2―(中郷地区)
左内(さない)神社(平成28年12月1日号)中島にある左内神社は、隣接する梅名(うめな)の右内(うない)神社とともに三嶋大社の御門の守護神と され、三嶋大社と同様に武士からの崇敬が厚かったと伝えられています。詳しい由緒などは不詳ですが、平安時代に成立した『延喜式神明(えんぎしきじんみょう)帳』に記載されている文梨(ふみなし)神社(父梨神社とも)が現在の左内神社であると推測されています。
その名のとおり、かつては中島の集落を南北に貫く三嶋大社の参道でもある旧下田街道の東側(三嶋大社から見て左側)にありました。隣の中集落にある手無地蔵堂あたりの森にあったとも言われており、「父梨(ててなし)」が縮まって「手無(てなし)」となったと考えられています。その後、現在の中島浄水場付近に鎮座しましたが、火災により明治20年(一八八七)に旧下田街道西側の現在地に移転しました。三島市役所HPより抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』(927年12月編纂)といって 平安時代中期に朝廷が作成した全50巻の律令格式の巻物の中でも重要視されている2巻です 内容は 今から約1100年前の全国の官社(式内社)一覧表で「2861社」の名称とそこに鎮座する神の数 天神地祇=「3132座」が所載されています
【延喜式神名帳】(engishiki jimmeicho)The shrine record was completed in December 927 AD.
2つの式内社の論社とされています
旧鎮座地「手無地蔵」は「式内社・文梨神社」の旧社地と云われます
更に通称名として「天地(ame tsuchi)宮」とも呼ばれていて「式内社・阿米都知(ame tsuchi)命神社」の論社とも云われています
①賀茂郡「伊波氐別命神社」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 46座(大4座・小44座)
[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 文梨神社
[ふ り が な ](ふむなしの かみのやしろ)
[How to read ](fumunashino kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
➁田方郡「阿米都瀬氣多知命神社」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆国 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内 小社
[旧 神社名 ] 阿米都瀬氣多知命神社
[ふ り が な ](あめつせのけたちのみことの かみのやしろ)
[How to read ](ametsuseno ketachino mikoto no kamino yashiro)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
国立国会図書館デジタルコレクション 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
三嶋大社の御門の守護神として 旧下田街道沿いに左右に「右内神社」とともに祀られていた頃の 旧鎮座地について
①佐内神社の旧鎮座地(現在の中島浄水場付近)について
旧鎮座地の場所です
その名のとおり、かつては中島の集落を南北に貫く三嶋大社の参道でもある旧下田街道の東側(三嶋大社から見て左側)にありました。隣の中集落にある手無地蔵堂あたりの森にあったとも言われており、「父梨(ててなし)」が縮まって「手無(てなし)」となったと考えられています。その後、現在の中島浄水場付近に鎮座しましたが、火災により明治20年(一八八七)に旧下田街道西側の現在地に移転しました。
三島市役所HPより抜粋
➁『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho)』所載の文梨神社(fumunashino kamino yashiro)「父梨(ててなし)神社」の旧跡について
下田街道沿いにあった神社が 焼けた跡地があります その跡地には 石の地蔵を祀った地蔵堂が建てられたと伝わります
場所は「佐内神社の旧鎮座地」の北700mぐらいです
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神社にお詣り(Pray at the shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
大場駅から 県道141号経由 約800m 徒歩10分程度
御殿川を挟んで 東岸に当社 西岸に右内神社があります
左内神社(sanai shrine)に到着
駐車場の右手前に社号標「延喜式内 村社 左内神社」があります
玉垣と平行に鳥居が建っています
鳥居の扁額には「左内神社」と掲げられています 一礼して鳥居をくぐり抜けます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りです
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
本殿の裏に廻ると御殿川が流れていて その対岸方向には右内神社があります
参道を戻ります
鳥居をくぐり抜けて 振り返り一礼をします
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神社の伝承(Old tales handed down to shrines)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『豆州志稿(zushu shiko)』に記される伝承
『豆州志稿(zushu shiko)』は江戸時代に編集された伊豆地方の代表的な地誌
現在の御祭神は阿米都瀬気多知命(ametsuseketachi no mikoto)です
三嶋大社の御門 左右ノ神と捉え 右内神社の櫛石窓命(kushi iwamado no mikoto)と対の門神「豊石窓神(toyo iwamado no mikoto)」が気になりますが 解答が記されています
意訳
「 阿米都瀬氣多知命神社
(ametsuseno ketachino mikoto no kamino yashiro)中島村に鎮座 今 阿米都知明神があるのは 左内明神 豊石窓命(toyo iwamado no mikoto)と氏子は伝えます
伊波氐別命(ihatewake no mikoto)と 三嶋大社の御門 左右の神です
左右は大社に至る方位です ・・・・」
【原文参照】国立公文書館デジタルアーカイブス 選者:秋山章/校訂者:秋山善政[数量]15冊[書誌事項]写本 弘化04年[旧蔵者]内務省
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000002883&ID=M2018051109165431627&TYPE=&NO=
文梨神社(fumunashino kamino yashiro)「父梨(ててなし)神社」の旧跡に残る「手無地藏」の伝承について
手無地蔵
昔、この地に建っていたといわれる神社は、森に囲まれていたが、年代が不詳だが焼けてしまった。この荒廃した跡にお堂が建った。これが手無地蔵である。この地蔵堂には次の様な伝説がある。
昔 このお堂のそばに石地蔵があったが、よく化けては人をおどろかせていた。ある日いつものように化けて、若侍の髪を引いたら、逆にその若侍に左手を切り落とされてしまった。このため手無地蔵といわれるようになったといわれる。 なおこの若侍は源頼朝であると言い伝えもある。平成8年3月 三島市教育委員会
「父梨(ててなし)神社」の旧跡の案内板より
三島市郷土資料館『三島宿の民話 手無地蔵』より
手無地蔵には、さまざまな伝承が残されています。 それでは源頼朝(みなもとのよりとも)にまつわる いい伝えをご紹介しましょう。
800年以上も昔のお話です。
源頼朝が三嶋大社にお参りした折り、今の手無の ところを通ると、美しい女の人が 後をつけてきます。 あやしい気配を感じた頼朝は、知らないそぶりをしていました。
それから毎夜、頼朝がここを通ると、同じように女の人が後をつけてきました。手無地蔵 しかし、あえて知らないそぶりをしていると、ある時その女が声をかけてきました。
「うるさい」と怒り声をあげた頼朝が、その女の片腕を刀で切り落としました。
女は地蔵でした。
手無地蔵地蔵はこの時から手なしになり、手無地蔵と呼ばれるようになりました。この時頼朝が 刀の血を洗った川は、血の川と呼ばれたそうで、今も、ちみだれ川、てみだれ川と呼ばれています。
三島市郷土資料館『三島宿の民話 手無地蔵』より
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/densyoku/minwa/tenashi.html
三嶋大社の御門の守護神として 右内神社とともに下田街道の左右に祀られていました
左内神社(sanai shrine)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)