酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(さかやじんじゃあとち)は 延喜式内社 河内国 丹比郡 酒屋神社(鍬靫)(さかやの かみのやしろ)の旧鎮座地です かつて神社の西側に酒蓋池(さかぶたいけ)が広がり 池の東北に酒屋井(さかやい)と称する井戸が存在していて その井戸から神が出現したと云う 酒屋権現(さかやごんげん)と呼ばれていた
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(Former seat of the Sakaya Shrine)
【通称名(Common name)】
・江戸時代には 酒屋権現(さかやごんげん)
【鎮座地 (Location) 】
大阪府松原市三宅中6丁目2番2号
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》中臣酒屋連の祖神の津速魂命を祀っていた
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
酒屋神社跡地
この地に明治の頃まで延喜式内社の酒屋神社があった。
かってこの地の西側に「酒蓋池」という池があり、池の東北に「酒屋井」という井戸があって、そこから神が出現されたので酒屋権現とも称されていた。 また、この地の北側に 権現山古墳と言われた前方後円墳の痕跡が見つかった。この古墳が酒屋井の水で酒造りをしていた中臣酒屋連の祖神の墓ではないかと考えられている。 貞観七年(八六五年)十二月、従五位下の位を授かり酒屋神社と称された。
明治四十年(一九〇七年)四月、屯倉神社に合祀され、今は屯倉神社の境内の一角にある。
祭神として、中臣酒屋連の祖神の津速魂命を祀っている。
興室院の五十周年記念に当たりここに碑を建立した。
平成十二年十一月吉日
興室院
現地石碑文より
【由 緒 (History)】
酒屋神社址に建つ「酒倉大神」
延喜式内社の旧地を受け継ぐ「酒倉大神」と三西児童公園
三宅中五丁目の西方寺(さいほうじ)(融通念佛宗 ゆうずうねんぶつしゅう)の北側に三西(さんせい)児童公園(三宅中六丁目)があります。
公園入口に祠(ほこら)が建てられており、正面に「酒倉大神(さかくらおおかみ)」の扁額(へんがく)が掛けられています。「酒倉大神」とよばれる神名は、近代以降に付けられましたが、公園の地には、もともと明治時代後半まで酒屋(さかや)神社が祀られていました。
酒屋神社は、平安時代の十世紀初めの『延喜式(えんぎしき)』神名帳(じんめいちょう)とよばれる法典に記され、国家から幣帛(へいはく)を授けられていた由緒ある延喜式内社でした。神社の西側に酒蓋池(さかぶたいけ)が広がり、池の東北に酒屋井(さかやい)と称する井戸が存在していました。その井戸から神が出現したということで、酒屋権現(さかやごんげん)ともよばれていました。
三宅には、天皇家の直轄地である依網屯倉(よさみのみやけ)が五〜六世紀の古墳(こふん)時代から置かれていたと伝えられています。屯倉とは、直轄地から収穫した稲米を蓄える倉庫があったことから付けられ、依網は、三宅や天美地域などの旧名です。屯倉神社(三宅中四丁目)の名も、同地の歴史を受け継いでいるのです。
この屯倉の地に、中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)という豪族が住み、屯倉の米と酒屋井の水とで酒を作り、大和の朝廷に貢いでいたと言われています。中臣酒屋連氏が祖神の津速魂命(つはやむすびのみこと)を「酒屋神」として祀ったのが、酒屋神社と考えられます(「歴史ウォーク」10)。
しかし、酒屋神社は明治四十年(一九〇七)に屯倉神社に合祀され、社殿や鳥居・狛犬(こまいぬ)なども同社に移されたのでした。現在、屯倉神社本殿の横(北側)に祀られています。現社殿は、昭和六十三年(一九八八)九月に屯倉神社本殿と共に、再建されたものです。
社殿前には「式内 酒屋神社」の社号標石も見られ、鳥居の北側に置かれた「元禄(げんろく)四辛未(しんび)年四月八日」と刻まれた江戸時代前半の元禄四年(一六九一)の常夜燈(じょうやとう)は優美な造形美を現しています。神社には、大正四年(一九一五)七月十八日に撮影された古写真が残されていました。おごそかな鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)にたたずむ風景をかもしだしています。
屯倉神社の祭神の菅原道真(すがわらのみちざね)が、大宰府(だざいふ)(福岡県)に左遷される折、祖先神を祀る同社に立ち寄り、休息したという「神形石」(かみがたいし)も酒屋神社の鳥居前左側に保存され、写っています。「神形石」は、今では屯倉神社本殿に至る参道左側に移されていますが、旧状を示す貴重な一枚です。
それでは 合祀後の酒屋神社旧地はどうなったかというと、旧社地のすぐ前に西芳松(にしよしまつ)の家が建っていました。芳松は昭和十一年(一九三六)七十一歳で亡くなりましたが、明治末期に近くの松田万造(まんぞう)の長女 、シゲの婿(むこ)に入り、松田家の当主となりました。その際、芳松は新居を更地(さらち)となっていた酒屋神社址に求めたのです。芳松は自宅を建てると共に、敷地内の南東隅に酒屋神社のいわれを受け継ぐ形で、祠を祀りました。それが、現在、三西児童公園の入口に建つ祠です。芳松は、社号を酒屋神社にならい、「酒倉大神」と名づけたのです。明治四十年代の二月十六日のことです。
のち松田家によって 創祀日の二月十六日を一年の大祭とし、それは昭和五十年代後半まで続けられたようです。
芳松や妻シゲ(昭和十三年没、七十二歳)の後、祠は長男の亀太郎(かめたろう)(昭和三十四年没、六十二歳)と妻やえが引き継ぎました。とくに、やえは昭和五十九年(一九八四)、八十歳で亡くなるまで、大祭や日々の勤めに奉仕したのでした。
その間 、亀太郎・やえ夫婦の長男である吉次(よしじ)(平成二十五年没、八十三歳)は、昭和四十七年(一九七二)、酒屋神社址の自宅をとりこわし、近くの地に転居しました。その後、旧地は、今のように三西児童公園に生まれ変わったのです。しかし、吉次は「酒倉大神」の祠を再建してそのまま同地に残し、吉次死後も家族によってお世話されたのです。また、吉次は同時に移転先の新築住居内の庭にも同じく「酒倉大神」の祠を分祀し、祭祀を続けたのでした。今では、延喜式内社の酒屋神社旧地の大神は、移転宅の祠に移されましたが、社殿だけはその由緒を形を変え、一〇〇〇年以上にもわたる歴史にいざなってくれています。
松原市 松原歴史ウォークvol.298「酒屋神社址に建つ「酒倉大神」より
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・三西町会児童公園
・酒倉大神
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
延喜式内社 酒屋神社の現在の鎮座地
〈明治40年(1907)神社合祀政策により屯倉神社(松原市三宅中)の境内合祀社へ遷座〉
・酒屋神社(松原市三宅中〈屯倉神社境内〉)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
河内郡〈郡は國の誤記とされています〉の酒泉神として 從五位下を授かると記されています
【抜粋意訳】
卷十一 貞觀七年(八六五)十二月廿六日癸酉
○廿六日癸酉
武藏國 五位下 伊多之神
參河國 從五位下 赤孫神 並 授從五位上河内郡 正六位上 酒泉神に 從五位下
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内國 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹比郡 11座(大3座・小8座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 酒屋神社(鍬靫)
[ふ り が な ](さかやの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Sakaya no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
酒屋神社(さかやのかみのやしろ)と称する式内社について
延喜式内社 山城國 綴喜郡 酒屋神社(さかやの かみのやしろ)
神社の伝承には 神功皇后が三韓遠征の際 神社背後の山に酒壺を三個安置して出立 帰国後その霊験に感謝し創建 皇后が朝鮮より持ち帰った“九山八海の石”が今もここにあると伝わる
一説によれば 津速魂神の19世孫 眞入連公の孫 中臣酒屋連(なかとみのさかやのむらじ)が この地に住んでいて神託により 酒彌豆男神の子 酒彌豆倉神を西側の山の上に祀った これを酒屋神社と称した との伝承があります
・酒屋神社(京田辺市興戸宮ノ前)
延喜式内社 河内国 丹比郡 酒屋神社(鍬靫)(さかやの かみのやしろ)
旧社地の西側に「酒蓋池(さかぶたいけ)」という池があり 池の東北に「酒屋井(さかやい)」という井戸があって そこから神が出現されたので「酒屋権現(さかやごんげん)」とも称されていた
また弘仁(こうにん)六年(八一五年)の「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」によると、河内國(かわちのくに)神別帳の項に「中臣酒屋連(なかとみのさかやむらじ)、津速魂命(つはやむすびのみこと)十九世孫(ひこ)、真人連公(まひとのむらじきみ)の後(すえ)也」とあり、この地に、屯倉(みやけ)の米と酒屋井の水とで酒を作り朝廷に貢いでいた「中臣酒屋連」が居住し、その祖神を祀ったのではないかと思われている
・酒屋神社(松原市三宅中〈屯倉神社境内〉)
・酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(松原市三宅中)
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄南大阪線 河内天美駅から東へ約3.0km 車10分程度
酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(松原市三宅中)に参着
現地には石碑が祀られています゜
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 酒屋神社 鍬靭について 所在は゛丹北郡三宅村ノ西に在す、今権現と称す、゛〈現 酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(松原市三宅中)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋神社 鍬靭
酒屋は 佐加也と訓べし
○祭神 中臣酒屋連祖神歟、〔總國風土記第三残欠云、雷大神歟、〕
丹北郡三宅村ノ西に在す、今権現と称す、〔河内志、同名所圖會〕
○姓氏録、〔河内國神別〕中臣酒屋連、津速魂命十九世孫 真人連公之後也、
類社
山城国 綴喜郡 酒屋神社の條見合すべし神位
三代實録、貞観七年十二月二十六日癸酉、授に河内郡正六位上酒泉神從五位下、〔郡は國、泉は屋の誤りと先達みないへり、信友は泉は家の誤りかと云り、〕
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 酒屋神社 鍬靭について 所在は゛今 丹北郡三宅村にあり゛〈現 酒屋神社跡地〈旧鎮座地〉(松原市三宅中)〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋(サカヤノ)神社
今 丹北郡三宅村にあり、〔河内志、式社細記、〕
盖 中臣酒屋連祖 津速魂神を祭る、〔新撰姓氏録、延喜式〕
清和天皇 貞観七年十二月癸酉、正六位上 酒家神に從五位下を授け、〔三代実録〕〔〇按 本書 家を泉に作るは訛れり、今 延喜式に據て之を訂す、〕
醍醐天皇 延喜の制、祈年祭鍬靭を加奉る、〔延喜式、鍬靭據一本〕
凡 其祭九月九日を用ふ、〔式社細記〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 酒屋神社 鍬靭について 所在は゛丹北郡三宅村゛〈現 屯倉神社〈境内合祀社〉酒屋神社〉と記しています
【抜粋意訳】
酒屋(サカヤノ)神社
祭神 津速魂(ツハヤムスビノ)命
今按 當社 祭神 姓氏録 河内ノ神別 中臣酒屋(ナカトミサカヤノ)連 津速魂(ツハヤムスビノ)神 十九世ノ孫 眞人連公(マヒトムラジキミ)之後也しあるにて明らかなり神位
清和天皇 貞観七年十二月二十六日癸酉 授に河内郡正六位上酒泉神從五位下〔〇按 郡泉二字 當作に國屋〕祭日 九月九日
社格 村社所在 丹北郡三宅村〔〇今属 丹比郡〕(中河内郡三宅村夫字三宅同所 村社屯倉神社境内へ移轉)
【原文参照】