流田上社神社 跡(松阪市神守町)〈『延喜式』流田上神社〉

流田上社神社 跡(ながれたのうえのじんじゃあと)は 江戸時代には゛八王子゛と称し 明治39 字東浦鎮座の八幡宮を合祀し゛上流田八幡神社゛と改称 その後 明治41年(1907)二十五柱神社に合祀された 延喜式内社 伊勢國 多氣郡 流田上神社(なかれたのうへの かみのやしろ)の論社であった流田上社神社の旧鎮座地です

Please do not reproduce without prior permission.

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

流田上社神社 跡(Ruins of Nagareta Kamisha Shrine)

〈二十五柱神社に合祀された流田上社神社 跡〉

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県松阪市神守町

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》埴安姫神(はにやすひめのかみ)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社の旧鎮座地

【創  (Beginning of history)】

『大神宮叢書』第3 後篇に記される内容

【抜粋意訳】

○流田上社(ナカレタカムモリノ)神社。

〔齋宮式に云く、流田ノ上ノ社。字類抄所引式に云く、流田上ノ神社。〕

此社名の流田も 郷名なる事 旣に流田神社の下に辨するが如し。
上社の二字は 同郷に同し流田社二處あるが故に、上下の地勢に依りて其名を表したるなり。
社字 萬葉集にモリと訓す。それに從て上社(カムモリ)と訓すへし。後地名となりて神守(カムモリ)村ある是なり。
神名帳再考に云く、按ふに此邊に神守(カムモリ)と里人のいふ森あり、是 上社(カムモリ)にてカミコソといふに同しければ、其舊跡なり、とあるに依て、
案内記には、神守村に坐す ,八王子と云ふ、と載せ、
遺響にも、神守村艮位一町許にあり、と雷同す。
依て檢するに神守は 服部八郷の内にて、往昔の流田郷服村なれば、本社流田の稱を註たす。上社今は神守ノ字を假借すれども、猶カムモりの訓を存せり。神服部内戸納帳に、一段ヤフソイ神守殿、西浦、など巳く・稱せり。
上件に辨したる柿木原の流田社と四五町許を隔て南北に相封し、名實を失はず千古の舊風ありて本社の遺存なる事明克なり。 

然るに考證に、類聚大補任に云く、神服機殿の鎭守笛宮、按に上興笛(ウヘト トフエ)言通す、と云ひ、裡諺、微古錄等には、清水村亡社伏拜と云、又 機殿鎭守笛宮同欺、など臆説を記す。上はウへ、笛はフエにて、同音ならざる事をも辨せず牽強をなす。又 清水の伏拜は同書に流田神社に配し、又 本社にも配す。麁妄論するに足らず。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第3 後篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239755

【由  (History)】

『訳註大日本史』六に記される内容

【抜粋意訳】

流田上社神社(ながれたのうへのやしろのかみのやしろ)

〇上の下に一に社の字なし、今 流田郷神守村に在り。上社と神守は訓讀相通ず。

【原文参照】

徳川光圀 撰 ほか『訳註大日本史』六,建国記念事業協会・彰考舎,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920578

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

・二十五柱神社(松阪市柿木原町)

流田上社神社 跡(松阪市神守町)は 明治41年(1907)二十五柱神社に合祀されまし

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

〇『六国史(りっこくし)』
  奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

〇『延喜式(えんぎしき)』
  平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

〇『風土記(ふどき)』
 『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています

1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉

現存するものは全て写本

『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)多氣郡 52座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 流田上社神社
[ふ り が な ](なかれたのうへの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nakaretanouhe no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

延喜式内社 伊勢國 多氣郡 流田上神社(なかれたのうへの かみのやしろ)の論社

・流田上社神社 跡(松阪市神守町)
〈二十五柱神社に合祀された流田上社神社 跡〉

〈二十五柱神社に合祀された流田上社神社〉二十五柱神社(松阪市柿木原町)

スポンサーリンク

【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

松坂駅から県道509号・R23号経由で東方向へ約7.4km 車での所要時間は15分程度

神守町の畑の中に南を向いて石碑が立っています

流田上社神社 跡(松阪市神守町)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

石碑の刻字は゛式内 流田上社神社 跡゛とあります

Please do not reproduce without prior permission.

お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 流田上神社について 所在は゛清水村に在す゛〈現 不明〉と記しています

【抜粋意訳】

流田上(ナガレタノカミノ)神社

流田上は前に同じ

〇祭神詳ならず

○清水村に在す、俚諺 飯野郡に属す、

 諸本 流田上社神社とあるに依て、上田百木云、上社はミコソトベキ歟、近江國浅井郡 上許曽神社アリ、又按に、上社はカミノモリ歟、今 神森(カンモリ)と云ふ森あり、これ流田上社(カムモリ)跡歟、
伴信友云、此説に拠れば、社は杜の誤か可考、
連胤按るに、上詐曽神社も許曽の上社といふにて、下社と相対したるか、下社は式外にあるべし、郡中にも、和鹿上伊蘇上等の例に從ひて、何の害か有べき、たまたま上社の上許と同じ唱へに通(キコ)ゆるとて、かく穿ちたる説をたてずともよけむ、信友がいへるも過たるべし、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 流田上神社について 所在は゛今 神守村にあり゛〈現 流田上社神社 跡(松阪市神守町)〉と記しています

【抜粋意訳】

流田上社(ナカレタノウヘノヤシロ)神社

〔〇按 斎宮式に、上の社字なし〕
 神守村にあり、柿木原村と南北相対ふ、〔伊勢式内社検録〕
〔〇上社は流田社二所あるが故に、上下地勢を以て云分てる也、上社、神守、音相通ふ時は、神守は上社の轉也、〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第10,11巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815495

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 流田上神社について 所在は゛三重縣 (合併)流田郷神守村゛〈現 流田上社神社 跡(松阪市神守町)〉と記しています

【抜粋意訳】

流田上社神社

祭神
祭日 正月八日
社格 村社

所在 三重縣 (合併)流田郷神守村

 今按 檢錄に上件 柿木原の流田社と南北に相対して自ら上社の稱 昭然たりと云へり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019

流田上社神社 跡(松阪市神守町) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2025 All Rights Reserved.