永倉神社(西白河郡西郷村長坂)

永倉神社(ながくらじんじゃ)は 創建年代は不祥ですが 六国史『日本文徳天皇斉衡二年(855)官社に列したと記される゛陸奧國 永倉神゛又 延喜式内社 陸奥国 白河郡 永倉神社(なかくらの かみのやしろ)の論社とされています 江戸時代には神明宮と呼ばれていましたが 明治五年(1872)永倉神社に改称されました

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

永倉神社(Nagakura shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

福島県西白河郡西郷村大字長坂字長坂

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》伊弉諾命(いざなぎのみこと)

合祀熊野三社・八雲神社(旧天王社)を祀る

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

西郷村指定第九号(平成九年十二月二十二日指定)

 称 永倉神社(ながくらじんじゃ)

 永倉神社は、文徳帝の斉衡二年(八五五年) 官社に列し延喜式神名帳(九二七年)に載る白川郷七社の一つである。

 今より一一二〇年前といえば世は平安初期で、唐文化が着々国風に定着しようとしていたとはいえ、地方への浸透は遅れがちであった。
 そのころ、都を遠く離れた当長坂にこのような社格の神社が祀られているという歴史の古さと共に誇らしさを感ずるものである。
 長坂はもと永倉であり永倉は、長畔の転化ともいわれるから農耕集落の発達が早か ったのであろう。

 明治二年(一八六九年)山火事の類焼にあい、社殿及び宝物什器等消失し、往時の風格は失われたが、その由緒により当時の歴史を偲ぶことができる。

 本村最古の神社である。
西郷村教育委員会

現地立札より

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【由  (History)】

にしごうの神社

最終回 永倉神社(長倉村)

 村指定文化財でもある永倉神社は、斉衡(さいこう)二年(八五五)官社(国の機関である神祇官(じんぎかん)が神名帳に載せた神社)となり、延長五年(九二七)に成立した『延喜式神名帳陸奥國白河郡七社の一つにあげられている神社です。ただし、その当時、どこにあったのかはわかっていません。

 現在の永倉神社は、江戸時代には神明宮と呼ばれていたようで、元禄十二年(一六九九)の古文書に「長坂村神明」と書かれています。また、元文五年(一七四〇)には、当時白河藩主であった松平義知(よしちか)か疱瘡(ほうそう)にかかり、その回復のための祈祷(きとう)をするように、鹿島神社・関山満願寺・鳥峠稲荷とともに「神明」宮にも申しつけられている古文書があります。

 この長坂村にある神明宮が『延喜式神名帳載る永倉神社だとしたのは松平定信らで、文化二年(一八〇五)に編纂(へんさん)された『白河風土記』にそう書かれています。その根拠は文政元年(一八一八)に編纂された『白河古事考』で長坂村は元々は、長倉村と言っていたという言い伝えがあるためだとしています。このためか、大正四年(一九一五)に刊行された『西白河郡誌』によると、明治五年(一八七二)に神明宮から永倉神社に改称しています。

 現在、永倉神社の拝殿内部には、熊野神社や天王社などが祀られていますが、『白河風土記』では、長坂村には熊野権現・庭足(にわたり)権現・湯泉八幡と天王社、そして神明宮があったことが記されています。それが『西白河郡誌』では永倉神社に熊野三社と八雲神社(旧天王社)を祀るとあるため、大正時代には現在のような形態になったものと思われます。

 祭礼は熊野神社が九月九日で、永倉神社が九月十六日で、両社の祭礼旗がその期間あがっていることから「長坂の長祭り」といわれています。

永倉神社のご近所の方に見せて戴いた地域誌の切り抜きより

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社頭の石灯籠・鳥居

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・境内社 稲荷社

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・石祠・小さな石鳥居

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・境内の社号標・狛犬・石段・二の鳥居

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・拝殿

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・本殿

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『日本文徳天皇録(Nihon MontokuTenno Jitsuroku)〈元慶3年(879年)完成〉』に記される伝承

斉衡2年(855年)2月に官社に列したと記されています

【抜粋意訳】

 齊衡二年(八五五)二月癸丑辛亥朔三

○二月癸丑

て 陸奧國 永倉神す 於官社(くわんしゃ)に

長星〈流れ星〉つ 地に

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 『日本文徳天皇実録』元慶3年(879年)完成 選者:藤原基経/校訂者:松下見林 刊本 ,寛政08年 10冊[旧蔵者]農商務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000047714&ID=M2018040912122716848&TYPE=&NO=

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東山道 382座…大42(うち預月次新嘗5)・小340

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)陸奥国 100座(大15座・小85座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)白河郡 7座(大1座・小6座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 永倉神社
[ふ り が な ](なかくらの かみのやしろ)
[Old Shrine name]Nakakura no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延喜式神名帳』(927年12月編纂)に所載される類社(なかくらの かみのやしろ)について

伊勢國 朝明郡 長倉神社(なかくらの かみのやしろ)の論社

・長倉神社(四日市市大矢知町)

信濃國 佐久郡 長倉神社(なかくらの かみのやしろ)の論社

・長倉神社(軽井沢町長倉)

 

・熊野皇大神社(軽井沢町峠町)

 

・碓氷峠 熊野神社(松井田町峠)

 

・長倉神社・諏訪神社合殿(北佐久郡御代田町)

 

・遠近宮(軽井沢町長倉)

 

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR新白河駅からR4号と県道37号を経由して北上 約4.1km 車8分程度

仙台湾に注ぎ込む 阿武隈川の北岸 西郷村長坂に鎮座します
一級河川の阿武隈川は 西郷村を水源域として始まります 下流〈北上する〉へと進むと 郡山⇒二本松⇒福島⇒伊達⇒角田⇒岩沼⇒亘理⇒太平洋に出る 古代の内陸地 今でいう福島県の゛中通り゛の水上交通の要所です

阿武隈川が造りだした谷間には見事な水田が広がり 稲穂が頭をたれています

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ちょうど この平地に山が迫ってくる境目にある集落が西郷村長坂になります

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集落の中 石灯籠と鳥居が建ちます

永倉神社(西郷村長坂)に参着

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一礼をして 鳥居をくぐります

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社頭は 東を向いていますが 途中で参道は東南を向きます
参道が折れた所に 再び石灯籠が建ち その先に石段があり 上に社殿が見えてきます

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石段を上がり 一礼をして二の鳥居をくぐります

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 本殿が鎮座します

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境内は周囲と比較すると 高台にあるとわかります

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社殿に一礼をして 参道石段を戻ります

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社頭の鳥居をくぐりぬけて あるお宅の前に路駐していた〈駐車場がなく〉車に戻ろうとすると その家から奥様が出て来られたので 叱られるのかと思いきや「神社に参拝に来られたのですか?」と聞かれ「はい 歴史のある神社なので参拝をしていました」と答えると 奥様の手に「永倉神社の事が書かれているものですよ 先日も由緒ある神社だと 参拝に来られていた人がいたので 興味があれば読みますか?」と資料を見せて戴きました
御親切に感謝 ありがとうございました

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詳しくは ページ上部の「由緒」に記しておきましたので見てください

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 永倉神社について 『日本文徳天皇実録』で官社となった記述について

【抜粋意訳】

永倉(ナカクラノ)神社

「文實」齊衡二年(八五五)二月癸丑 て 陸奧國 永倉神す 於官社

信友 陸奧國 長倉神社

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 永倉神社について 永坂村に在す 今 神明宮〈現 永倉神社(西郷村長坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

永倉神社

永倉は 奈賀久良と訓べし

〇祭神 詳ならず

〇永坂村に在す、今 神明宮と称す、参拝録
例祭 九月十五日、

類社
伊勢國 朝明郡 長倉神社の條 見合すべし、

官社
文徳実録齊衡二年(八五五)二月癸丑 て 陸奧國 永倉神す 於官社

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 永倉神社について 長坂村にあり 神明宮〈現 永倉神社(西郷村長坂)〉と記しています

【抜粋意訳】

永倉(ナカクラノ)神社

今 長坂村にあり、神明宮と云ふ、巡拝舊祠記、白河故事考、神名帳打聞、
〇按 長坂は舊名 長倉なるを改めし也と云り、
文徳天皇、齊衡二年(八五五)二月癸丑永倉神官社に預らしむ、文徳実録

凡 毎年九月十六日祭を行ふ、陸奥式社考

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 永倉神社について 上松川村 松尾神社は全くの誤りである 長坂村〈現 永倉神社(西郷村長坂)〉である と記しています

【抜粋意訳】

永倉神社

祭神 伊弉諾命

官社 文徳天皇 齊衡二年(八五五)二月癸丑 以陸奧國 永倉神列 於官社

祭日 九月十六日
社格 村社

所在 長坂村 〇今属 磐城國
今按〈今考えるに〉
磐前縣注進状に本郡 上松川村 松尾神社 永禄十一年棟札に奥州石川之荘竹貫之村松川之鎮守 松尾大明神云々とある 石川二字を永倉に書替へ 棚倉藩の神社書上に當社は延喜式内永倉神社の古迹にして 當地 竹貫郷と称とも古の永倉の荘なりと記載せしとぞ 實に地名を詐り人を欺き神を誣るものと云ふべし 松尾神社と改称して可にらんとあれば 上松川村なるは松尾神社にして永倉神社に非ること明かなり 且 永倉神社は神社覈録にも福島縣注進にも長坂村とありて符合せれば之に従へり

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

永倉神社(西郷村長坂) (hai)」(90度のお辞儀)

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