三宅神社(鈴鹿市三宅町)〈三つの式内社①加和良神社②三宅神社③大鹿三宅神社の論社〉

三宅神社(みやけじんじゃ)は 鎮座地の地域は 中の川沿岸にあり 鈴鹿屯倉(みやけ)国司宮所在の地が置かれた所であるされています このことから地名も三宅の号あり゛と伝わり 三宅神社大鹿三宅神社〉の論社となっています 又 式内社〈加和良神社〉とする説もあり 三つの式内社の論社となっています

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目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

三宅神社(Miyake shrine

通称名(Common name)

千力さん(ちりきさん)

【鎮座地 (Location) 

三重県鈴鹿市三宅町 1259

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》天手力雄命(あめのたじからをのみこと)

《合》外十八神
金山毘古命,稲倉魂命,豊宇賀売命,迦具土命,誉田別尊,大鷦鷯尊,足中彦命,大山祇命,素盞嗚命,天鈿女命,木花咲夜毘売命,天児屋根命,猿田彦命,国狭槌尊,稲田雷光神,大日孁命,

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

・参拝者の皆様の願い事全般

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

『河芸郡史』大正7年(1918)に記される内容

【抜粋意訳】

・社寺編 第二項 神祠/194

三十三、村社 三宅神社

合川村大字三宅字御法にあり、延喜式鈴鹿郡十九社のーなり、今、千手力雄命外十八神を祭れり、舊名を千力大明神と稱すより定めたるならん、

延經神名帳考證曰、三宅神社 伊豆佐賣命、日本記云 屯倉此云ニ彌夜氣 陸奥國宮城郡 伊豆佐賣神社・宮城者國府也、依レ有ニ屯倉名之乎、城與氣言通、蓋豊宇氣姫命 而藏稟守護神也、今鈴鹿郡國府由都利波明神三宅神社乎、伊與由音通、波與佐通とあり、又 正身再考證略同じ、

三國地誌曰、三宅村に座す、俗正一位手力明神と稱す、手力雄神を祀ると云、云々とあり、
五鈴遺響は三宅神社を鈴鹿郡國府にありとし、大鹿三宅神社を此地にありとせり、勢陽雜記は三宅邑にあり千力明神と俗稱す、とせり、同拾遺、熈近神名帳考正、式社檢錄等挙げて國府村に座とす、

按ずるに此等の諸書は國府は往古國司の居せし處にして 其國の屯倉を置きし 舊址に祭る神なるが故に 國府にありと云ふに帰着せり、
延経神名帳は大鹿三宅神社の條に記して曰、大鹿三宅神社、大香山戸臣神 御年神 古事記曰、大年神 娶ニ香川比賣 生ニ子大香山戸臣神 次御年神、按鹿與香同訓、三宅 屯倉(ミヤケ)也、

神宮雜例集曰、河曲神戸 預ニ大鹿武則 大鹿與中臣同祖事見 上此郡有ニ氏人如 此大香山戸臣神 地霊土位者中央爾配中臣神加臣、字御神爲賣霊賣、天先而 地後天今在ニ三宅村稱ニ 千力神云々とあり、

其後の諸書 皆之に傲って當地にあるものを大鹿三宅神社とし國府に三宅神社は座すと記せり、考ふるに三宅村名は 屯倉と稱するものの轉訛にして 即ち屯倉のありし地を味意するものなり、三宅村が屯倉の地なりとせば 三宅神社は此弛にあるを必せり、何故に據る處もなきに此村名を稱すや、五鈴遺響の如きは 三宅村の項に其村名 三宅は屯倉より起るなりと稱して 猶よく三宅神社が國府にありと稱するは愚なり、前後矛盾と云ふべし、要するに村名が三宅なる故に 三宅神社が此地にありと云ふは 平凡に似たれども 古昔の事は大凡根底あるもの極めて尠(スクナ)し、姑く記して後者の参考に委す、

明治四十年十一月十六日 同大字無格社全部を合祀し翌年二月四日 村社長法寺神社を合祀せり、故に今祭神は主神の外十七神となれり

【原文参照】

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

中林楓水 著『河芸郡史』,河芸郡史編纂会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/959169

【由  (History)】

由緒

 『三国地誌』に、俗正一位手力(ちりき)明神を称すとあり  棟札(天文・元亀)にも千力大明神とある。社名の由来は不詳であるが、この社の西を「ちぎりはま」と呼んでおり、この名にちなんだものと推定される。
 さて当社の鎮守する集落は、中の川沿岸で、宇御法にある。この地域は鈴鹿屯倉(みやけ)が置かれた所として著名であり、中ノ川と田中川に挟まれた古墳の密集地帯に属しており、長法寺付近から御薗・稲生付近に古墳群があり、同時に徳居・三宅・南方の三行にかけての丘陵は県下でも有数の須恵器窯跡群の所在地であることからも古代より開発されていた地域であることが知られる。
 明治初年村社に列格。明治四〇年(一九〇七)一一月、同大字にある無格社全部を合祀、翌年には村社長法寺神社も合祀した。
 尚、当社には移転説があり、その旧地は明治一九年の地籍図から推して長法寺村の東北にあたる字古里の地を指すとのことである。

三重県神社庁・皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会HPより
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=3018

由緒

 創立年月不詳なれども、本社は延喜式神明帳 伊勢国鈴鹿郡十九座の一なり。
尤其の先本州の国司宮所在の地にて屯倉を置かる、因って三宅の号あり  官幣を当社に納め給ひ故總社と通称す。
 尚、旧幕中亀山城主歴代の為田1反を寄付せらる。
明治41年3月同44年5月の2回に渉り国府村各地に鎮座の神々を当神社に合祀執行せり。
明治6年3月村社に列し 明治39年12月三重県告示第380号を以て神饌幣帛料供進社に指定せらる。

※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照

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神社の境内 (Precincts of the shrine)】

・社殿・社務所

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・手水舎・神馬像

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・社頭

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・鎮守の杜

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています

『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称

『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)

『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

三宅神社(鈴鹿市三宅町)は 三つの式内社の論社となっています

(伊勢國 奄藝郡 加和良神社)
(伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社)
(伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社)

(伊勢國 奄藝郡 加和良神社)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 加和良神社
[ふ り が な ]かわら かみのやしろ
[Old Shrine name]Kawara no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

(伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)鈴鹿郡 19座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 三宅神社
[ふ り が な ]みやけの かみのやしろ
[Old Shrine name]miyake no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

(伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社)

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 大鹿三宅神社
[ふ り が な ]おほかのみやけの かみのやしろ
[Old Shrine name]Ohokano miyake no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】This is the point that Otaku conveys.

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

三宅神社(鈴鹿市三宅町)は 三つの式内社の論社となっています

(伊勢國 奄藝郡 加和良神社)
(伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社)
(伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社)

伊勢國 奄藝郡 加和良神社(かわらの かみのやしろ)の論社

・加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)

〈参考論社〉大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)

伊勢國 鈴鹿郡 三宅神社(みへの かみのやしろ)

・三宅神社(鈴鹿市三宅町)

・三宅神社(鈴鹿市国府町)

伊勢國 河曲郡 大鹿三宅神社(おほかの みやけの かみのやしろ)

・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)に合祀

・大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)

・三宅神社(鈴鹿市国府町)

・三宅神社(鈴鹿市三宅町)

・菅原神社(鈴鹿市国分町)

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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR紀伊本線 下庄駅から東へ3.4km 車6分程度

中ノ川を渡ると 水田が広がり 神社は 水田に浮かぶように鎮守の杜が見えてきます

社頭は南を向いて 鳥居が建ちます

三宅神社(鈴鹿市三宅町)に参着

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一礼をしてから鳥居をくぐり 参道を進みます

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参道に建つ 二つの鳥居をくぐると 神域に三の鳥居が建ちます

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拝殿にすすみます

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿には 三宅神社の年間祭典暦が掲げられています

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 加和良神社について 所在は゛三宅村に在す、今千力大明神と称す゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています

【抜粋意訳】

加和良神社

加和良は假字也

〇祭神 手力雄命

〇三宅村に在す、今千力大明神と称す、

勢陽俚諺に、雑記云、千力大明神 三宅村にあり云々、按るに天手力雄命にてましますならん、千力は手力の誤なるべし、上古は大社由なるが、今は社壇拝殿いと纔(ワズカ)の有様也と云り、

社領
 同俚諺、三宅の何某領主たりし時、御供田二十石ありと、云々、織田上野介信長の守りたりしより没収せられたり、

類社
 丹波国 氷上郡 加和良神社

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式内社 三宅神社について 所載は゛国府村に在す、俚諺社と称す゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています

【抜粋意訳】

三宅神社

三宅は彌夜気と訓べし

○祭神 三宅連祖歟

○国府村に在す、俚諺社と称す、

○日本紀、天武天皇元年月、越大山至伊勢鈴鹿、爰國司守三宅連石床、〔中略〕等参遇于鈴鹿郡、」
姓氏録、右京諸蕃下同、摂津諸蕃三宅連、新羅國王子、天日桙命之後也、

 多氣窓螢云、三宅伊勢橡種名といふ者、南方の御祈祷とて、三宅の社建ける時、彼御事申なげぎぬ、云々、」
雑記に、三宅村にあり、千力大明神といふ、と云るはらず、こは奄芸郡にて、同書に、加和良神社なるよしいひおきて、また社也と云るは何の事ぞや、

類社
 遠江國引佐郡、丹波國桑田郡、丹後国加佐郡三宅神社、(各一座)越後國古志郡三宅神社二座、当國河曲郡大鹿三宅神社、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

式内社 大鹿三宅神社について 所在と祭神は゛祭神在所等詳ならず゛と不明と記しています

【抜粋意訳】

大鹿三宅神社

大鹿は於保賀、」三宅は美夜氣と訓べし

○祭神在所等詳ならず

考証に、神宮雑事記云、河曲郡神戸預大鹿武則、大鹿與中臣同祖、此郡氏人如此、と云り、
連胤按るに、大鹿氏は、姓氏録未定雑姓右京にも大鹿首と見えたれど、今は地名を冠らせたるにて、三宅神を主と祭れる事は明らにて、此例多くあり、されば大鹿首祖神にはあらで、三宅連の氏社なるべし、

類社
 当國 鈴鹿郡 三宅神社の條見合すべし

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 加和良神社について 所在は゛今 塩屋村 高良の地にあり、高良社といふ゛〈現 加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〉と記しています

【抜粋意訳】

加和良神社

今 塩屋村 高良の地にあり、高良社といふ、〔大安寺資財帳、式内社検録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

式内社 三宅神社について 所在は゛今 奄藝郡 三宅 長法寺 二村の界に在り、千力大明神と云ふ、゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています

【抜粋意訳】

三宅神社

今 奄藝郡 三宅 長法寺 二村の界に在り、千力大明神と云ふ、〔勢陽雑記、三重縣神社調、〕
蓋 三宅連の祖 天日杵命を祭る、〔日本書紀、新撰姓氏録〕

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國府村 天神山にある天神盖是也゛〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉と記しています

【抜粋意訳】

大鹿三宅(オホカノミヤケノ)神社

今 國府村 天神山にある天神盖是也、〔式内社検録、〇按本書引進状、當御國内 大鹿村を廃て、国文村と唱ふる事知へし、〕盖伊勢大鹿首の祖 天兒屋根命を祀る、〔古事記、日本紀、神宮雑事記、東鑑、〕

【原文参照】

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『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 加和良神社について 所在は゛稲生村゛〈現 加和良神社(鈴鹿市稲生塩屋)〉と記し
又 長法寺村の千力大明神〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉については 論社としての説はあるが 『大和國大安寺資財帳』には符合しないので採用できない とも記しています

【抜粋意訳】

加和良神社 稱 花木大明神

祭神
祭日 八月十一日
社格 村社

所在 稲生村〔河郡稲生村大字稲生

 今按 本社 鎮座の左右後ともに田畑の字を加和良沖と称し 同村検地帳名寄帳にも 此地名を加和良と云ひ古き石燈籠に高良と刻字あり
 大和國大安寺資財帳云 奄藝郡城上原田地四十二町四至 東濱南加和良社 並百姓田西同田北濱道之限とあり 其地は今 寺家村と唱ふ 寺家の領なりし故なり 本社  其南方に存せしは 以て稱とすべし
 然るに一説長法寺村の千力大明神 並に稻荷明神を加和良神社なりと云へれど 資財帳に符はす更に證とすべきものなければ取がたし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

式内社 三宅神社について 所在は゛今属 奄藝郡〔長法寺村 三宅村〕両村彦神゛〈現 三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と記しています

國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉との説についても 考証していているが 総社であって 式内社ではないであろうと記しています

【抜粋意訳】

三宅神社  稱 千力大明神

祭神
祭日
社格 村社

所在 今属 奄藝郡〔長法寺村 三宅村〕両村彦神

 今按るに傍注に國府村 山津利波明神乎と云へるに依て 以下の諸書 國府の總社 山津利波明神に配す
 然れとも諸國の國府に總社と唱へて造立するものは 長寛元年撰の白山記に凡國々に必す總社あり 總社(スヘヤシロ)と名付る事は 毎月朔日毎に國の勅使國の八社に詣て奉ニ御幣ヲ奉ニ禮ス之テ彼八社廻る事有ルニ其煩一間一所 に奉ル祝之故ニ總社と名付ル也と注する如く 後世國の朔 幣を略して府中に造営する社なれは 延喜撰式の頃には 未だなかりしものなれは 總社を式社には填つへからす
又 案内記以後の書には 三宅村八王子に配す 然れとも其 八王子は元龜年中 三宅駿河守江州日吉八王子を勧請する所なりといへは 新地にて振古の祠にはあらす 又 宮地紀遺響等に長法寺村の五所稻荷といふ祠を本社に配する説あれと妾談なり 然るに勢陽雜記 三國地志 五十鈴遺響等に長法寺三宅両村の巽位一町許に在り千力大明神と唱ふ社殿 髙大兆域舊風を存す 天文十六年元龜元年の棟札あり 各千力大明神と稱す 舊昔は三宅 長法寺一村にて鈴鹿奄藝の郡界 中の川より北に在て 三宅村と號し 長法寺の近隣を長法寺垣外と號せしに 天文の頃 三宅駿河守平盛遠 三宅より出て中の川を南に超え 奄藝郡の北極なる山に城を築き居り 故に村民も其城下に遷居す 其舊趾を三宅塚と唱ふ 此時より三宅長法寺二村に別る 併三宅山正樂寺 今猶 長法寺村中にあり 是を以見るときは 産神も寺院と同く 本所に存するなれは 三宅神社は 右二村の産神たる事昭明なり 併長法寺も三宅氏の領内なる故 私に奄藝郡と稱するにこそ 中の川以北は 舊くは鈴鹿郡たる事地勢を見れは分明ならまし 依て千力大明神を本社に配せり

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

式内社 大鹿三宅神社について 所在は゛國分村゛〈現 菅原神社(鈴鹿市国分町)〉と記しています

三宅村千カ明神〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市三宅町)〉と
國府村〈現 三宅神社(鈴鹿市国府町)〉の2説については 本郡の神社を配すへき地勢にあらす゛と記しています

池田村〈現 大鹿三宅神社(鈴鹿市池田町)〉については ゛偽造なる事著し明なれは 信受し難し゛
神戸十日市町〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉については゛全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事゛と記しています

【抜粋意訳】

大鹿三宅神社

祭神 津速塊命
   大日孁貴

 今按るに姓氏録 大鹿首津速塊命 三世孫 天兒屋根命之後とみえ 明細帳に津速塊命を祭るとあるを合せ考えるに大鹿氏の 此に住て祖神 津速塊命を祀れるならむ 大鹿首の事件は古事記 日本紀 續日本紀 神宮雑事記 東鑑等に見えて 本郡に貫せる趣著明なり 其祖神を祀る所とすへし

祭日
社格
所在 國分村

今按るに 傍注には三宅村千カ明神に配す 考証再考雑記伊謬等の諸書これに從ひ 又按内記徴古録等には國府村に在りと云へり 此二説は鈴鹿都の村邑にて西界を去る事梢遠し本郡の神社を配すへき地勢にあらす
 又地志には 神戸村 神館社に塡つ 是亦無證の臆説にて信するに足らす

 又明細帳には 池田村と神戸十日市町とに在とす
 池田の社は棟札に奉上曹大鹿三宅神社日天八王子云々慶應十二年九月二十日其余文祿寛永正保承應元文等の札あるを證とす 其札を檢するに筆跡新くして皆同手に出つ木も今の飽を以て屑り慶長文祿のものに非す 中戸村の神官の預る社にて彼狡黠者の偽造なる事著し明なれは 信受し難し

 又十日市町の社は 民家の後河涯編小の地に在り近年まて山神と唱へて 樹下に石のみたちたりしに小祠を遣り覆て 本社の遺跡と云出てたるにて 全く地志の臆説にー屑を增したる妄作なり論するまてもなき事なり

 依て考ふるに神宮雑書所載 建久三年八月 日注進狀云 山邊御薗二宮給主散位大鹿國忠 當御園の内 大鹿村號ニ國分寺領ト申ニ下ス院宣之間 恒例供祭上分之勤所ニ減少スル也と見えたる 山邊御園は神鳳鈔に山邊御園外宮 山邊新御園内宮と載たる地にて 本郡山邊村を云ふ其村の北に國分村あり天平年中各國に建られし國分寺の廃跡にて近年まて當慶山國分寺と號する小堂も存したりき 建久の頃 其國分寺の領なる旨の院宣を申下して大鹿村の名をき廃し國分村と唱ふる事 右の證文の如くなれは 今の國分村古の大鹿村にて大鹿首の氏人 累代居住し國務に預れる 故に其氏組を祀る祠を大鹿三宅神社と稱せしにこそ村南に今も大鹿塚と唱ふる大墳あり小塚は其数を知らす 産神社は北西の山に在り 其南に氏長者の宅趾あり 社字は天神神明権現の三區なり 其天神は北野天満天神にはあらで 大鹿の氏祖の犬神を祭るなれは 此社をは本社の遺在と定むへきなり
〔但し 其社 後に井ノ谷といふ字あるを以て 飯野神社に配する説もあれど 古を稽へざる妄言なり 従ふへからず〕

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

三宅神社(鈴鹿市三宅町) (hai)」(90度のお辞儀)

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出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

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大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

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出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

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宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)

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