咋岡神社(くいおかじんじゃ)は 古老の伝には「古代には比治山の麓なる神所段(じんじょだん)といふ所の山にありしを 天正年中(1573~92)に峰山なる山祇山といふに移ししを 今の赤坂村にうつしたるは元和年中(1615~24)のこと」とある 延喜式内社 丹後國 丹波郡 咋岡神社(くひをかの かみのやしろ)です

Please do not reproduce without prior permission.
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
咋岡神社(Kuioka Shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
京都府京丹後市峰山町赤坂小字家向29番地
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》保食神(うけもちのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
『訳註大日本史』六に記される内容
【抜粋意訳】
咋岡神社(くひをかのかみのやしろ)
〇今 赤阪村に在り、按ずるに本社古へ比治山麓 神所段の地に在り。天正中、之を山祇山に移す、後 元和中に至り、更に今の地に移すと云ふ。一説に久次村 麻奈爲神社を以て本社と為すは誤なり。
傳へ言ふ、『豊宇加乃賣神を祀る』と。〔土人の説。〕
【原文参照】

徳川光圀 撰 ほか『訳註大日本史』六,建国記念事業協会・彰考舎,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920578
『丹後史料叢書』第5輯に記される内容
【抜粋意訳】
丹後國式内神社取調書 京都府社寺課
咋岡神社
【峯】中郡赤坂村
【覈】吾歌佐歌(アカサカ)村にます
【明細】赤坂村竹野郡 九月九日
【考案記】丹波郡赤坂村は外より分宮なり 元來 久次村にありしを峯山より飯田越前守と申者赤坂村へ遷すと口碑に傳ふれば 久次村に決定し可然
【道】蜂山より西南二三里奥の方に久比志ケ獄と云 高山あり久次村に眞名井社あり 久次は久比の字をよみかへたる也と云
【豐】久次村字宮ノ谷豐宇賀能賣神 祭九月十五日
【式考】丹後舊事記に 咋石嶽は久次村の後の山を云ふ 世俗これを久次獄と云 此所は宇氣持神 天降の地にして 山頂に二間四面の平なる大岩あり 昔は此岩を神と祟め祭しなり彼岩の面に人の死たる形あり 是 宇氣持神の死せる姿なり云々とある如く 此所は全く神代ノ遺跡にて 攝津風土記に稻倉山云々と見えたる事跡なり されば此 靈石は古老の傳に大饗石〔高一丈二尺 縦一丈八尺 横一丈三尺許〕とて 其下に月讀命ノ御手洗瀧あり 其上に大神社と云あり 右の方に來迎山あり〔来は饌の假字にて饌向の義なべし〕切果渓ありて 此 靈石ある邊を總饗應渓と云由なり 斯て此社は 此靈石を神體として齊祀し由なれば 奇靈石 咋岡神社の義ならん 然るに此靈石の上なる大神社と云側に少か水の涌出るを眞名井とし咋石獄の亦名をマナヰカ嵩とも云て 伊勢外宮の本社と云へるは みな僞妄なり
【原文参照】

『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358

『丹後史料叢書』第5輯,丹後史料叢書刊行会,昭和2. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1175358
【由 緒 (History)】
『蓬室集』に記される内容
【抜粋意訳】
蓬室集 文詞 天橋立紀行 明治三十年より抜粋
この町はづれなる赤坂村に式内 咋岡(クヒオヲカ)神社あり。これも祭神は豐宇氣大神なり。この社。古代には比治山の麓なる神所段といふ所の山にありしを。天正年中に峰山なる山祇(ヤマツミ)山といふに移ししを。今の赤坂村にうつしたるは元和年中のことにて。それより京極氏の氏神と崇めて。今に至れりと云ひ傳へたり。
然るに近き頃に。この式を廢して。久次村なる麻奈爲神社を。昨岡神社といひ出で。さてかの鱒留なる藤社明神を麻奈爲神社と改めしめむとたくめるものありて。その事をうへうへしく書きて申し立てしかども其ことならず。やむこと得ずて もとのままになりぬと云へるは。まことにあさましき事なり。さて。おのがこたび この御社の事を。かくまで處々に云へるを。いかなる事にかと人のいぶかしみ思ふもありぬべけれど。この麻奈爲神社こそは。伊勢外宮の本つ御社にして おぼろげの御神にあらぬを。かくまで後世にまどはしくなれるがいとうれたくて。かく繰りかへし くだくだしくは云ふなり。
ゆめこと好む人な思ひそよ。
【原文参照】

飯田武郷 著『蓬室集』,飯田季治,明36.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/874124
スポンサーリンク
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿〈拝殿・本殿の覆い屋〉

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.
・拝殿

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.
・〈社殿向かって右の境内社〉社日社

Please do not reproduce without prior permission.
・〈社殿向かって右の境内社〉覆い屋の中に小祠

Please do not reproduce without prior permission.
・〈鳥居横の境内社〉覆い屋の中に小祠

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.
・社頭〈鳥居・社号標・手水石鉢〉

Please do not reproduce without prior permission.
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
スポンサーリンク
この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)丹後國 65座(大7座・小58座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)丹波郡 9座(大2座・小7座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 咋岡神社
[ふ り が な ](くひをかの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kuhioka no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
スポンサーリンク
【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
同じ 咋岡神社の社名を持つ式内社の類社について
延喜式内社 山城國 綴喜郡 咋岡神社(鍬靫)(くひをかの かみのやしろ)
咋岡神社の鎮座地名「飯岡(いのおか)」は 「咋岡」が変化したものとも云われます
現在 式内社 咋岡神社の論社は 京田辺に飯岡東原と草内宮の後の2つの咋岡神社があります
一説に 元は木津川と普賢寺川の合流地点一宮が森にあったのが 木津川の氾濫で江戸時代中期(元禄年間)にこの二か所に分けて移されたと伝わります
・咋岡神社(京田辺市飯岡東原)
・咋岡神社(京田辺市草内宮ノ後)
延喜式内社 丹後國 丹波郡 咋岡神社(くひをかの かみのやしろ)
・咋岡神社(京丹後市峰山町赤坂)
スポンサーリンク
【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
京都丹後鉄道宮豊線 峰山駅から線路沿いに北西方向へ約2.7km 車での所要時間は4~6分程度
丹後半島の中央部に位置する峰山町に流れている竹野川は 天橋立のある阿蘇海ではなく 日本海の外海に面する丹後町竹野へと流れ出ています
その竹野川の支流が京都丹後鉄道宮豊線の線路沿いに北西方向に峰山町赤坂に谷間の平地〈扇状地のような谷底平野〉を作り出しています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.
その谷間の平地の一番奥まった辺りに鎮座しています
咋岡神社(京丹後市峰山町赤坂)に参着

Please do not reproduce without prior permission.
振り返れば 神社の目の前の畑には 京都丹後鉄道宮豊線が走っています

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.
社頭の社号標には゛式内 咋岡神社゛と刻字
二連の鳥居に一礼をしてくぐり抜けると 左手に覆い屋があり 小祠が祀られています

Please do not reproduce without prior permission.
狛犬が座し その先には石段があり 社殿の屋根が見えています

Please do not reproduce without prior permission.
石段を上がると緩やかな石段が拝殿まで続いています

Please do not reproduce without prior permission.
拝殿にすすみます

Please do not reproduce without prior permission.
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.
拝殿の奥は 本殿の覆い屋となっています

Please do not reproduce without prior permission.
社殿に一礼をして 緩やかな境内の石段を下ります

Please do not reproduce without prior permission.
社頭の石段の先に小川があり 畑の先には京都丹後鉄道宮豊線の線路が見えています

Please do not reproduce without prior permission.
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 咋岡神社について 所在は゛吾歌佐歌(アカサカ)村に在す゛〈現 咋岡神社(京丹後市峰山町赤坂)〉と記しています
【抜粋意訳】
咋岡神社
昨岡は久比袁加と訓べし
〇祭神詳ならず
〇吾歌佐歌(アカサカ)村に在す〔舊事記〕
類社
山城國綴喜郡 昨岡神社の條見合すべし
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 咋岡神社について 所在は゛咋石嶽の麓 久次村にあり゛〈現 久次村 麻奈爲神社〉と記しています
【抜粋意訳】
咋岡(クヒヲカノ)神社
今 咋石嶽の麓 久次村にあり、〔丹後舊事記、式内神社考、〕〔〇按 咋石嶽の寝伏せる形あり、昔 此岩を以て神と崇め奉る、傳て止興宇司乃賣神の天降り坐す所なりと云り、〕
盖 止興宇司乃賣神を祭る、〔参取攝津風土記、土人傳説〕
凡 九月九日祭を行ふ、〔明細帳〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第15−17巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815497
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 咋岡神社について 所在は゛久次村〔字宮ノ谷〕 (中郡丹波村大字赤坂)゛〈現 咋岡神社(京丹後市峰山町赤坂)〉と記しています
【抜粋意訳】
咋岡(クヒヲカノ)神社
祭神 豐宇加能賣神(トヨウカノメノカミ)
今按 攝津風土記に稻掠山(イナクラヤマ)昔(ムカシ)止與宇可乃賣神(トヨウカノメノカミ)居に山中 以盛れる飯を因て以爲名と また昔 宇可乃賣ノ神常に居に稲荷山に而爲に膳厨之處 後有に事故不得己むことを遂に遷に於 丹波の比遅乃麻奈章原(ヒヂノマナヰノハラ)にとみえたるを下に引る丹後奮事記の説と合せ考ふるに此神は此國に住まししものなるべし
祭日 九月十五日
社格 (明細帳に赤坂村とあり 式外社 村社なり)所在 久次村〔字宮ノ谷〕 (中郡丹波村大字赤坂)
今按 道志流倍に此社は赤坂村にあり 天正年中 一色義道の家臣 飯田越前守 神殿の破損を惜み 峰山城を築くの時 赤坂村に移すと云 峰山より西南二三里奥の力に久比志ケ獄(クヒシガタケ)と云 高山あり 其麓に奮趾あり 又 久次村に眞名井社あり 久次とは久比字をよみかへたる也と云ふ 是 咋岡神社にて比治麻奈爲神社にはあらすと云ふとみえ
丹後式社考に此社は久次村にありとして云 此社は赤坂村に在て篠着大明神と稱て 祭神は保食神の由なるが其原は必ず久次村にありしならん
丹後舊事記に咋石獄は久次村の後の山を云ふ 世俗これを久次嶽と云 此所は宇氣持神天降の地にして 山頂に二間四面の平なる大岩あり 昔は此岩を神と崇祭しなり 彼岩の面に人の死たる形あり 是 宇氣持神の死せる姿なり云々とある如く 此處は全く神代の遺跡なり
斯て此 咋岡神社は 丹後舊事記によるに此 靈石を神體にして齋ひ祀りし由なれば 奇靈石(クヒシ)岡神社の義にて 山名も村名も必す奇靈石(クヒシ)嶽 又 奇靈石(クヒシ)村なるを 咋石嶽 咋岡社 咋石村と書けんを何の頃よりや久次村と書出たるならん 里老の傳を聞に 天正年間 久次と書改め 當國主 細川忠興 在城のときよりヒサツキと訓讀て村名に通用せることとなりたる由なりと云る證ありて聞ゆるが上に 豐岡縣神社取調記にも久次村とあれば之に從へり
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
咋岡神社(京丹後市峰山町赤坂)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.