霧島神宮(きりしまじんぐう)は 旧記に 欽明天皇の御宇(540)はじめ高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間 脊門丘(セタヲ)に奉斎され 後 御山の噴火の為 悉く炎上し 天暦年間(950)性空上人が高千穂河原に再興奉遷した 後 文暦元年(1234)の大噴火で 社殿 僧坊寺が災禍に遭い 今から500年程前に現在地に鎮座しました 式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
霧島神宮(Kirishima Jingu shrine)
【通称名(Common name)】
おきりしまさま
【鎮座地 (Location) 】
鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
(あめにぎしく ににぎし あまつひたかひこ ほのににぎのみこと)
《相殿神》
木花咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)〈お后〉
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)〈御子神〉
豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)〈御子神のお后〉
鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)〈御孫神〉
玉依姫尊(たまよりひめのみこと)〈御孫神のお后〉
神倭磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)〈御曽孫神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
・ 旧官幣大社
・ 別表神社
【創 建 (Beginning of history)】
霊峰高千穂峰
日本で最も古い書物である古事記および日本書紀に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が「筑紫日向の高千穂の久土流多気に天降ります」「日向の襲の高千穂に天降ります」と記されている霊峰が霧島神宮の背後に天聳立つ高千穂峰です。頂上には”天の逆鉾”があり、山容の崇高秀麗なことは筆紙に尽くすことはできません。高千穂峰一円は古えの日向の国の内であり古事記・日本書紀に記載されている日向国はその後「和銅年間」四郡を割いて大隅国が置かれました。
社殿の創建
霧島神宮は遠い神代の古えより縁りある霊峰高千穂峰に鎮座すると伝えられており、延喜式にも日向国諸県郡霧島神社と記されています。旧記によると、本宮はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間、脊門丘に奉斎されていましたが、御山の噴火のために悉く炎上し、村上天皇の天暦年間(950年)に天台宗の僧である性空(しょうくう)上人が高千穂河原に再興奉遷しました。また、文暦元年(1234年)の大噴火により、社殿、僧坊寺が災禍に遭っています。その後、真言宗の僧 兼慶(けんけい)上人が藩主 島津忠昌公の命をうけて土御門天皇の文明16年(1484年)に社殿等を再興しておられます。
そののち、別当寺 華林寺からの失火により全焼の厄に遭われたのを、第21代当主島津吉貴公の寄進により正徳5年(1715年)に重建されたのが現在の御社殿です。約300年前の建物で、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、登廊下、勅使殿、門守神社等その配置は妙を得て輪奐の美をなしています。前述のごとく当神宮は歴代の島津藩の崇敬篤く、縷々祈願奉賽がなされ、神領奉物の寄進御造営など敬神の誠が捧げられました。平成元年には国の重要文化財に、令和4年2月9日に本殿・幣殿・拝殿が国宝に指定されました。
【由 緒 (History)】
霧島神宮 きりしまじんぐう
鹿児島県姶良郡霧島町田口。
旧官幣大社(現、別表神社)。
天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊を主神とし、木花開耶姫尊・天津日高日子穂穂出見尊・豊玉姫尊・鵜草葺不合尊・玉依姫尊・神日本磐余彦尊を相殿に祀る。
社伝によると、当社の創建は、第二九代欽明天皇の御宇という。
『続日本後紀』仁明天皇承和四年(837)八月朔の条に、日向国諸県郡の霧島岑神が官社に預かったと見えている。『三代実録』清和天皇天安二年(858)一〇月二二日条には、日向国霧島神に従四位下が授けられたと記されている。
延喜の制に至り、日向国諸県郡鎮座の神社として、小社に列せられた。鎌倉時代になって、霧島山の大噴火があり、社殿を焼失、その後、社殿を山の東にあたる長尾山に移し、東霧島神社と称した。
文明一六年(1484)、島津忠昌は、この社を東西両社に分け、東社を瀬戸尾に遷座、この社が現在、宮崎県西諸県郡高原町の霧島東神社である。西社は、大隅国姶良郡田口に建てられこれが、現在の霧島神宮である。当社は、明治七年(1874)迄は、霧島神社と称され、また霧島西御在所六社権現とも称されて、薩摩藩歴代の篤い尊崇と衆庶の崇敬を集めてぎた。
別当寺の霧勘山錫杖院華林寺は、霧島六社の別当寺を全部統轄、霧島六社権現の中心的役割を果してきた。同年神社号を神宮号に改め、官幣大社に列せられた。
例祭九月九日。その他、旧暦一月一日には散籾祭(うちまきのまつり)が行われる。この祭は、『日向国風土記』逸文の伝える天孫降臨の故事に由来する祭といわれている。また旧暦二月四日に御田植祭が行われる。この祭は、本宮祭・斎田祭に続き、田之神舞が奉仕され、田植が行われる。また春秋二度づつ、年四度、猿田彦命巡行祭が行われ、一一月一〇日には天孫降臨記念祭等、年間を通じ、数多くの祭典が奉仕されている。(落合)『神社辞典』1997/09/19東京堂出版 白井永二 土岐昌訓 編より抜粋
由緒
当神宮は 天祖天照大神の御神勅を畏み戴きて三種の神器(皇位の御璽)を奉持し高千穂峰に天降りまして皇基を建て給うた肇国の祖神<天孫瓊瓊杵尊>をお祀りしているお社です。
旧記によると 欽明天皇の御宇(西暦540)、はじめ高千穂峰のほど近く脊門丘に社殿が建立されたが、その後たびたび噴火炎上し幾星霜を経て今から500年前現在の社地へ御鎮座になりました。
いまの御社殿は第二十一代藩主 島津吉貴公が正徳5年(1715)に造営寄進されたもので、絢爛たる朱塗りの本殿、拝殿、勅使殿等その配置はまさに輪奐の美をなし、西の日光とも称せられる。特に殿内は漆塗りで二十四孝の絵画、龍柱、床には鴬帳りが施されている。
明治7年2月「霧島神宮」と社号改定、官幣大社に列格仰せ出されました。
畏くも昭和天皇陛下には二度にわたる御親拝を賜っております。
平成元年5月国の重要文化財の指定を受け、海抜500米の此の地からは遥か錦江湾、桜島、開聞岳の眺望が実に雄大であります。
高千穂峰(標高1574米)頂上には神代の旧物“天の逆鉾”があり、中岳、新燃岳、韓国岳一帯はつつじ「みやま霧島」で有名です。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・野上神社《主》天御中主大神,《配》高皇産霊神,神皇産霊神,天照大神,機千千姫命,天忍穂耳命,玉依姫命
・税所神社《主》税所篤如
・鎮守神社《主》天照大神
・若宮神社《主》天忍雲根命,《配》水波能売神,市杵島姫命,大名牟遅神
・門守神社《主》櫛磐間戸神
・門守神社《主》豊磐間戸神
・猿田彦神社《主》猿田彦大神
詳しくは霧島神宮HP「境内ご案内」を参照
https://kirishimajingu.or.jp/precincts/
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【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈当初の鎮座地〉元宮
脊門丘(セタオ)
〈旧記によると、本宮はもと高千穂峰と御鉢「噴火口」との中間、脊門丘(セタオ)に奉斎されていました〉
・〈旧鎮座地〉古宮址
古宮址 天孫降臨神籬斎場(霧島市霧島田口)
・霧島神宮 古宮祭祀跡(霧島市霧島田口)
・霧島神宮 仮宮(待世)〈文暦元年(1234)~文明十六年(1484) 250年間〉
・待世神社の跡
〈霧島中学校の隣 現在は馬頭観音・稲荷が祀られています〉
待世(神社)とは
「昔霧島神宮が噴火のため焼失したので、御神体を今の「待世神社の跡」の地に移し、仮宮を建てて、その後250年の間祀ってあった。その間祭神・地区民共に噴火がやみ静かな世になることを待ったため待世の地名が生まれたという。」(霧島町郷土誌より)
※文明十六年(1484)霧島神宮が現在地に遷座後 この地に待世神社を建てていたが 明治四十四年(1911)天子神社に合祀されました
・〈待世神社の合祀先〉天子神社(鹿児島県霧島市霧島田口834)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『續日本後紀(Shoku nihon koki)〈貞観11年(869)完成〉』に記される伝承
日向國の神・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社が 官社に預かる と記されています
【抜粋意訳】
承和四年(八三七)八月壬辰朔
○八月壬辰朔
日向國
子湯郡 子都濃神 妻神
宮埼郡 江田神
諸縣郡(ひろあかたの)霧嶋岑神(きりしまのみねのかみ)を 並に預官社に
【原文参照】
『日本三代實録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
日向國の・高千穂神社・都農神社・都萬神社・江田神社・霧島神に 神階の奉授 が記されています
【抜粋意訳】
巻一 天安二年(八五八)十月廿二日〈己酉〉
○廿二日己酉
授くに
日向國
從五位上 高智保神(たかちほのかみ)都農神(つののかみ)等從四位上
從五位上 都萬神(つまのかみ)江田神(えたのかみ)霧嶋神(きりしまのかみ)に 並に從四位下伊豫國 正六位上 布都神(ふとのかみ)從五位下を
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)西海道 107座…大38・小69
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)日向國 4座(並小)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)諸縣郡 1座(小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 霧嶋神社(貞)
[ふ り が な ](きりしまの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kirishima no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)について
天孫降臨の地とされる゛霧島の高千穂峰゛を取り囲むように その登山口に建立された六社の神社の事です
霧島山そのものを御神体とした「霧島御山信仰」で
第62代 村上天皇の御代〈在位: 天慶9年4月20日(946年5月23日)~ 康保4年5月25日(967年7月5日)〉天慶天暦(十世紀)の頃
性空上人が 霧島山を霊場として修業し 山中の様々な場所に分散していた信仰を 天台修験の体系としてまとめ 霧島山と山麓に霧島六社権現を整備したものとされます
元々は 霧島山そのものを信仰対象とする山岳信仰から始まり やがて 霧島山を修験道の霊場とする修験者の道場拠点となりました
霧島六社権現(きりしまろくしゃごんげん)の六社
①西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉=霧島東神社(高原町祓川)
③霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉=
④雛守権現社〈別當・宝光院〉=現 霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤狭野大権現社〈別當・神徳院〉=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥東霧島権現社〈別當・勅詔院〉=東霧島神社(都城市高崎町)
其の他の説に
・白鳥権現社〈別當・満足寺〉=白鳥神社(えびの市末永)
・霞権現〈別當・神徳院〉=霞神社(高原町後川内)
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される゛霧島六社権現゛の図
①〈三国名勝圖會 巻之三十四 大隅國囎唹郡 曾於郡之二 神社〉西御在所霧島権現社〈別當・華林寺〉
現=霧島神宮(霧島市霧島田口)
②〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉御池 霧島東御在所権現社〈別當・錫杖院〉
現=霧島東神社(高原町祓川)
③〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉霧島中央権現宮〈別當・瀬多尾寺〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の旧鎮座地
④〈三国名勝圖會 巻之五十四 小林 神社〉雛守権現社〈別當・宝光院〉
現 =霧島岑神社(小林市細野)の社地
⑤〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉狭野大権現社〈別當・神徳院〉
現=狭野神社(高原町蒲牟田)
⑥〈三国名勝圖會 巻之五十六 日向國諸縣郡 高原 神社〉東霧島権現社〈別當・勅詔院〉
現=東霧島神社(都城市高崎町)
その他
『三国名勝圖會』では 霧島六社権現として 他にも挙げています
・華舞六所権現=現 華舞神社〈山田神社〉(都城市山田町山田)
・安原霧島大権現(中霧島権現)=現 安原神社(都城市山田町中霧島)
・霧島山不動明観寺=現 荒武神社(都城市吉之元町)
現在の 霧島六社権現5社について
※元々は 名前〈六社権現〉の通りの六社でしたが 明治6年(1873)霧島岑神社と夷守(ひなもり)神社が合祀されたので 現在は5社となっています
・霧島(きりしま)神宮(霧島市霧島田口)
・霧島東(きりしまひがし)神社(高原町祓川)
・狭野(さの)神社(高原町蒲牟田)
・東霧島(つまきりしま)神社(都城市高崎町)
・霧島岑(きりしまみね)神社(小林市細野)
延喜式内社 日向國 諸縣郡 霧嶋神社(貞)(きりしまの かみのやしろ)の論社について
・霧島岑神社(小林市細野)
・東霧島神社(都城市高崎町)
・霧島東神社(高原町祓川)
・霧島神宮(霧島市霧島田口)
・霧島神宮 古宮祭祀跡(霧島市霧島田口)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR日豊本線 霧島神宮駅から県道60号を北上 約6.6km 車15分程度
私は 霧島の温泉街に宿泊して 早朝の参拝です
県道に建つ一の鳥居を車でくぐり 神橋を渡ります
表参道の石段下に 社号標゛霧島神宮゛
霧島神宮(霧島市霧島田口)に参着
石段を上がると 二の鳥居が建ち 一礼をして くぐります
参道の脇には゛神聖降臨之碑゛
神聖降臨之詩碑
神聖降臨地(しんせいこうりんのち)
乾坤定位時(けんこんくらいのさだまるとき)煌々至霊気(こうこうとしてれいきいたる)
萬世護皇基(ばんせいこうきをまもる)
徳富蘇峰「皇室を中心とする国日本と徳富蘇峰」
明治、大正、昭和にかけての思想家徳富蘇峰は其の思想の中で根幹をなす「皇室中心主義」について「漸く行き着いた安心立命の処」と言い「此を宣揚して死んだら私の生存したる甲斐もある」と感得しえた思想の境地を語ったと云われています。
この詩は昭和二十七年「卒寿」を迎えた粗放の詠詩揮毫で、国体の精華が詠みあげられています。詩碑は、昭和二十七年八月二十二日、照国海運社長中川喜次郎兄弟、並びにその厳父より同社の建造船タンカー「霧島丸」の進水を記念して奉納されました。
霧島神宮現地案内板より
ここに広場があり 参道は右に折れます 左手には展望台があり 絶景が見渡せます
参道向かって左手には゛社務所゛
参道正面の石段を上がります
石段を上がると゛三の鳥居゛が建ち 南西方向を向いている参道 その先に社殿が鎮座します
朝陽の差し込んでいる 社殿へと参道を進みます
参道を抜けると 開けた社地に 木漏れ日の朝陽が眩しいほどです
澄んだ空気の中 あまりにも神々しく 何度も見上げて
御神木の樹齢約800年の゛老杉゛です
早朝なので 神職の皆様が清掃をされています
御神木は 力強い枝ぶりも神々しい
御神木の先を進む〈南東へ〉と神楽殿がありました
清らかな水が滾々と流れる手水舎で清めます
玉垣内 向かって左手には 授与所
拝殿の前 左右には・門守神社《主》櫛磐間戸神・門守神社《主》豊磐間戸神が祀られててます
早朝にかかわらず 多くの参拝者がいたので 驚いたことを覚えています
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 回廊のような階段があり その先の高い位置に本殿が祀られています
参拝を済ませると まだ わずかに朝霧が漂う中 白無垢の花嫁が歩んでいきます
清々しく凛とした空気の中 参道を戻ります
【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承
式内社 霧島神社は 所在について 霧島山は峯二つあり 山下には東霧島村 西霧島村が二つ 麓に霧島明神社という大きな神社がある との説を記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
「續日本後紀」承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
〇天安二年十月廿二日己酉、授 從五位上 霧島神 授從四位下「応神紀」日向諸縣君 牛諸井
〇信友云 或書に 高原郷 今云に東霧島宮
(古事記傳)に霧島山は日向国の南の極にて 大隅国の堺にあり
(神代紀)に 二上とあるごとく 東西と分れて峯二つあり 山下に東霧島 西霧島と云ふ村もあり 西なる峯は 大隅国囎唹郡に属し 東なるは日向国諸縣郡に属けて 霧島明神社は麓にあり大きなる社之とぞ云々とあり 霧島山 霧山とも云ふ
(古事記)竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき
(神代紀)(日南風土記)可引 とある処の山 之この委き考は傳の十五の七十丁にあり
【原文参照】
『三国名勝圖會(Sangoku meisho zue)』〈天保14年(1843)〉に記される伝承
霧島神宮(霧島市霧島田口)について 明治までは 西御在所霧島六所権現と称していた 詳細に記されています
【抜粋意訳】
三国名勝圖會 巻之三十四 大隅國囎唹郡 西御在所霧島権現社
西御在所霧島六所権現社
地頭館より丑方、二里二十町餘、
田口村霧島山西面の半腹にあり、社西南に向ふ、祭神正殿四坐、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、神武天皇、以上四神、各一坐とす、正面にあり、
東殿一坐、正殿の左棭にあり、国常立尊、高皇産霊尊、伊弉諾尊、天照大神、以上四神合して一坐とす、
西殿一坐、大己貴命、国狭槌尊、惶根尊、神皇産霊尊、伊弉冊尊、素盞嗚尊、正哉吾勝尊、以上七神合して一坐とす、
是十五體の神像を分ち、六坐として、六所権現とす、本府神官、本田親盈、神社考、并に神社選集に曰、
西御在所霧島六所権現は祭神六坐、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、木花開耶姫、玉依姫、神武天皇是なり、
當社の祭神十五體は、今現在の奉祀なるに、親盈が説と所異かくの如し、其故を詳にせず、
然れども霧島六所権現は、瓊々杵尊、彦火火出見尊、葺不合尊、三夫婦の神を崇て、多くは六所と稱ず、前條霧島神社総数の題下に記すが如し、然るに今所は十五体といへども、親盈が説は六體とあれば、蓋往古は六體なりしを、後世に増加して、十五體とせし者なるに似たり、
今両説を並べ記して参考に備ふ、
當社は霧島権現六社の一なり、又當社は、吾藩朝歴代の邦君特に帰敬したまひて、宮殿の壮麗も、他廟に超へ、萬民の尊崇も亦勝れたり、因て世俗に其所を指さずして、霧島宮といへは、野人牧豎も當社の事と思へり、是古よりいひ習はせし言の然らしむるにて、當社に帰依する者の多きを見るべし、祭祀は年中二十五度あり、其内大祭二度、二月初酉日、十一月初酉日是なり、
中祭三度、正月元日、八月二十五日、九月十九日是なり、正月元日の晨朝には、神前の斎庭に、三枝の榊を敷き、社吏手に真榊を持て四方に向ひ、祝辞を唱へて米を散す、是神代よりの故事なりとぞ、日向風土記に散米の事見ゆ、又是を宇知末伎といふ、今散銭といふは散米の代にせるにて、散米銭の略語なり、小祭四度、正月七日、五月五日、九月二十九日、十月亥日、是なり、
下祭十六度月日略す、闔藩の人民、参詣する者常に絶へず、九月九日、十九日、二十九日には、参詣する者、特に多し、就中十九日、最盛なり、
当社別当華林寺の記に云、
欽明天皇の時、慶胤上人なる者、此山を開闢し、当社及び梵刹を創建す、
其後山上火を発し、寺社焼亡して、多くの星霜を歴たりしに、村上天皇の御宇に、性空上人此山に登て、法華経を持誦すること若干年、当社を建立し、六所権現と号す、六観音を感見して、其本地とせり、初め上古の神社は、今の社地より東一里十町許に当る、当社の嶺矛峯と火常峯との中間、背門丘にありしが、天暦中、性空背門丘より今の地に神社を遷し、併せて、別当寺を新建す、
性空は天台宗の徒なり、故に別当寺も台宗にて、性空より第二十一代住持道果に至て、凡二百八十年、台宗相承せしが、
文暦元年、甲午、十二月二十八日、山上又火を発して、神社寺院及び什宝文書等悉く焼失す、其後二百五十年許の間は、神社寺院共廃して、唯仮宮あり、其仮宮を、待世行祠と云、下に見ゆ、
文明十六年、甲辰、円室公、真言宗の徒、兼慶法印に命して、神社及び別当寺を造営し、兼慶をして廟務を掌らしむ、於是兼慶大願を発し、矛峯の絶頂に登て持念す、但橋本某一人従ひ行く、即今の社司の先祖なり、既にして祈願満ち、往古の社地を求得て、神廟を建立し、六所権現を遷宮し、且本地六観音の像六体を社内に安置す、堂宇巍然として、往古の壮麗に復れり、
即今の地は、村上天皇の時、性空が神社を遷徒せる処なり、因て兼慶を以て中興開山とす、是より真言宗となりて、今に至る、
文明後、宝永二年、乙酉、十二月十五日、神社及び寺院火災に罹る、別当社徒神体等を奉して火を避く、則ち仮殿を営んで是に遷祀す、正徳五年、乙未、浄国公御重建ありて、壮麗旧に倍す。 即ち今の神社なり、白尾国柱云、
神廟背門丘に在りし時は、高千穂神社と称せしにや、凡そ瓊々杵尊の廟号を、高千穂と称せし例は、日向国児湯郡妻神社の内、高千穂宮ありて、瓊々杵尊を祀りしにて知べし、
續後紀、承和十年、九月甲辰、日向国無位高智保皇神、奉授従五位下、又三代実録、天安二年、十月二十二日、授日向国従五位上高智保神従四位上、是単に日向国と記されて、郡名なければ、詳ならずといへども、上古背門丘にありし時は、日向国内なれば、即此社なるべしと、按に小林邑霧島山中央六所瀬多尾権現社は、往古背門丘にあり、山上発火の後、山下処々へ移し、終に今の地に遷宮するといふ、然るに又当社も、上古背門丘にあるとす、何れが是なるや、若し背門丘の神廟は、当社たらば、續後紀に、承和四年、八月、日向国諸県郡霧島岑神預官社と見ゆるも、当社ならん、旧説には、是を高原邑東御在所社なりといふ、然れども彼社は、山上に非らず。 故に岑の字に契はざるが如し、今当社を西御在所社と号するは、高城邑東御在所社に対しての称なるのみ、霧島霊応記云、
弘安四年、閏七月朔日、蒙古入寇の時、当宮に奉幣ありて、奇瑞の事を載せたり、又当社は、大中公、貫明公、松齢公の御時、邦家の大戦大事ある毎に、当社へ御祈念ありて、御願文を進られ、或は仏経を転読せしめられ、或は夢想を受られ、或は吉凶の神鬮を拈り給ひ、其霊応顕著なること、挙て計ふべからざる、故に邦君崇仰したまひ、喜捨の香火田、或は甲冑器仗の類甚多し、社司橋本氏、別當華林寺、
〇什寶・・・・・・
○本地堂 本社の西方一町許にあり、本尊十一面観音一躯、木像中興兼慶作、夾侍二十八部、木像同作、往古性空上人、当山六所権現社を建立するや、六観音放光示現あり、此時十一面観音其先に在り、故に此堂には、六観音の内、十一面観音一躯を安置すといふ、供養正月五日、九月初午日、
○十一面観音堂 本社の南十間にあり、当社の本地十一面観音の画像を安置す、真如親王の筆にて、当山第一の霊像とす、世に不出の宝品といへり、
○鎮守堂 本社の西二町許にあり、当山の鎮守とす、本尊両部大日如来、供養五月二十八日、正月二十八日、
○仮殿 本社の西二十間許にあり、祭神天満天神荒神、
○多宝塔 本社に南二十間許にあり、本尊五智如来、金彩色木像、慶長十九年、甲寅、十一月、松齢公御立願にて創建したまふ、
○香堂 本社の西二町許にあり、本尊十一面観音を安置す、曼荼羅堂と号す、上古より、歳時昼夜となく、不断香を焚接く所なり、社記に云、性空神霊より命を受て、此式を行ふと。 大供養正月六日、
○護摩堂 本社の南十間許にあり、本尊十一面観音、毎年秋彼岸より、冬十月初亥日まで、当社に華林寺の住持寓止し、十一面観世音護摩供を、毎日一坐づゝ修す、
○不動明王石像 本社の南二十間許にあり、矛峯神体の代りとして此に建つ、
○税所祠 本社の西十二間許にあり、社記曰、宇多天皇の皇子篤房親王、五世の孫、正五位下藤原篤如、後一條天皇の時、国分正八幡宮と、霧島神社の神職となり、治安元年、辛酉、三月、大隅国に下着し、神領の租税を司り、税所を以て氏とす、当祠は篤如を祭れるといふ、
○待世行祠 田口村、待世にあり、本社を距つこと南一里十八町許にして、本社の境内に係る、祭神本社に同し、上古の本社、山上にありし時、文暦元年、山上に火発して、一山焚燃す、神体及ひ神代よりの不断香火を此地に移し、爰に在ること二百五十年許なり。 文明十六年、圓室公今の地に遷宮す。 此行祠の跡を仮宮といへり、十一月初辰日、祭祀をなす、
○野上六社権現社 本社の属社にて、本社の西南二十町許にあり、田口村に属す。 祭神天御中主尊、高皇産霊尊、天照大神、天万栲機千々姫、天忍穂耳尊、玉依姫の六坐なり、本社の御祖神と称す、
○天子明神社 本社の末にて、本社の西一里許にあり、田口村に属す、祭神蛭児命、天忍日命、天穂津大来目命の三坐なり、
姓氏録曰、天孫瓊々杵尊神籠之降也、天押日命、大来目部立御前於日向高千穂峯、然後以大来目部為天靭負部云々、此地に此二神を祭る事、理ありといふべし、祭祀九月十九日、
○稲葉神社 本社の末にて、本社の西南一里余にあり、田口村に属す、祭神木花開邪姫命、倉稲魂命、猿田彦命、是なり、社記に曰、此地は開闢の初、自然に稲始て生せし処といへり、荒古瓊々杵尊、高千穂峯に天降の時、霧暗かりしに、此処の稲穂を取て、四方に散したまひしかば、天忽開明すと、故に此地の稲を不蒔稲といひ、日本国中稲の根本なり、当社は此縁故にて建たり、今其稲穂を取て、毎年八月十五日、新嘗の神供とす、又二月初酉日、新年の祭に、千穂を備ふ、御田の神を祭るとす、
○市岐明神社 本社の末にて、本社の東南二里、大窪村にあり、祭神天神玉命、天八坂彦命、
○飯富明神社 本社の末にて、本社の離方一里半余、大窪村にあり、祭神岐志爾保命、天日神命、
○七社明神社 本社の末にて、本社の兌方二里、川北村にあり、祭神八十枉津日命、神直日命、大直日命、天伊佐布玉命、天表春命、天背男命、経津主命、飯富七社の二祠は、往古は許多の神田を寄附ありしとぞ、
○亀石坂 本社に詣の道にて、前條香堂と鎮守堂の間より、登るの坂をいふ、坂の傍に、一奇石あり、亀の形に似たり、亀石あるに因て、坂の名を得たり、
○風穴 亀石坂の側にあり、嶽穴より常に風を出す、嶽上に観音の石像を安置す、
○御手洗川 水源は本社の西二町許の下、嶽天より出、潴滀して池の如し、其池中に小祠あり、水天弁天を安す、例祭五月二十日、下流は華林寺の末院林泉防の内を過ぎ、霧島川に入る、・・・・・・
〇両度川 水源は華林寺の東北・・・・・
【原文参照】
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉と記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
霧島は 岐里志麻と訓べし
〇祭神 伊弉諾尊、伊弉冉尊、相殿 地神五代、神武天皇、社傳 〇考証、多紀理比賣といふ、今従はず、
〇高原郷霧島山に在す、今 東御在所両所権現と稱す、神社考
神位 官社
續日本後紀、承和四年八月壬辰、日向國諸縣郡 霧島岑神 預官社、
三代實録、 天安二年十月己酉、從五位上 霧島神 授從四位下、
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉であるが 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱す〈現 霧島東神社(高原町祓川)〉との説も紹介しています
天孫降臨の高千穂峰について 現 宮崎県と大分県の県境にある高千穂の二上山と 宮崎県と鹿児島県の県境にある高千穂二上峯のどちらも 霧島山としての可能性があり 古から決めかねていることも記しています
【抜粋意訳】
霧島(キリシマノ)神社
今 細野村夷守にあり、昔高千穂二上南峯の間 瀬戸尾にあり、仍て瀬戸尾神社入霧島中央権現と云、後 今の地に遷す、宮崎縣神社調 〇按 鳥羽天皇天永三年山上大に火あり、六條天皇の仁安二年 社殿災に罹り、四条天皇文暦元年又災ありしを以て、瀬戸尾越に鎮座し、其後數遷座ありて終に今地に遷し奉ると云り、
又 往古より霧島神社は六社ありて 其五社は共に同國同郡に鎮座す 唯一社のみ大隅國 囎唹(ソヲノ)郡にあり されば何れ式社ならん詳ならずといひ 又 一説には本社 高原郷霧島山にます 今 東御在所両所権現と稱すともあり附て後考を俟つ、
蓋 天孫 天津彦々火瓊々杵尊を祀る、参酌日本書紀、古事記、
霧島山は日向大隅二國に蟠り東西二峯あり 東峯殊に高く峻しく 西峯稍卑く常に火燃揚り、時によりては、黒烟天を蔽ひ、石砂飛散を以て、世人畏て神火と云ふ、二峯を合せて霧島山と名く、此の山遽に霧起り大風吹出、地とどろき闇の夜の如く暗がりて霧にれぼぼれ 風に吹放たれて、身を失ふ者あり、故山に登る者、神代の故事の随に、稲穂を持て拂ひつつゆけば、天明りて、事故なし、其の神威霊應、今に至りて甚だ厳速しと云、高子観遊記、日本紀通證、古事記傳、
〇按 日向國圖、霧島山は諸縣郡にて大隅に界ひし 高千穂嶽は臼杵郡にて、豊後の界にあり、かかれは南北と甚く隔りてはあれど、いづれも二峯ありて二上と云へき状なるに、高千穂嶽は今も二上山と云ひ、風土記にも稲穂の故事をは臼杵郡なる方に記せれば、是ぞ神代の高千穂二上峯ならむと思ふに、書記に襲之高千穂峯とある襲は、大隅の地名なるが上に稲穂を拂ふ事は、今の現に霧島山にのこり、穂々出見尊の御陵 高千穂山西にありと云るも、霧島山と聞ゆれば古へは此二山を推通して、共に高千穂二上峯と云しなるべし、姑附て考に備ふ、
桓武天皇 延暦七年三月壬辰 霧島峯神、官社に預り、續日本後紀
清和天皇 天安二年十月巳酉、従五位上 霧島神に従四位下を授く、三大實録
凡其祭三月十一月十八日を用ふ、宮崎縣神社調
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 霧島神社について 所在については 細野村夷守〈現 霧島岑神社(小林市細野)〉とし 元々は゛山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり゛と噴火による火災で度々 遷座してい現在地となっていると記しています
【抜粋意訳】
霧島神社
祭神 瓊々杵尊
神位 仁明天皇 承和四年八月壬辰 日向國諸縣郡霧島神預官社
文徳天皇 天安二年十月廿二日 巳酉授日向國従五位上霧島神従四位下祭日 三月十一月十八日
社格 (明細帳に霧島神宮摂社 兼 縣社霧島岑神社とあり)(縣社)所在 細野村 夷守(西諸縣郡小林村大字細野)
今按〈今考えるに〉
宮崎縣神社調帳に當社は 往古 高千穂二上山 今の霧島なり 両峯の間 瀬戸尾と云地に鎮座ありしに依て 俗に瀬戸尾神社また霧島中央権現とも稱せり
傳云 鳥羽天皇 天永三年二月三日山上大に炎し 六條天皇 仁安二年亦炎す再度共に神社火災に罹るといへども故の如く造営ありしが 四條天皇 文暦元年十二月震火大に発し社殿併當寺焼亡す故に山内を出て岡原に假殿を建て 十四年 二上山の東なる筑地に社殿を造営して遷座ありしを 明治七年四月一日夷守の舊社へ遷座ありと云るが如く もと山上にありしを度々の火災によりて屡 社殿を遷せしものとみえたり
【原文参照】
霧島神宮(霧島市霧島田口)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)