川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉

川原神社(かわらじんじゃ)は 倭姫命世紀によると倭姫命が宮川の上流から此の邊りを御通過の時 澤道(さはち)の野原を「澤道の小野(さはちのをの)」と名付け祝ひ定められた神社と云う 『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉に゛川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)゛と記される古社で 皇大神宮(内宮)摂社です

目次

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

川原神社(Kawara shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

三重県伊勢市佐八町字泉水1559

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》月読尊御魂(つきよみのみことのみたま)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社
・〈皇大神宮(内宮)摂社〉

【創  (Beginning of history)】

『大神宮叢書』第2 前篇昭和10至15年〉に記される内容

【抜粋意訳】

卷第十五 大神宮儀式解 管度會郡神社行事(續)
川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)。

川原は加波良(カハラ)とよむべし。當社は沼木郷佐八(サハチ)村〔古は澤地(サハチ)は澤道と書り。近世 相地(サウチ)とも書たり〕にあり。宮川の邊(ホトリ)なれば川原といひし欺。又此ノ郷を上古(イニシヘ)川原といひし欺。さらば地名を社號としるべし。
大神宮式、所攝二十四座云々、河原社云々、右ノ諸社竝に預に祈年神嘗祭に、といへり。
當社昔は國郡司作れり。次瀧原神社の下、右ノ社随に破壊之時に、國郡司以に正税修造、と見ゆ。いつの比より此ノ式すたれ社も絶(タエ)たるを、寬文年中大司精長朝臣 古式(イニシヘノノリ)のごとく再興の後、宮司より造替(ツクリカヘ)らる。〔佐八村は古來當宮に品々物を調進(タテマツ)る。年中行事、正月一日、佐八御牧所進 年魚同供進、又八月一日、佐八御牧簗簀刀禰補任職掌等に加判、と見ゆ。今代も佐八村より每冬十二月の末六桶の鮎   鮪をたてまつり、又彼村神田有て、年々稻百七束〔小結十二束爲に一束〕を内宮に供進せり。右の神田稻收納の事、代々將軍家より御朱印を神主に賜へり。〕

稱(マヲスニ)月讀神御玉(ツキヨミノカミノミタマ)。形無(ミカタナシ)。

稱は上の例と同く、下の御玉よりかへりて訓べし。〇月讀神は上〔初條〕にいへり。〇御玉は借字(カリモジ)にて霊(タマ)なり。委く上に辨(イヘ)ばこゝにいはず。當社に祭るは、卽ち月讀宮ノ院内に坐す荒魂命と同神なるべしといへど、御玉(ミタマ)と荒魂(アラミタマ)はその意少し異なるべし。

同内親王(オナジヒメミコ)定祝(イハイマツル)。

右川原神社も倭姫内親王定祝たまふとなり。

正殿一區(ショウデンイチク)。長さ四尺。弘さ三尺。高さ六尺。

正殿は月讀神ノ御霊(ミタマ)を齋(イハ)ひ奉る社なり。千木堅魚木已下宮殿の制、古へも今のごとく造奉りしならん。こゝにいはぬは文の略なるべし。今ノ世正殿ー宇、長さ五尺、弘さ三尺五寸、高九尺七寸、板葺、千木四枚、堅魚木四枚あり。

玉垣一重(タマガキヒトエ)。四方(シホウ)各(オノオノ)二丈。

此の玉垣今も造(ツク)り奉れり。又今ノ世此の垣に属(ツキ)たる御門一間、烏居一基を造り進れり。〇當社御裝束神實、今ノ世御樋代一合、御床一具、御幌一條、奉遷ノ絹垣一條、御鉢二竿、御矢四隻、御弓二張、御櫛筥一合、御鏡一面を宮司より造進(ツクリマツ)れり。

坐地(オハシマツトコロ)九段(クタン)。四至(シシ)。東西北大川。南畠。

九段、一本八段に作れり。〇東西北大川とは宮川の流なり。今の四至と不合。按(カンガツル)に、次久具社の坐地弘さ四至共に當社と全く同じ。坐地同じき事無きにはあらねど、若は寫誤(ウツシアヤマリ)たる欺。されど諸本皆然り。心をつくべし。

【原文参照】

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

神宮司庁 編『大神宮叢書』第2 前篇,西濃印刷岐阜支店,昭和10至15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1239691

【由  (History)】

『神宮摂末社巡拝』下〈昭和18年〉に記される内容

【抜粋意訳】

川原神社(からじんじゃ)

宮川の上を、川に沿ふて一里程上って行くと、宮本村佐八(みやもとむらさはち)の川原(かはら)神社に達する。
皇大神宮の攝社で、御社名は延曆儀式帳には河原神社とあり、延喜大神宮には河原社、全神名式には河原神社と見えてゐる鎭座地は度會郡宮本村大字佐八の街道の左手である。
佐八(さはち)といふ地名は、元來澤地(さはち)(或は澤道(さはち))の意味で、往古此の邊りは宮川の川原で、澤地をなしてゐたことを示すもので、その河原に鎭座するを以て、川原神社の名を傳へたものである。

 倭姫命世紀によると、皇大神宮御遷幸の御途次、宮川の上流から此の邊りを御通過の御とき、澤道(さはち)の野原ありたるを以て、そこを「澤道の小野(さはちのをの)」と名付けたといふ傳説が傳へられてゐる。この由緒によつて本社は倭姫命によって祝ひ定められた神社といふことになってゐる。又同書によると、大若子命(おほわくごのみこと)は御船を以て、この地に皇大神を御出向へ申したので、こゝを賞して、御船向田國(みふねむかへたのくに)と名付けこゝから御船に召されて宮川を下られ、五十鈴の川上に御遷幸遊されたといふことを傳へてゐる。
古い此の邊りの地名を沼木郷(ぬまきのさと)といひ、又内宮の荒木田(あらきだ)神主の一族に佐八(きはち)氏、澤田(さはだ)氏の名のあるのも、何れも、この地に居住しゐたことによるものである。

 御祭神は儀式帳に月讀神御玉(つきよみのかみのみたま)と見えてゐる。月は水の干満に開係のある所から、この神は多く川の神として、川の附近に祭られ、水の神として信仰を受けられてゐる。ここでは宮川の守護神として澤地守護のために、その御魂を齋き祭ったものである。

 御社地の廣さはもと八段あり、その御境内は東西が藪で、西及び北は宮川に接した所である。中世殿舎荒廃に帰したが、寛文三年に再興し、以て今日に及んでゐる。今社域を見るに古墳の跡と思しきものあり。寬文三年再興のとき、この中より太刀、金具、矢ノ根、祝部土器等の発掘品を得たといふことが攝社再興記に傳へられてゐる。佐八村開拓の祖神の古坦であらう。

【原文参照】

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

猿田彦神社講本部 [編]『神宮摂末社巡拝』下,猿田彦神社講本部,昭和18. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1033626

スポンサーリンク

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

スポンサーリンク

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

〈旧鎮座地〉浅間社(大字佐八に鎮座)

・佐八浅間神社(三重県伊勢市佐八町1923−1)

伊勢式内検録』の説では

゛寛文三年に再興の現在地は旧跡ではなく 本来の旧址は沼木郷佐八村の゛本村の中間大道の西 千眼社あり、又 千眼寺゛これは川原神社は音読みで「せんげんじんじゃ」千眼社の跡である と記しています

〈旧鎮座地〉浅間社(大字佐八に鎮座)の合祀先 村社 八柱神社〈現 宮本神社(伊勢市佐八町767)〉

浅間社(大字佐八に鎮座)は〈明治43年6月〉村社 八柱神社〈現 宮本神社(伊勢市佐八町767)〉に合祀

川原神社は 皇大神宮(内宮)摂社です

・皇大神宮(内宮)

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式Engishiki)』巻4神祇四 伊勢太神宮

「巻四 神祇四 伊勢太神宮」には 伊勢大神宮式が述べられています
この式は 伊勢大神宮および豊受大神宮に関する諸規定を集めたもので 伊勢大神宮に属する三箇神郡 (度会・多気・飯野郡)に関する規定含まれ 年中の儀式とその祭料が記されています

゛神宮の諸社が 祈年 神嘗祭並預゛と記されます

【抜粋意訳】

伊勢太神宮

太神宮三座。【在度會郡宇治鄉五十鈴河上。】
天照太神一座
相殿神二座
禰宜一人,從七位官。大內人四人,物忌九人。【童男一人,童女八人。】父九人,小內人九人。

荒祭宮一座。【太神荒魂,去太神宮北二十四丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗、神衣等祭供之。

伊佐奈岐宮二座。【去太神宮北三里。】
伊弉諾尊一座
伊弉冊尊一座

月讀宮二座。【去太神宮北三里。】
月夜見命一座
荒魂命一座

瀧原宮一座。【太神遙宮。在伊勢與志摩境山中。去太神宮西九十餘里。】

瀧原並宮一座。【太神遙宮。在瀧原宮地內。】

伊雜宮一座。【太神遙宮。在志摩國答志郡。去太神宮南八十三里。】
右諸別宮,祈年、月次、神嘗等祭供之,就中瀧原並宮。伊雜宮不預月次,其宮別各內人二人。【其一人用八位已上,并蔭子孫。】物忌、父各一人,但月讀宮加御巫、內人一人。

度會宮四座。【在度會郡沼木鄉山田原,去太神宮西七里。】
豐受太神一座
相殿神三座
禰宜一人,【從八位官。】大內人四人,物忌六人,父六人,小內人八人。

多賀宮一座。【豐受太神荒魂,去神宮南六十丈。】
內人二人,物忌、父各一人。
右二宮,祈年、月次、神嘗等祭供之。
凡二所太神宮禰宜、大小內人、物忌,諸別宮內人、物忌等,並任度會郡人。【但伊雜宮內人二人、物忌、父等,任志摩國神戶人。】

諸社卌座

太神宮所攝廿四座
朝熊社 園相社 鴨社 田乃家社 蚊野社 湯田社 大土御祖社 國津御祖社 朽羅社 伊佐奈彌社 津長社 大水社
久具都比賣社 奈良波良社 榛原社 御船社 坂手國生社 狹田國生社 多岐原社 川原社 大國玉比賣社 江神社 神前社 粟皇子社

度會宮所攝十六座
月夜見社 草名伎社 大間國生社 度會國御神社 度會大國玉比賣社 田上大水社 志等美社 大川內社 清野井庭社 高河原社 河原大社 河原淵社 山末社 宇須乃野社 小俣社 御食社

諸社,並預祈年、神嘗祭

以下略

【原文参照】
国立公文書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1273518/1/70

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢 253座(大18座・小235座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)度會郡 58座(大14座・小34座)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 川原神社
[ふ り が な ]かはらの かみのやしろ
[Old Shrine name]Kahara no kaminoyashiro

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)について

延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)は 伊勢神宮の皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』と豊受大神宮(外宮)に関する儀式書『止由気宮儀式帳』(とゆけぐうぎしきちょう)を総称したもの
平安時代成立 現存する伊勢神宮関係の記録としては最古のものです

両書は伊勢神宮を篤く崇敬していた桓武天皇の命により編纂が開始され
両社の禰宜や大内人らによって執筆されました
皇大神宮と豊受大神宮から 神祇官を経由して太政官に提出されて
延暦23年(804)に成立しました

川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉『延暦儀式帳(えんりゃくぎしきちょう)』に記載

皇大神宮(内宮)に関する儀式書『皇太神宮儀式帳』〈延暦23年(804)〉

川原神社(カハラノヤシロ)一處(ヒトトコロ)
稱(マヲスニ)月讀神御玉(ツキヨミノカミノミタマ)。形無(ミカタナシ)
同内親王(オナジヒメミコ)定祝(イハイマツル)
正殿一區(ショウデンイチク)。長さ四尺。弘さ三尺。高さ六尺。
玉垣一重(タマガキヒトエ)。四方(シホウ)各(オノオノ)二丈。

坐地(オハシマツトコロ)九段(クタン)。四至(シシ)。東西北大川。南畠。゛

内宮・外宮の別宮・攝社・末社・所管社について

お伊勢さん125社について

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

伊勢市駅から県道22号経由 宮川を遡るように南西へ約6.2km 車15分程度

往古は この邊りは宮川の川原で 澤地(さわち)をなしていたとされ そこから地名の佐八(そうち・さはち)と地名が名付けられたと伝わります

Please do not reproduce without prior permission.

川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉に参着

Please do not reproduce without prior permission.

境内の南側に入口があります

Please do not reproduce without prior permission.

川原神社゛の社号標があります

Please do not reproduce without prior permission.

社殿は 南向き 東西に御殿地と古殿地が並んでいます
古殿地(こでんち)は 社殿の隣の敷地〈20年ごとの式年遷宮の殿地となる場所で 次の式年遷宮を待ちます〉

Please do not reproduce without prior permission.

殿にすすみ お祈りをしま
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 川原神社について 所在は沼木郷佐八村に在す〈現 川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

【抜粋意訳】

川原神社

川原は 加波良訓べし

○祭神 月読神御玉

○沼木郷佐八村に在す 神名略記

〇式四、伊勢大神宮 大神宮所廿四座の第廿四に載す、
〇儀式帳云、稱に月読神御玉、形無、倭姫内親王定祝、

【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』上編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991014

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 川原神社について 所在は沼木郷佐八(そうち)村に在す〈現 川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

しかし伊勢式内検録』の説を挙げて この地は旧跡ではなく 本来の旧址は沼木郷佐八村の゛本村の中間大道の西 千眼社あり、又 千眼寺゛これは川原神社は音読みで「せんげんじんじゃ」千眼社の跡であると記しています

【抜粋意訳】

川原(カハラノ)神社

今 沼木郷佐八村にあり、神名秘書、神境紀談、
〇按 伊勢式内検録云、此の地 舊跡にあらず、今 本村の中間大道の西 千眼社あり、又 千眼寺と云ものあるは、川原社を音読に唱へたるにて、其の舊址なる事著しと云り

月讀神の御魂を祀る、倭姫命 定祝奉る、延暦儀式帳、

醍醐天皇 延喜の制、祈年神嘗祭に預る、延喜式

【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 川原神社について 所在は沼木郷佐八(そうち)村に在す〈現 川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉〉と記しています

しかし伊勢式内検録』の説を挙げて 寛文三年に再興されたこの地は舊社ではなく 本来の旧址は今社の西南なる千眼寺の域内 浅間社なる゛これは千眼浅間ともに川原の音読「せんげん」を訛れるものであり この説の通りだと記しています

【抜粋意訳】

川原神社

祭神 月讀神御玉

祭日 二月十一月並十二日
社格 内宮所攝 二十四所之一

所在 三重縣沼木郷佐八村 (度倉郡宮本村大字佐八 )

今按 検録に寛文三年 今地に造立なりしかど 舊社は今社の西南なる千眼寺の域内 浅間社なるが千眼浅間ともに川原の音読を訛れるなりと云り此説の如くなるべし

【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971155

川原神社〈皇大神宮(内宮)摂社〉 (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

お伊勢さん125社について

伊勢国 式内社 253座(大18座・小235座)についてに戻る

 

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-, , ,

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.