咸古神社(富田林市龍泉)〈弘法大師空海が 加持祈誓し龍神を呼んだ社〉

咸古神社(かんこじんじゃ)は 龍泉寺縁起』゛牛頭天王社の由緒゛に 弘仁14年(823)この地を訪れ弘法大師空海が 加持祈誓し龍が再来 が戻り現れた3つの小島に・弁財天・聖天・吒天を祀り 牛頭天王を鎮守社としたのが創建云 江戸時代には鎮守社 牛頭天王社 明治時代に咸古神社と改称 明治42年(1909)相殿に式内論社 咸古佐備神社が合祀されました

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目次

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1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

咸古神社(Kanko shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

大阪府富田林市龍泉886

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

本殿
《主》神八井耳尊(かんやいみみのみこと)〈初代 神武天皇の皇子〉

相殿〈咸古神社の相殿に明治42年(1909)合祀された 咸古佐備神社(富田林市甘南備)〉
《合》天太玉命(あめのふとだまのみこと)

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

龍泉寺の寺伝によれば

 かつて ここ嶽山の中腹にある池 龍泉寺庭園には悪龍が住み 里人に害を与えていた
 推古天皇2年(594)勅命により 蘇我馬子がこの地に来て呪(じゅ)を行つたので 悪龍は 天に逃げ去っていった そして蘇我馬子は龍泉寺を建立したとされる しばらく後 悪龍の報復によって 境内の池と麓の水脈枯れ 付近一帯も水が枯れて 寺も里も衰えてしまった
 弘仁14年(823)1月8日に空海(弘法大師)が この地を訪れ 加持祈誓(かじきせい)すると 法味に感じた龍が再来し 水が豊かになり 池の中に3つの小島ができた
空海(弘法大師)は これにちなんで池の3島には弁財天(べんざいてん)聖天(しょうてん)吒天(だてん)をそれぞれ祠(まつ)り 牛頭天王(ごずてんのう)を鎮守とした
牛頭天王を祀った鎮守社が 咸古神社の始まりであると云う

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【由  (History)】

龍泉寺の寺伝龍泉寺縁起ある゛牛頭天王社の由緒

 嶽山の麓をたまたま通りかかった弘法大師が 喉が渇き村の老人に水を乞うたところ 鉢を灌ぐに足らない水しか得られなかった
弘法大師が 理由を聞くと 老人は古の伝説を語り「しばらくこの地に止まり霊地を起こせ さすれば余もまた汝の願い助けん」と云った
何者かを尋ねると「我はこの地の地主 牛頭天王である 汝が来ること待つこと久し」と言い 忽然と姿を消した

 弘法大師は 山をかき分け 奇雲が残るところにたどり着くと 仙境のような土地に枯れ果てた池があった 加持祈祷を行うこと 夜に雨が滝のごとく降り 龍王の再来と叫ぶ大声が三度聞こえた 夜が明けると 池は水を湛え 水中に龍穴が見えた 池には3つの島ができていた

 忽然と樵夫〈木こり〉が現れ 茅(かや)束を大師に献じた 弘法大師はその茅(かや)をもって 三島に弁財天・聖天・吒天の神祠を建てた
樵夫が告げて云う 後方の小高いところが 醫王善逝薬師如来跡である 三十のところまで行くと 石垣と鳥居があり 樵夫はこれが 此処の地主であると云い 去っていった

 弘法大師は すぐに勧請して 永く当地の鎮守とした これが今の咸古神社と伝わる

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

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神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

①本殿

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石川郡 9座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 咸古神社(鍬靫)
[ふ り が な ]かんこかみのやしろ)
[Old Shrine name]Kanko no kamino yashiro)

②相殿〈咸古神社の相殿に明治42年(1909)合祀された 咸古佐備神社(富田林市甘南備)〉

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)河内国 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣))

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)石川郡 9座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 咸古佐備神社
[ふ り が な ]かんこさひかみのやしろ)
[Old Shrine name]Kankosahi no kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

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【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

咸古神社(富田林市龍泉)は 高野山真言宗の寺院「龍泉寺」の鎮守であった

龍泉寺縁起は 推古天皇二年(594)に蘇我馬子が創建したと伝わります

龍泉寺(りゅうせんじ)

龍泉寺(りゅうせんじ)は、推古天皇2年(594年)、仏教興隆のため、蘇我馬子(そがうまこ)が創建した寺院と伝えられている。
寺伝によると、この地に悪龍が住む池があり、里人(さとびと)に害を与えていたので、馬子が呪(じゅ)を誦(しょう)し法を修すると、龍は仏法の威(い)に勝てず飛び去った。しかし、その後付近一帯は水が枯れて寺も里も衰えてしまったが、弘仁14年(823年)正月8日、弘法大師が加持祈誓(かじきせい)すると、法味に感じた龍が再来し、水も豊かになったので、これにちなんで池の3島には弁財天(べんざいてん)、聖天(しょうてん)、吒天(だてん)をそれぞれ祠(まつ)り、牛頭天王(ごずてんのう)を鎮守とした。
天長5年(828年)、淳和天皇(じゅんなてんのう)の命をうけた藤原冬緒(ふじわらふゆいと)が伽藍(がらん)を再興し、本尊を薬師如来(やくしにょらい)として牛頭山龍泉寺医王院の号を賜った。その当時は、堂塔をはじめ23の僧坊を周備していたが、南北朝時代、楠正成(くすのきまさしげ)が龍泉寺山(嶽山 だけやま)に城を設けたため兵火にかかり、ほとんど焼失した。

龍池と伝えられる池は古代庭園(国指定名勝)として貴重で、弘法大師が龍王を祠った井戸は「雨乞井戸(あまごいいど)」といわれ、現在も残っている。また奈良時代の塔の礎石、鎌倉時代の仁王門(重要文化財)、同仁王像(府指定)、南北朝時代の聖徳太子二歳像、同納入品の印仏(府指定)などがあり、昔時(せきじ)を偲(しの)ぶ瓦も多数出土している。

現地案内板より

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『河内名所図会(Kawachi Meisho Zue)』〈享和元年(1801年)刊〉に記される伝承

【抜粋意訳】

牛頭山(ごづさん)龍泉寺王院(りょうせんじいおういん)

龍泉村にあり 古義 真言宗

本尊薬師
 聖徳太子御作 長一尺五寸 日光 月光 十二神将を安す

毘沙門天
 本堂に安す 龍泉寺城守護の尊天なり

鎮守咸古神社 鍬靫
  牛頭天王と称す 本堂の後にあり 延喜式出 例祭 九月九日 当村と甘南備村との生土神なり

不動尊
 本堂に安す 弘法大師の作 長一尺五寸許

韋駄天祠
 本堂の後 西の方にあり

弁財天祠
 西の方池中に鎮座す 祈雨の時 応験あり

それ此寺は 推古天皇二年 蘇我馬子大臣 勅を受く こゝに仏宇を営んとす 然るに 悪龍 池中に棲んで 人民を悩す 馬子 神呪を誦しける事十七ヶ日 悪龍 威験に恐れて 此地を飛去る
此時 水涸るゝ事十余町  こゝに梵刹を建て 十二願主を架して 郡類を利せんとす 厥后 次第に水脈乏しく 護する人なく 空く荒廃す
弘仁十四年正月八日 弘法大師こゝに来り 伽藍の荒蕪を歎き 善女龍王を祭  弁財天を勧請し 龍池を埋て精舎を再営し給ふ 於茲
淳和帝 勅して 正三位中納言冬緒卿を奉行とし 勅願寺となりぬ 自爾 密風域内に潤ふて 再び宗儀繁栄す 善女 弁天の橋の辺には 龍燈かゝやき 宝算万歳を祈り 日々に六種の供をまし 甲乙を二塔に告て 月々に両部の法を修す 瑞歯肥て甘露の味をまし 鳥は馴て密呪を誦す 堂塔 山門 鎮守神祠 宝庫には大師書造の経疏 仏像多し 子院 廿五宇に逮べり 今に 大師の古蹟を御住坊といふ影堂あり 真如法親王 此室ををとづれ給ひしかば

 かくはかり達磨をしれる君なれば陀多謁当まてはいたる也けり 弘法大師

一盤石あり 霊水 常に其上に涌上る 其したに八角の井筒あり 大師 八龍に標して 手づからこれを作り給ふ 旱天に雨を祷るに験あり ある時 当山の本尊に 黄門定家卿立願ありし時

 十あまり二つのちかひきよくしてみかける玉のひかりをそしる 定家卿

 當山の寺記は むかしより侍りて 其筆は正三位資順卿 画は中務権大輔康致朝臣とぞ云伝へ侍る

咸古佐備神社
 甘南備村にあり この地の生土神とす

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス『河内名所図会』選者:秋里籬島/画家:丹羽桃渓[数量]6冊[書誌事項]刊本 ,享和01年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003102&ID=M2018050217115928156&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『河内名所図会』選者:秋里籬島/画家:丹羽桃渓[数量]6冊[書誌事項]刊本 ,享和01年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003102&ID=M2018050217115928156&TYPE=&NO=

国立公文書館デジタルアーカイブス『河内名所図会』選者:秋里籬島/画家:丹羽桃渓[数量]6冊[書誌事項]刊本 ,享和01年[旧蔵者]内務省https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000003102&ID=M2018050217115928156&TYPE=&NO=

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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

近鉄長野線 河内長野駅からR310号経由で龍泉寺を目指します 約4.6km 車10分程度

龍泉寺に到着

寺の本堂の奥に 咸古神社が鎮座します

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龍泉寺の参道を進むと 仁王門があり くぐり抜けます

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寺の境内龍泉寺庭園に入ると

 弘仁14年(823)1月8日に空海(弘法大師)が この地を訪れ 加持祈誓(かじきせい)すると 法味に感じた龍が再来し 水が豊かになり 池の中に3つの小島ができた
空海(弘法大師)は これにちなんで池の3島には弁財天(べんざいてん)聖天(しょうてん)吒天(だてん)をそれぞれ祠(まつ)り 牛頭天王(ごずてんのう)を鎮守とした とする地となります

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池越しに 一礼をします

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大日如来堂にて 礼拝

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本堂の横を抜けて 奥に進むと
社号標゛式内 咸古神社゛と朱色の両部鳥居が建ち

咸古神社(富田林市龍泉)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり 境内に入ります

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小石の敷き詰められた境内には 小さな禊石橋があり
正面に社殿 左手に手水舎があります

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清めます

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後方の小高いところが 醫王善逝薬師如来跡である゛と伝わる場所

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拝殿にすすみます
扁額には゛式内 咸古神社゛と記されています

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御神紋

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賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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拝殿の奥には 屋根付きの廊下があり 春日造本殿
その向かって左には 一間社春日造の境内社が祀られています

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本殿の向かって右には 石積み? が祀られています

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この 石積み? 祭神はわかりませんが
賽銭箱もあり 賽銭をおさめ お祈りをします

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社殿に一礼をして 参道を戻ります

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神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 咸古神社について 所在は 龍泉寺村 瀧泉寺医王院鎮守とす 今牛頭天王と称す 本堂の後に在す〈現 咸古神社(富田林市龍泉)〉と記しています

式内社 咸古佐備神社について 所在は 廿南備村に在す 祭神は 咸古郷に佐備神を祀ったものか また咸古佐備の両神を合せまったものかは定かではない と記しています〈現 咸古神社の相殿に明治42年(1909)合祀された 咸古佐備神社(富田林市甘南備)

【抜粋意訳】

咸古神社 鍬靭

咸古は己牟久と訓べし、和名鈔、郷名部 紺口、

○祭神詳ならず
○龍泉寺村 瀧泉寺医王院鎮守とす、今牛頭天王と称す、本堂の後に在す、河内名図会○同志に、龍泉村とのみ云るは疎也、
例祭9月9日、

姓氏録、河内皇別 紺口縣主、神八井耳命之後也、
○日本紀、仁徳天皇十四年、是歳、堀大溝於感玖、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

【抜粋意訳】

咸古佐備神社

咸古佐備は前に同じ
祭神なら
〇廿南備村に在す、河内志、同名所図會、

連胤云、當社は咸古郷に佐備神を祭れるか、また咸古佐備の両神を合せ祭れるか、考る由縁なし、後勘をまつもの也、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 咸古神社について 所在は 紺口郷龍泉寺にあり〈現 咸古神社(富田林市龍泉)〉と記しています

式内社 咸古佐備神社について 所在は 佐備の南廿南備村にあり と記しています〈現 咸古神社の相殿に明治42年(1909)合祀された 咸古佐備神社(富田林市甘南備)

【抜粋意訳】

咸古(コムクコノ)神社

 紺口郷龍泉寺にあり、河内志、河内國圖、
盖 紺口縣主の祖神 神八井耳命を祭る、新撰姓氏録
醍醐天皇 延喜の制、祈年祭 鍬靭を加奉りき、延喜式
凡六月九月の九日を以て祭を行ふ、神社覈録、河内式社細記

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

【抜粋意訳】

咸古佐備神社

今 佐備の南廿南備村にあり、河内志、河内図會、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 咸古神社について 所在は 龍泉村 字堂間坊 八坂大明神と称する〈現 咸古神社(富田林市龍泉)〉と記しています

式内社 咸古佐備神社について 所在は 甘南備村 字高田 八坂大明神と称すると記しています〈現 咸古神社の相殿に明治42年(1909)合祀された 咸古佐備神社(富田林市甘南備)

【抜粋意訳】

咸古(コムクノ)神社 鍬靭

祭神 神八井耳(カムヤヰミミノ)

今按 祭神 俗に進乃男神と云るは八坂大明神と称するによれるものにて信じがたし 新撰姓氏録 紺口縣主(コムクチアガタヌシハ)志紀ノ縣主同祖 神八井耳ノ命ノ之後也とみえ 本国に志紀郡あり 和名鈔本郡に紺口郷あるによるときは神八井耳命を祭れること明けし 故今之を訂す

祭日 九月九日
社格 村社

所在 龍泉村 字堂間坊(南河内郡東條村大字龍泉字上ノ宮)

【抜粋意訳】

咸古佐備(コムフサビノ)神社 稱 八坂大明神

祭神 天太玉命
祭日 七月三日 十月二十九日
社格 村社
所在 甘南備村 字高田(南河内郡東條村大字甘南備字馬田)

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

咸古神社(富田林市龍泉) (hai)」(90度のお辞儀)

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河内国 式内社 113座(大23座(並月次新嘗・就中8座預相嘗)・小90座(並官幣)について に戻る

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行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

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對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

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