垣田神社(かきたじんじゃ)は 大同2年(807)に垣田神社の元宮〈國玉稲荷神社〉から遷座しました 昌泰2年(899)勅使 藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれて 垣田大神の勅号を贈られたと云われます 『延喜式神名帳927 AD.』所載 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
垣田神社(Kakita shrine)
【通称名(Common name)】
・垣田の宮(かきたのみや)
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県小野市小田町1649
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》底筒男命(そこつつをのみこと)
《配》中筒男命(なかつつをのみこと)
表筒男命(うわつつをのみこと)
神功皇后(じんぐうこうごう)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
・交通安全の神、清祓の神、安産の神
・最近では神功皇后の御神徳にあやかり必勝の神
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由 緒
往昔、小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られた。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわす。
平城天皇の大同2年(807)、今の地に遷座。
当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は、平安時代末期の頃であろう。
昌泰2年(899)に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれている。
播磨国の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃である。明治6年(1873)郷社に列せられる。
大正12年(1923)、県社に昇格。
【由 緒 (History)】
由緒
当社は、往昔、現在の小野市小田町字神ノ木、つまり小田を貫流する東条川の川北の山の中腹の高台地に祭られていました。今、垣田神社の元宮といわれている稲荷社のあるところ附近で、神ノ木という地名が神聖な場所であったことをあらわしています。もちろん、この地方、つまり東条川流域に人々が住みついたのも、この神ノ木の垣田の神を齋きまつる氏子の人々が最初で、当然に、この東条の町や村はここから別れていった氏子らが開拓したものなのです。そのことを裏付けるかのように、氏子区域内から弥生時代遺跡が三箇所発掘されています。したがって神ノ木は東条地方の発祥の地といってもよいでしょう。然も神ノ木の山麓は古古墳群が続き、南の小野市中谷町の愛宕山古墳、東の東条町松沢の横山古墳、西の小野市船木町芝打野一帯から北山を経て中番町東野に展開する船木古墳群の、ちょうど要の位置にあります。その上、この神ノ木は四方を眺望する高台で高地性遺跡的性格をもそなえているため、神社の創建は弥生時代初期か、あるいは縄文時代後期あたりまでさかのぼるのではなかろうかといわれています。
また、垣田神社の祭祀圏内に住吉神と密接な関係をもつ船木族の住みついた船木村や金属技術集団の菅田族の氏神である式内菅田神社をもつことも歴史の古さを物語っています。
そして、現在の小野市小田町字住社に奉遷されたのが平城天皇の大同2年9月で、おそらく、東条川の水流の固定化により、小田という地名がしめすように、湿地帯が沢山の水田にかわり農業の発展を促したため、氏子の人々の住居も高台の神ノ木から沢や谷の附近に移転したからではないでしょうか。
当社の神宮寺だといわれている西の小田町字坂口の西福寺(現在廃寺)や東の松沢町字大深谷の東福寺の建立は平安時代末期の頃でしょう。
その平安の初期の醍醐天皇の昌泰2年に、勅使藤原公方を御差遣になり奉幣の儀がおこなわれ、その時、垣田大神の勅号を贈られたといわれています。
つまり延喜元年に神功皇后を配祀したため、垣田住吉大神ととなえられていたのを勅号の垣田大神と称するようになったのです。
播磨國の名社として延喜式の神名帳に記載され、勅使参向の官社に加列されたのもこの頃です。
また当地方(加東郡、加西郡、美嚢郡と多紀郡、多可郡、加古郡、印南郡、神崎郡、明石郡の一部)が、大阪の住吉大社の神領に組み込まれた際、東条地方の管理を依託されたためでしょうか、一時期、東条別宮と称えていたといわれています。
今でも別宮さんという呼び名が残っています。字の住社もこの住吉神を祀り、住吉大社との深いかかわりをしめすものでしょう。
戦国時代の天正7年、三木城合戦の際、その支城の小田城の兵乱により社殿ならびに古文書、宝物を悉く焼失、このため羽柴秀吉は託状文を書き神田2段余を奉納しています。
江戸時代は小田の地が姫路藩の領地になったため城主の酒井家は、姫路藩内の名社として定紋付高張提灯一双を奉献し、加古川の渡場に垣田神社の社名を刻した標柱を建て、藩主交替のたびに名代を差遣して代拝させました。
明治6年11月郷社に列し、大正12年5月県社に昇格しました。
当社は昔から交通安全の神、清祓の神、安産の神として氏子はもとより遠近の信者の尊崇をうけていますが、最近では、神功皇后の御神徳にあやかり必勝の神として受験生やスポーツマンの信仰をもあつめています。
なお、当社の祭祀を司どる社家の垣田家は神社の草創の古代から今日まで、その運命を共にし、当地方はもとより広く加古川流域で最古の家系を伝えています。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
・社殿〈拝殿〉
・本殿
・能舞台〈拝殿の手前(南側)〉
・手水舎〈参道脇〉
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・六社合殿〈社殿向かって左〉
(・川下神社・春日神社・金刀比羅神社・恵比須神社・秋葉神社)
・川下神社
・春日神社《主》経津主命,武甕槌命,天児屋根命,比咩大神
・金刀比羅神社《主》大物主命
・八坂神社《主》素盞嗚命
・恵比須神社《主》蛭子神
・秋葉神社《主》軻遇突智命
・底津神社《主》中津少童命〈社殿向かって左〉
・宗像神社〈辨天神社〉《主》田心姫命,市杵島姫命,湍津島姫命〈社殿向かって左の池の中〉
・中津神社《主》中津少童命〈本殿の向かって左後ろ 南向き〉
・表津神社《主》表津少童命〈本殿の向かって右後ろ 南向き〉
・八幡神社《主》応神天皇〈本殿向かって右横〉
・大地神社《主》大地主命〈境内東 石畳みの参道あり〉
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
〈垣田神社の旧鎮座地〉大同2年(807)に現在地に遷座(約1200年前)
・國玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陽道 140座…大16(うち預月次新嘗4)・小124
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)播磨国 50座(大7座・小43座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)賀茂郡 8座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 垣田神社
[ふ り が な ](かきたの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Kakita no kamino yashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
式内社 播磨国 賀茂郡 垣田神社(かきたの かみのやしろ)の論社について
・垣田神社(小野市小田町)
・国玉稲荷神社〈神ノ木の宮跡〉 (小野市小田町)〈垣田神社の旧鎮座地〉
・住吉神社〈恒田大明神〉(加東市秋津)
・八雲社の境内社 垣田社(三木市久留美)
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【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
神戸電鉄栗生線 小野駅からR175号経由 北東へ約9.4km 車17分程度
小野市立下東条小学校の南側が 神社の裏手〈北側〉となっていて そこにある駐車場は 小学校専用で 神社の駐車場は南面にありました
最初わからずに 裏手に停めてしまい裏手から境内に入ってしまいました
変だなと 裏手だなと思いながら境内に入ると 石畳みの参道があり 先ずは鳥居まで進みました
鳥居まで進むと 正面に駐車場がありましたので 一度 車に戻り停め直し
社号標には 式内 垣田神社と刻され 鳥居が建ちます
垣田神社(小野市小田町)に参着
一礼をして鳥居をくぐると 先程は気が付きませんでしたが おや? と立ち止まると
狛犬の先で 境内へと下りの階段 僅かですが下り参道です
故に社頭から 社殿を見下ろすような感じで 拝殿の奥の本殿の屋根や千木が良く見えています
参道向かって正面に社殿 右手には能舞台 左手には手水舎があり清めます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します
境内社には 本殿の裏側にも石畳みの参道が敷かれていて それぞれにお詣りが出来ます
社殿に一礼をして 参道を戻ります
鳥居の先には 南南東へと参道が伸びています
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【神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
垣田神社
垣田は 加支多と訓べし
〇祭神 詳ならず
〇賀東郡東條小田村に在す
例祭 九月九日式社記は、加東郡常田村にあり、古跡便覧、其の所しれずと云り、尚考ふべし
類社 和泉國 日根郡 加支田神社
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
神祇志料 巻十八 播磨國 賀茂郡八座 並小
垣田神社
今、加東郡 東條小田村にあり
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 垣田神社の所在について 東條小田村〈現 垣田神社(小野市小田町)〉と記しています
【抜粋意訳】
垣田神社
祭神
底筒男命
中筒男命
表筒男命
神功皇后祭日 九月九日
社格 郷社
所在 東條郡上小田村(加東郡下東條村大字小田)
【原文参照】
『明治神社誌料(Meiji Jinja shiryo)〈明治45年(1912)〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
〇兵庫縣 播磨國 加東郡下東條村大字小田
郷社 垣田神社
祭神
表筒男(ウハツツノヲノ)命
中筒男(ナカツツノヲノ)命
底筒男(ソコツツノヲノ)命
神功皇后(ジングウコウゴウ)創立年代詳ならず、延喜の制、小社に列せられ、播磨鑑に、正一位垣田神社と見ゆ、
神祇志料に云く「垣田神社、今 加東部東條小田村にあり、と
神社覈録に「〇賀東郡東條小田村に在す 播磨式社記は、加東郡常田村にあり、古跡便覧、其の所しれずと云り、尚考ふべし」とあり、又同書に祭神詳ならずと見ゆ、
明治七年二月郷社に列す、社殿は本殿、幣殿、拝殿を備へ、境内は826坪の官有地第一種と三十四年中編入の五十一坪の民有地より成る、・・・・・境内神社 表津神社 中津神社 底津神社 金刀比羅神社 八幡神社 辨天神社
【原文参照】
垣田神社(小野市小田町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)