齋神社(いつきじんじゃ)は 聖武天皇 天平二年(730)創立 境内摂社 楯縫神社と共に 延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社です 伝説には 神代の昔 但馬は泥海だった 但馬五社の神様が養父明神を遣わし 斎神社に坐す彦狭知命に泥海を切り開くことを願い 豊かな大地が生まれたと伝わります
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
齋神社(Itsuki shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
兵庫県養父市長野字東山265
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》天太玉命(あめのふとだまのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狹知命(ひこさしりのみこと)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
斎(いつき)神社
祭神 太玉命(あまのふとだまのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狹知命(ひこさしりのみこと)由緒 聖武天皇の天平二年(西暦七三〇年)の創立と伝えられ、足利時代 山名氏の崇敬を受け、江戸時代は生野代官の信仰を得たり。
お走り祭りの伝説
お走り祭りは、養父神社の神輿が四月十五日・十六日の二日間「ハツトウ、ヨゴザルカ」と掛け声を掛けあいながら、斎神社までの往復四十キロの道のりを練り歩く祭りである。神輿は重さ百五十キロもあり、途中川渡御をしながら進む奇祭である。斎神社拝殿に奉納されている絵馬から、江戸時代の祭りの様子がうかがえる。
この祭りの由来については「神代の昔、円山川下流地域は、泥海になっておりなんとかこの地が豊かな農地にならないかと但馬五社の神様が寄られ、相談されたところ。土木の神様である斎明神にお願いしてはということになり、その名代として養父大明神が鮭の背にのって川を遡り、ちきり渕からお願いされた。斎明神は快く引き受けられ、早速川を下られ、円山川河口の瀬戸を切り開かれると、泥海はたちまち引いて肥沃な土地が現れた。
喜ばれた五社の神様は、再び養父大明神を名代として旧暦師走(十二月)の未の日と申の日にかけてお礼参りされた」のが、お走り祭りの始まりと伝えられている。なお、明治十年より四月十五日・十六日に祭日が変更された。社頭の案内板より
お走りまつり〈保存会のWebサイト〉
https://www.yabu-jinja.jp/ohashiri/
【由 緒 (History)】
由緒
聖武天皇の天平2年の創立と伝へ 現在地より300米ばかり隔てた丘陵に鎮座せり。鎌倉時代神田1反歩を有し、足利時代、山名氏の崇敬を受け、江戸時代、生野代官の信仰を得たり。明治6年10月村社に列し、昭和10年10月郷社に昇格せり。毎年4月15、16日の両日、但馬開発にかかわる伝説として、16粁離れた養父神社より神輿の渡御あり。
※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
齋(いつき)神社
鎮座地 養父市長野
御祭神
太玉命(あまのふとだまのみこと)
手置帆負命(たおきほおいのみこと)
彦狹知命(ひこさしりのみこと)「聖武天皇 天平二年 (西暦七三〇年 )の創立と伝へ 現在地より三町ばかり隔てて丘陵に鎮座せり 延喜式の制 小社に列し 永承十六年現在地に移転せり 鎌倉時代 神田一反歩を有し 足利時代 山名氏の崇敬を受け 江戸時代 生野代官の信仰を得たり 明治六年十月村社に列し 昭和十年十月郷社に昇格せり」とある。
倒壊した本殿は、昭和十二年に郷社への昇格を機に新築されたもので「一間社流造」の形式で、大きな屋根には二対の千木と四本の鰹木があがっていました。材料は棒が中心で、一部に銀杏や檜が使われていました。豪華に作られた彫刻は、姫路市飾磨区の三代目松本義廣 (明治三十八年~昭和三十三年 )の作品で素戔嗚尊の「八岐大蛇退治」や天照大神の「天の岩屋戸」の場面、龍や麒麟などの多数の彫刻が刻まれていました。
旧本殿は宝暦十年に建てられた立派なもので、摂社楯縫神社として保存されています。この建物は奇跡的に無傷で残りました。
斎神社復興委員会ホームページ http://itsukijinja .jp/
拝殿に置かれたハガキより
拝殿に置かれたハガキの裏面
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・齋神社 本殿
※2009/8/9北部豪雨による土砂崩れの為 斎神社の拝殿・本殿が倒壊しました
その後再建されたものです
詳しくは 養父市役所「まちの文化財(59) 斎神社の豪雨災害」より
https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/1/1966.html
・齋神社 拝殿
拝殿再建に伴い 倒壊前の社殿の彫刻や絵馬
斎神社の彫刻
向拝の龍
斎神社の彫刻は、3代目松本義廣(明治 38年〜昭和33年)が31歳の時の代表作です。姫路飾磨の彫刻師で、祭礼で使う屋台彫刻の名工です。飾磨彫刻の特徴は、物語のある丁寧で精巧な凝った作りであることです。向拝上部の龍は精巧な中にも大胆で力強く、勇壮な彫りとなっています。
脇障子
八岐大蛇退治(やまたのおろらたいじ)
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国簸川(ひかわ)のほとりで八岐大蛇を退治する様子です。龍は雲の中を飛び、しっぽには草薙剣を巻いています。素戔嗚尊は岩の上に立って、酒を入れた壺を前に剣を持って睨んでいます。龍は素戔嗚尊に向かって大きな口を開いて威嚇します。左上には櫛名田姫(くしなだひめ)の後ろ姿があります。
天の岩屋戸(あまゆいわやと)
天照大神は、高天原(たかまがはら)での素戔嗚尊の乱暴狼藉に怒り、天の岩屋戸に身を隠しました。このため世界から光が消え、暗闇に包まれました。中央上部の注連縄を張った岩屋戸の左側には天細女命(あまのうずめのみこと)が鈴を持って賑やかに踊り、右側から手刀雄(たぢからお)神が岩戸を開けて大神を連れ出しています。太刀を持った大神が現れ、再び世界に光が戻りました。中央には朝を告げる鶏がいます。
案内文より
〈社殿の向かって左側に5社の境内社〉
中央が 〈式内論社〉楯縫神社 向かって左2社 向かって右に2社
・向かって右の2社 境内社 不明・境内社 琴平社
・境内攝社 〈式内論社〉楯縫神社《主》彦狹知命(ひこさしりのみこと)
延喜式内社 但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社
登録有形文化財
建造物1 斎神社摂社 楯縫神社本殿 1棟
養父市長野集落西方の五月山南麓に鎮座する斎神社境内の摂社。
宝暦10年(1760)に斎神社本殿として建立されたが、昭和12年に現在の本殿が新築されたことに伴い、摂社裾縫神社として境内西側に移築された。
楯縫神社本殿は、木造、一間社流造、銅板葺である。正面に軒唐破風をそなえ、墓股、脇障子等に彫刻を多用する。
棟札により、宝暦10年、播磨三木の黒田源左衛門重永等が大工を勤めたことが判明している。
地域の歴史や文化の特徴を示すものとして注目され、登録基準の(一)県土の歴史的景観に寄与しているものに該当する。
向かって左2社 ・招魂社・歳徳金社
・招魂社《主》護国の英霊
・歳徳金社
・参道 狛犬
どちらの狛犬も阿吽の吽形のみ
・二の鳥居
斎大明神と書かれた扁額
・一の鳥居
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式巻7 神祇七 践祚大嘗祭』に記される伝承
践祚大嘗会で用いる神楯4枚を 丹波国の楯縫氏が造ることを定めています
【抜粋意訳】
延喜式巻七 神祇七 大嘗祭式 神楯戟条
大嘗宮の南北門には神楯4枚・戟8竿を立てること
その寸法は本条規定のとおり
これは左右衛門府が9月上旬に太政官に申請し
兵庫寮をして作製し備えよ なお 楯は丹波国の楯縫氏 戟は紀伊国の忌部氏が作製し 祭祀終了後には衛門府に納めよ又 朱雀門・應天門・会昌門に立てる大楯6枚・戟12竿も 同じく兵庫寮が修理すること
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
齋神社と境内攝社 楯縫神社の両方が 式内論社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)山陰道 560座…大37(うち預月次新嘗1)・小523[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)但馬国 131座(大18座・小113座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)養父郡 30座(大3座・小27座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 楯縫神社
[ふ り が な ](たてぬひの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Tatenuhi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
楯縫神社の祭神 彦狹知命(ひこさちのみこと/ひこさしりのみこと)について
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
『日本書紀』では 彦狹知命は 紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)〈楯縫連の祖神〉とされ
彦狭知神は 盾を作る 作盾者(たてぬい)と記されます
【抜粋意訳】
巻第二 神代下 第九段 第二 一書
時に
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)が 大物主神(おほものぬしのかみ)に勅された
「汝(なんじ)が もし国神(くにつかみ)を妻とするなら 吾(われ)は汝(なんじ)が まだ疏心(うときこころ)〈揺れ動く心〉があると思う それ故 我が娘の三穂津姫(みほつひめ)を 汝に娶あわせ 妻とさせたい 八十万神(やおよろずのかみ)を率いて 永く皇孫(すめみま)を守り奉りなさい」そして 還り降らせられた(地上に戻された)紀国(きのくに)の忌部(いんべの)遠祖(とおつおや)
手置帆負神(たおきほおいのかみ)を 笠を作る「作笠者(カサヌイ)」とされた
彦狭知神(ひこさちのかみ)を 盾を作る「作盾者(タテヌイ)」とされた
天目一箇神(あまめひとつかのかみ)を 「作金者(カナダクミ)」〈鍛冶〉とされた
天日鷲神(あまのひわしのかみ)を 作木綿者(ユウツクリ)とされた
櫛明玉神(くしあかるたまのかみ)を 作玉者(タマツクリ)とされた太玉命(ふとたまのみこと)を 弱々しい肩に太手繦(フトタスキ)をかけて 「御手代(ミテシロ)」とされた
この神を祀るのは これが始まりです天児屋命(あめのこやねのみこと)は 神事を司る宗源者(モト)なり
だから 太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)をして神事に参加された高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は勅して曰く
「吾(われ)は 天津神籬(あまつひもろぎ)と天津磐境(あまついわさか)を樹(たてて)吾孫(すめみま)に斎奉(いつきたてまつる)
天兒屋命と太玉命は 天津神籬(あまつひもろぎ)をもって葦原中国(あしはらなかつくに)に降りて 吾孫(すめみま)を斎奉(いつきたてまつり)なさい」そして 二神をそえて従わせ遣わし 天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を降らせられた
【原文参照】
『古語拾遺(kogojui)〈大同2年(807年)〉』に記される伝承
神代段は 父神 手置帆負神と共に 天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し 御笠・矛・盾を制作したと記され
神武天皇段にも 再び父神と共に 太玉命の孫・天富命に率いられて山から木を伐採し 神武天皇の正殿を造営し また その末裔は紀伊国名草郡の御木・麁香二郷にいると記しています
【抜粋意訳】
古語拾遺 一巻 神代段
一(ひと)は聞くところによると 天地の初め伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の二神は共に夫婦と成り 大八州国(オオヤシマノクニ)及び山川草木を生み 次に生まれたのは 日の神と月の神 その後に 素戔嗚神を生まれた 素戔嗚神は常に激しく泣き喚いていた
故に 人民(ひとぐさ)を夭折(あかにさま)にし 青山は枯山と成り 父母の二神は 勅(みことのり)して曰く 汝の行いは無道(あるべきみち)ではない 早く根の国に退去しなさい」天地が別れ 初めに天で生まれた神の名は 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
次に 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)[古語では 多賀美武須比 これは皇親神留伎命(スメラカムツカミルキノミコト)]
次に 神皇産霊神(カミムスビノカミ)[これは 皇親神留彌命(スメラカムツカミルミノミコト)で この神の子の天児屋命(アメノコヤノミコト)は中臣朝臣(ナカトミノアソン)の祖先]高皇産霊神が生んだ娘の名は 栲幡千千姫命(タクハタチチヒメノミコト)[天祖 天津彦尊の母なり]
其の男子の名は 天忍日命(アメノオシヒノミコト)[大伴宿禰の先祖]
又 男子の名は 天太玉命(アメノフトタマノミコト)[斎部宿禰の先祖である。]太玉命の率いる神の名は 天日鷲命(アメノヒワシノミコト)[阿波(アワ)の国の忌部(インベ)の先祖]
手置帆負命(テオキホオイノミコト)[讃岐国の忌部の先祖]
彦狭知命(ヒコサシリノミコト)[紀伊国の忌部の先祖]
櫛明玉命(クシアカルタマノミコト)[出雲国の玉作りの先祖]
天目一箇命(アメノマヒトツノミコト)[筑紫・伊勢の両国の忌部の先祖]
【原文参照】
【抜粋意訳】
高皇産霊の神は 八十萬(ヤヲヨロズ)の神を天八湍川(アメノヤスカワ)の河原に集め 今後の方策を議論された
思兼神(オモイノカネノカミ)が 深謀遠慮して「太玉神(フトタマノカミ)に諸部神(トモノオノカミ)を率いて 和幣(ニギテ)を作らせ
石凝姥神(イシコリドメノカミ)[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で 作鏡(カガミツクリ)の遠祖]に 天香山(アメノカグヤマ)の銅(アカガネ)を取り 日像(ヒカタ)の鏡を鋳(い)させ
長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢国の麻績(オミ)の先祖 今の世で衣服の事を白羽と言うのはこの由縁]に麻を植え 青和幣(アオニキテ)[古語は爾伎弖(ニキテ)]
天日鷲神(アメノヒワシノカミ)と津咋見神(ツクヒミノカミ)とに 殻(カヂ)の木を植えせ 白和幣(シロニキテ) [是は木綿(ユフ) その前の二つのもの(麻・殻)は一夜で生い茂りました]
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖]に 文布(シツ)を織らせ 天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせ 所謂、和衣(ニギタエ)[古語は 爾伎多倍(ニギタヘ)と言う]
櫛明玉神(クシアカルタマノカミ)に 八坂瓊五百箇御統玉(ヤサカニノイホツミスマルノタマ)を作らせ
手置帆負(タオキホオヒ)と彦狹知(ヒコサシリ)の二柱の神に 天御量(アメノミハカリ) [大小の量り雑器などの名]を使って 大峡・小峡の木を伐り瑞殿(ミヅノミアラカ)を造り[古語は美豆能美阿良可(ミズノミアラカ)と言う]また 御笠と矛盾を作らせました
天目一箇神(アマノメヒトツカミ)に 雑(クサグサ)の刀(タチ)・斧(オノ)、また、鐡(クロガネ)の鐸(サナキ)[古語は佐那伎(サナギ)と言う]を作らせ それらの物が揃ったら 天香山の五百箇真賢木(イホツマサカキ)[古語は 佐禰居自能禰箇自(サネコジノネコジ)と言う]を堀って
上の枝には玉を掛け 中の枝には鏡を掛け 下の枝には青和幣・白和幣を掛け 太玉命に捧げ持たせて讃えさせ
また 天児屋命(アメノコヤネノミコト)に命じて 相共に祈祷させ また天鈿女命(アメノウズメノミコト)[古語は天乃於須女(アメノオスメ)と言う・・・
・・・
【原文参照】
【抜粋意訳】
神武天皇の段
天富命(アメトミノミコト)[太玉命の孫] は 手置帆負(タオキホオイ)と彦狹知(ヒコサシリ)の2柱の神の孫を率いて 斎斧(イミオノ)・斎鉏(イミスキ)を持ち 始めて山の木を採り 正殿(ミアラカ)を建てた 所謂 底津磐根(ソコツイワネ)に(ミヤハシラ)を建てて 高天原に届くほど搏風(チギ)は高く 皇孫命(スメミマノミコト)の御殿を作り 奉りました]
その末裔は 今は紀伊国の名草郡の御木(ミキ)・麁香(アラカ)の二郷に居ます[古語は正殿を麁香(アラカ)と言う]
木材を採取する斎部の居る所を 御木(ミキ)と言い 殿を造る斎部の居る所を麁香(アラカ)と言うのはその證です
【原文参照】
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『延喜式927 AD.』に所載 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)の論社について
延喜式内社 楯縫神社には いずれも 彦狹知命を祀るとする伝承があります 下記に現在の論社を記します
常陸國 信太郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(稲敷郡美浦村木原)
丹波國 氷上郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(丹波市春日町長王ハチマン山)
但馬國 養父郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(養父市建屋字宮山)
・齋神社(養父市長野字東山)
・楯縫神社〈齋神社の境内摂社〉(養父市長野字東山)
但馬國 氣多郡 楯縫神社(たてぬひの かみのやしろ)
・楯縫神社(豊岡市日高町鶴岡字保木)
丹波國 多紀郡 川内多多奴比神社二座(かはちたたぬひの かみのやしろ ふたくら)
・川内多々奴比神社(丹波篠山市下板井)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
JR播但線 竹田駅から青倉駅経由 約14.7km 車18分程度
齋神社(養父市長野字東山)に参着
一礼をして 鳥居をくぐり石段を上がると すぐに両部鳥居の二の鳥居があり 石段の正面に手水舎があります
参道を右に折れると 境内に出て 再建された新しい拝殿があります
拝殿の奥には やはり再建された本殿
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
拝殿の向かって左側には 境内社が5社並びます
中央の大きな本殿は 式内論社となっている境内攝社 楯縫神社です
両脇に2社ずつ
社殿に一礼をして 参道を戻ります
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 楯縫神社について 所在 祭神は不明と記しています
【抜粋意訳】
楯縫神社
楯縫は 多天奴比と訓べし
〇祭神 在所等詳ならず
〇舊事紀、〔神祇本紀〕復令に彦狹知神爲に作盾者、
〇式四十九、〔兵庫〕践祚大嘗會、新造神盾四枚、丹波國楯縫氏造、云云、
〇當國多紀郡 川内多々奴比神社もあり
類社
常陸國信夫郡 楯縫神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 楯縫神社について 所在は゛今 長野村にあり、斎明神といふ、゛〈現 齋神社(養父市長野字東山)〉と記しています
【抜粋意訳】
楯縫(タテヌヒノ)神社
今 長野村にあり、斎明神といふ、〔豊岡縣式社取調帳、神社道志流倍〕
盖 彦狹知命を祀る、〔日本書紀、土人傳説〕
凡 十一月八日祭を行ふ、〔豊岡縣式社取調帳〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 楯縫神社について 所在は゛今按゛〈現在 検討中〉と記しています
【抜粋意訳】
楯縫神社
祭神 彦狹知命 稱 齋神社
今按 この神の楯縫に預りし事は 古語拾遣にみえて 既に丹波多紀郡 多々奴比神社の條に記せるが如し さて丹波に この社あるは楯縫氏の氏神として祭れるものなるべく 其氏人の彼國に住る事は 大嘗祭式に楯縫氏造之とあるが如し かかれば隣國なる此國にも其氏人の來り住て 其祖神を祭れるなるべし
祭日 十一月八日
社格所在 今按 (本文になし)
【原文参照】
齋神社(養父市長野字東山)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)
写真45