生国魂神社(いくくにたまじんじゃ)は 旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座『延喜式神名帳(927年編纂)』に所載 大和国 髙市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)(むさにます かみのやしろ)の論社とされます
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
生國魂神社(Ikukunitama shrine)
[通称名(Common name)]
【鎮座地 (Location) 】
奈良県橿原市大久保31-56
[地 図 (Google Map)]
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》生国魂神(いくくにたまのかみ)
咲国魂神(さきくにたまのかみ)
【御神格 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていたが 大正9年(1920)現在地に遷座
【由 緒 (History)】
生國魂神社
祭神は生国魂神と咲国魂神で旧村社。
創祀について『高市郡神社誌』は 当社棟札に「寛文八歳(1668)九月吉日」の銘があると記しているが、遅くとも十七世紀中葉ごろ概に創建されていたことになる。
しかも 当初は 畝傍山の北麓に近い中腹の字垣内207番地にあったが、大正六年から七年にかけて集落の大移転に伴い、同九年十月十日現在地に遷座したという。
二柱の祭神は 天疎降臨の時従った三十二紳の中の神で、『古語拾遺』では、大八州の霊とされ、八十島を領く神として神武天皇の代、鎮魂の八柱神と共に祀られ、高台より大地を見下ろす位置に坐して、国鎮の神とあがめられた。
あたかも大阪の生国魂神と同じく、もと畝傍山山腹から西方大和の平地を鎮める神として祀られたに違いない。
例祭は十月十二日。
『奈良県史 第5巻 神社 1989』より抜粋
【境内社 (Other deities within the precincts)】
・稲荷神社
・橿原神宮遥拝所
【境外社 (Related shrines outside the precincts)】
旧鎮座地《丸山宮址》
旧鎮座地《丸山宮址》は 畝傍山の北麓に近い中腹〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉に鎮座されていた
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています
『延喜式(Engishiki)』巻1 四時祭上 六月祭十二月准 月次祭
月次祭(つきなみのまつり)『広辞苑』(1983)
「古代から毎年陰暦六月・十二月の十一日に神祇官で行われた年中行事。伊勢神宮を初め三〇四座の祭神に幣帛を奉り、天皇の福祉と国家の静謐とを祈請した」
大社の神304座に幣帛を奉り 場所は198ヶ所と記しています
月次祭(つきなみのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
坐別に絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両・・・・云々
【原文参照】
『延喜式(Engishiki)』巻2 四時祭下 新嘗祭
新嘗祭(にいなめのまつり)は
「新」は新穀を「嘗」はお召し上がりいただくを意味する 収穫された新穀を神に奉り その恵みに感謝し 国家安泰 国民の繁栄を祈る祭り
大社の神304座で 月次祭(つきなみのまつり)に准じて行われる
春には祈年祭で豊作を祈り 秋には新嘗祭で収穫に感謝する
【抜粋意訳】
新嘗祭(にいなめのまつり)
奉(たてまつる)幣(みてぐら)を案上に 神三百四座 並 大社 一百九十八所
座別に 絹5尺 五色の薄絹 各1尺 倭文1尺 木綿2両 麻5両四座置1束 八座(やくら)置1束 盾(たて)1枚 槍鉾(やりほこ)1竿
社別に庸布1丈4尺 裏葉薦(つつむはこも)5尺前一百六座
座別に 幣物准社の法に伹 除く 庸布を
右中 卯の日に於いて この官(つかさ)の斎院に官人 行事を諸司不に供奉る
伹 頒幣 及 造 供神物を料度 中臣祝詞(なかとみののりと)は 准に月次祭(つきなみのまつり)に
【原文参照】
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載
(Engishiki Jimmeicho)This record was completed in December 927 AD.
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)畿内 658座…大(預月次新嘗)231(うち預相嘗71)・小427
[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)大和国 286座(大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣))
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)髙市郡 54座(大33座・小21座)
[名神大 大 小] 式内大社
[旧 神社 名称 ] 牟佐坐神社(大月次新嘗)
[ふ り が な ](むさにます かみのやしろ)(だい つきなみ にいなめ)
[Old Shrine name](Musa nimasu kamino yashiro)(Dai Tsukunami Niiname)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(Points selected by Japanese Otaku)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
壬申(じんしん)の乱(673年)について
大海人皇子(おおあまのみこ)
『日本書紀』によるプロフィール
・ のちの天武天皇
・ 生まれながらに容姿端麗(ようしたんれい)、武術に優れていた
・ 『日本書紀』と『古事記』の編纂(へんさん)を命じた
・ 律令制の礎(いしずえ)を築いた「白村江(はくすきのえ)の戦い」の後、都は近江(おうみ)へ。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は天智天皇として即位し絶大な権力を持ちました。しかし、その後、病に倒れてしまい皇位継承者として有力だった弟・大海人皇子と子・大友皇子の間で跡継ぎ争いが起こりました。これが古代最大の内乱と言われる「壬申の乱」です。
大海人皇子は容姿端麗で、武術にも優れていたため、天智天皇も大海人皇子に自分の跡を継ぐように伝えていました。しかし、大友皇子を次の天皇にしようという動きがあることを知った大海人皇子は、天智天皇の言葉を疑い、病気を理由に辞退します。そして、皇位を引き継ぐ意志がないことを示すため、出家して吉野へと向かいました。天智天皇の崩御後、政権を手にした大友皇子は天智天皇の陵(みささぎ)(お墓)を造ると言いながら、農民に武器を持たせ、吉野への道のあちこちに監視を置きました。
この動きを知った大海人皇子は立ち向かうことを決意します。吉野を出て地方の豪族を味方につけながら兵力を強化し、各地で大友皇子との戦いを繰り広げました。戦いは現在の岐阜県にまで及びましたが、近江の瀬田川(せたがわ)での決戦を制して大海人皇子が勝利し、飛鳥の都(飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや))で天武天皇として即位します。
奈良県庁広報広聴課公式HP https://www.pref.nara.jp/49040.htm
{県民だより奈良 平成30年1月号「歴史体感日本書紀」}より
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天武天皇 元年(673)壬申の乱の時 三神の神託について
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
『日本書紀〈養老4年(720)編纂〉』に記される
天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託は
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
➂村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
“三神の神託”の現在の論社について
①高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)
《式内社》大和國高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社(大月次新嘗)
論社 河俣神社(かわまたじんじゃ)
・河俣神社(橿原市雲梯町)
➁身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)
《式内社》大和國高市郡 牟佐坐神社(大月次新嘗)
論社 牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)
論社 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
・牟佐坐神社(橿原市見瀬町)
・生國魂神社(橿原市大久保町)
➂村屋神(むらやのかみ)
《式内社》大和國城下郡 村屋坐弥富都比賣神社(大月次相嘗新嘗)
論社 村屋坐彌冨都比賣神社(むらやにますみふつひめじんじゃ)
・村屋坐彌冨都比賣神社(田原本町蔵堂)
・村屋神社(田原本町蔵堂)〈村屋坐彌冨都比賣神社境内摂社〉
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生国魂神社と神武天皇について
生國魂神社(橿原市大久保町)に伝わるのは
当初は 畝傍山の北麓に近い中腹の字垣内207番地〈こちらが本来の神武天皇陵であるかもとの説あり〉にあったが 大正六年から七年にかけて集落の大移転に伴い 同九年十月十日現在地に遷座したという
『奈良県史 第5巻 神社 1989』には
「高台より大地を見下ろす位置に坐して 国鎮の神とあがめられた。
あたかも大阪の生国魂神と同じく、もと畝傍山山腹から西方大和の平地を鎮める神として祀られたに違いない。」と記しています
御祭神の二神〈生國魂神・咲國魂神〉は 神武天皇の御魂であるのかもしれない
大阪難波の生国魂神社〈延喜式内 名神大社〉の社伝には
社伝によれば「初代 神武天皇が 東征の際 摂津国難波碕〈現在の難波宮跡 大坂城付近〉に生島神・足島神を祀られたが創建」と伝わります
どちらも 深く神武天皇と関わっています
摂津国 東生郡 難破坐生国咲国魂神社二座(並名神大月次相嘗新嘗)
・生國魂神社(天王寺区生玉町)
神社にお詣り(For your reference when visiting this shrine)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄橿原線 畝傍御陵前駅から 北へ約600m 徒歩7分程度
社号標に「生國魂神社」
生國魂神社(橿原市大久保町)に参着
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿に一礼をして 参道を戻ります
神社の伝承(A shrine where the legend is inherited)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』神武天皇の崩御 に記される伝承
書記には 初代 神武天皇が崩御され 畝傍山の東北の陵 に埋葬されたと記されます
地元の伝承では この地は 生國魂神社(橿原市大久保町)の旧鎮座地とされる「洞村(ほらむら)」の丸山《丸山宮址》であったとする説があります
【抜粋意訳】
巻第三 神武天皇の崩(かみあがり)の条
七十六年春三月十一日〈甲牛朔甲辰〉
天皇は 橿原宮(かしはらのみや)で 崩(かみあがり)〈崩御〉された
年齢 百二十七歳であった
明年〈翌年〉秋九月十二日〈乙卯朔丙寅〉
畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)〈畝傍山(ウネビヤマ)の北東の稜(ミササギ)〉に葬った
【原文参照】
『日本書紀(Nihon Shoki)〈養老4年(720)編纂〉』に記される伝承
第40代 天武天皇元年(673)壬申の乱の時 三神の神託が記されます
高市社(たけちのやしろ)事代主神(ことしろぬしのかみ)と身狭社(むさのやしろ)生霊神(いくみたまのかみ)が 縣主にのりうつり神託
村屋神(むらやのかみ)が 神官にのりうつり神託 を下した
これにより 見事勝利された天武天皇は その三神の功績を讃え 神社として初めて位階を皇室から賜ったことが記されています
「壬申の乱に功績のあった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけ、神名がない。あるいは、村屋神社の二神ではないかとも思はれる。本社 彌冨都比売神は女神であり、戦にはしっくり来ない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。〈文 村屋座彌富都比売神社 守屋広尚 宮司〉」
【抜粋意訳】
第二十八巻 天武天皇〈第40代〉上 元年(673)七月 神の神託 の段
事代主神(ことしろぬしのかみ)生霊神(いくたまのかみ)村屋神(むらやのかみ)
これより先に 金綱井(かなづなのい)に軍を集結した時 高市郡大領(たけちのこおりのこおのみやつこ)の高市県主許梅(たけちのあがたぬしこめ)は にわかに ロをつぐんで 言うことが出来なくなった。
三日の後 神著(かみがかり)になって言うには
「吾は高市社(たけちのやしろ)〈河俣神社〉に居る 名は事代主神(ことしろぬしのかみ)
又 身狭社(むさのやしろ)〈牟佐坐神社〉〈生國魂神社〉に居る 名は生霊神(いくみたまのかみ)なり」と言うと 顕(あらこと)〈神意を明らかとする〉をいう
「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと)〈神武天皇〉の陵(みささぎ)〈陵墓〉に 馬と種々の兵器を奉れ」と言ったまた言われるには
「吾は 皇御孫命(すめみまのみこと)〈天皇〉の前後(みさきしり)に立ち 不破(ふわ)に送り奉り帰った 今もまた 官軍の中に立って 守護している」
また
「西道(にしのみち)から軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 慎重にせよ」
言い終わると 目が醒めたそこで すぐに許梅(こめ)を遣わし 御陵(みささぎ)〈陵墓〉を祭り拝ませ 馬と兵器を奉った
また幣(みてぐら)を捧げ 高市(たけち)身狭(むさ)の二社(ふたやしろ)の神に礼祭(れいさい)をしたそうして後 壱岐史韓国(いきのふびとからくに)が 大坂(おほさか)から来襲した
時の人々は言う
「二社(ふたやしろ)の神が 教えたる所の辞(ことば) 適(まこと)にこれのことなり」又 村屋神(むらやのかみ)〈村屋坐弥冨都比売神社〉も 祝(はふり)〈神官〉に神憑(かみがか)り
「今 吾社(わがやしろ)の中道(なかのみち)より 軍衆(いくさびとども)〈兵隊〉が到る 社(やしろ)の中道(なかのみち)を塞げ」と言われた何日かで 廬井造鯨(いおいのみやつこくじら)の軍が 中道(なかのみち)から襲来した
時の人々は言う
「すなわち 神の教えられた言葉は これであった」
軍(ぐん)の政(まつりごと)が 既に終わったのち 将軍たちは この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ すぐに三神の品〈神階〉を登進(あげて)勅(みことのり)されて 祠を祀られた
【原文参照】
『日本三代実録(Nihon Sandai Jitsuroku)〈延喜元年(901年)成立〉』に記される伝承
京畿七道の諸神267社が記され その名で大和国の上位の神々と共に 神階の奉授が記されています
【抜粋意訳】
貞観元年(859)正月27日(甲申)の条
京畿七道の諸神に進む階(くらいを)及び 新たに叙(のべる)惣(すべ)て267社なり
奉り授くに
大和国(やまとのくに)
従一位 大己貴神(おほあなむちのかみ)に 正一位
正二位 葛木御歳神(かつらきのみとしのかみ)
従二位勲八等 鴨阿治須岐宅比古尼神(かもあじすきたかひこねのかみ)
従二位 高市御縣鴨八重事代主神(たかいちみあがたのやえことしろぬしのかみ)
従二位勲二等 大神大物主神(おおみわのおおものぬしのかみ)
従二位勲三等 大和大国魂神(おほやまとおほくにたまのかみ)
正三位勲六等 石上神(いそのかみのかみ)
正三位 高鴨神(たかかものかみ)に並びに 従一位
・・・
・・・従五位下
和邇赤坂彦神 山邊御縣神 村屋祢富都比賣神 池坐朝霧黄幡比賣神
鏡作天照御魂神 十市御縣神 目原髙御魂神 畝尾建土安神 子部神
天香山大麻等野知神 宗我都比古神 甘樫神 稔代神
牟佐坐神 高市御縣神 軽樹村神 天高市神 太玉命神 櫛玉命神
川俣神 波多井神 坐日向神 巻向若御魂神 他田天照御魂神 志貴御縣神
忍坂生根神 葛木倭文天羽雷命神 長尾神 石園多久虫玉神 調田一事比古神
金村神 葛木御縣神 火幡神 往馬伊古麻都比古神 平群石床神
矢田久志玉比古神 添御縣神 伊射奈岐神 葛木二上神並びに 従五位上
无位 綱越神 に 従五位下
【原文参照】
生國魂神社(橿原市大久保町)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)