飯野神社(いいのじんじゃ)は 弘治元年(1555)式内社 高市神社を合殿(あいどの)に奉斎し 二つの式内社〈①高市神社(たかいちの かみのやしろ)②飯野神社(いゐのの かみのやしろ)〉の論社です 明治39年(1906)の明細帳には飯野高市両神社と社名を記し 大正13年(1924)には社名を変更して飯野神社と単称するに至っています
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
飯野神社(Iino shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市三日市2-27-1
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》豊宇気毘売命(とようけひめのみこと)
《合》伊邪那美神(いざなみのかみ)
正哉吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかあかつかちあめのおしほみみのみこと)
《配》大山津見神(おおやまつみのかみ)
少名毘古那神(すくなひこなのかみ)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
天之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
保食神(うけもちのかみ)
須佐之男神(すさのをのかみ)
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社の創始については、古くは延喜式神名帳(927年/延喜5年)にその名が見られるのが歴史上の初見になる。
それ以来、近隣の人々から崇敬を受け社殿等の造営がなされたと考えられているが、詳しい史料等は残っておらず、当時の詳細は不明。
その後、弘治元年(1555年)に神戸城主・神戸蔵友盛から格別の崇敬を受け、社殿等の御造営がなされ、その際に社地より南に鎮座していた高市神社を遷して、合殿(あいどの)としたという記録が残っている。
また天正の頃(1573~1592年)には、織田信長の戦火にかかり焼失するも その後、再建される。
現在の社殿は、平成5年に氏子をあげての篤志奉賽によって造営され、平成15年には授与所・大広間の施設も新しく造営され今日に至る。
また社殿改築の際には、御本殿下より須恵器・土師器などが出土された。
飯野神社 公式HPより
https://iino-jinja.wixsite.com/iinojinnja/page3
【由 緒 (History)】
由緒
当社の創祀については詳にし難いが、社伝によれば嘗て境内には「神宮井ニ七堂」があり、神戸城主神戸蔵人友盛が弘治元年(1555)に社殿を造営し、その際、社地より南(約八町)に鎮座の「高市森」から高市神社を遷して合殿としたといふ。
天正頃 織田信長伊勢侵入の兵火にかかり焼亡したと伝え、又江戸時代に入り寛永14年(1637)城主本多下総守より「祢宣屋敷地井ニ寺四ケ院屋敷地」を拝領している。
年代不明の古札に「飯野神宮牟山大明神」と記され、『亀城兎園記』には「六山大明神」とあることから、普通牟(六)山大明神と呼ばれていたようである。
明治39年の明細帳には飯野高市両神社と社名を記し、大正13年(1924)には社名を変更して飯野神社と単称するに至った。明治41年には村社2社、無格社5社、同四二年に村社1社、無格社1社の合祀を行った。昭和28年に、愛宕神社と忍山神社を分祀して現在に至っている。※「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁]から参照
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
飯野神社(鈴鹿市三日市)は 二つの式内社〈①高市神社②飯野神社〉の論社になっています
①弘治元年(1555)式内社 高市神社を合殿(あいどの)に合祀
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 髙市神社
[ふ り が な ](たかいちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Takaichi no kaminoyashiro)
②御本殿 飯野神社
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)河曲郡 20座(並小)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 飯野神社
[ふ り が な ](いゐのの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Iino no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
飯野神社(鈴鹿市三日市)は 二つの式内社〈①高市神社②飯野神社〉の論社になっています
①延喜式内社 伊勢國 河曲郡 髙市神社(たかいちの かみのやしろ)
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)
・飯野神社(鈴鹿市三日市)
②延喜式内社 伊勢國 河曲郡 飯野神社(いひのの かみのやしろ)
・飯野神社(鈴鹿市三日市)
・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)
・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)
〈旧跡は 長太村の北位稲田の中 飯野森土宮と云う所〉
・菅原神社(鈴鹿市国分町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄鈴鹿線 三日市駅から線路沿いに西へ約700m 徒歩10分程度
社頭は境内の南側です
二つの式内社〈①高市神社②飯野神社〉の論社になっていますので 式内社の社号標が二つ並んで建ちます
飯野神社(鈴鹿市三日市)に参着
社頭の鳥居から 色は白ですが まるで稲荷鳥居の連鳥居の様に鳥居が連なります
途中に手水舎があります
簾の覆いがあり 清めます
社殿の建つ壇は一段高くなっていて 五段程の階段を上がると鳥居の先に拝殿が建ちます
拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 高市神社について 所在は゛神戸市中に在す、今神館社と称す゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉と記しています
【抜粋意訳】
高市神社
高市は多介知と訓べし
○祭神 高市連祖歟
〇神戸市中に在す、今神館社と称す、〔国史〕
〇勢陽俚諺云、昔は西條村にあり、弘治年中神戸に遷す、
○姓氏録、〔右京神別下〕高市連、額田部同祖、天津彦根命三世孫彦伊賀都命之後也、
【原文参照】
式内社 飯野神社について 所在は゛神戸市中神館社に相殿に在す゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています
【抜粋意訳】
飯野神社
飯野は伊比乃と訓べし
○祭神 飯豊姫命、〔考証、俚諺、〕
○神戸市中神館社に相殿に在す、〔俚諺〇勢陽俚諺云、昔は四條村にあり、弘治年中遷す、〕
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 高市神社について 所在は゛神戸村石橋町神館神明社に合祭る゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市)〉と記しています
【抜粋意訳】
高市神社
今 神戸村石橋町神館神明社に合祭る、舊址は同村 十日市町の南東にあり、〔式社實碌記〕
式内社 飯野神社については 所在は゛今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり゛〈現 神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉と記しています
【抜粋意訳】
飯野(イヒヌノ)神社
今 神戸村 石橋町 神舘神明社に合祭る、舊址は飯野郷西條村にあり、〔西條村玉田氏系議、式内社検録〕
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
【抜粋意訳】
高市神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに 考証に六呂兄村に配するは御大和森と呼ふ大和に高市を附會するなり 況其村は三重郡なり 浮説とるに足らす
再考に中神戸市中に此社ありと云へるは何の識跡を得つらむ 詳ならぬを案内記 是に依て神戸石橋町なる神館社に塡つ 然れとも其 神館神明宮は河曲神戸の神館にて儀式帳に小山宮とある是なり 今は石橋町より社域に入れと古昔は南東の小山町より入るを以て 證すへし 其社を高市神社と稱する證跡 所見なきに依て 宮地記遺響等に合併の説を唱へ 舊は三日市村にあり 或は西條村にありたりなといへり 然れとも三日市村には今猶 牟山明神と唱へて神祠現存す 遷移の説 信受しかたし
又 西條村より遷轉せしといふは飯野神社なり 二書の麁妄論に足らす 是故に神戸藩明細帳に高市神社神明宮相殿 往古十日市町鎭坐ありしを 時年不詳今の社地へ遷坐す 其舊跡ありと載す 三日市西條の説を措て十日市と高市と稍音近きを以て 舊地をここに在とす 都て此 合併相殿の説は證する所なし 猶他に竟むへきにや 然るに又 龜山藩明細帳に三日市村 飯野神社高市神社相殿 三重縣注進帳にも三日市村 産神高市飯野相殿とす 今に高市之森と云社跡ありといへりと載す 其産神は牟山明神と唱ふる社なり 舊地とは見ゆれと 両神合併の確證なし 其舊跡と唱ふる高市之森は 古き村會圖に加筆して高市社舊跡とあり 後人の狡意に出る所にして 正實の傳設にはあらすとすへし
式内社 飯野神社について 所在は゛①北長太村②三日市村③神戸石橋町゛の三ヶ所を挙げています
①北長太村〈現・飯野神社(鈴鹿市長太旭町)〉
②三日市村〈現・飯野神社(鈴鹿市三日市)〉
③神戸石橋町〈現・神舘飯野高市本多神社(鈴鹿市神戸)〉
【抜粋意訳】
飯野神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに この社 注進帳等に北長太村 三日市村 神戸石橋町等三所にありとす
北長太村にては 産神 神明社に配す 寶永六年九月の棟札あり 延真式内飯野神社と傍書し 其舊跡は村の北の禾田の中にありて 今飯野森土之宮と云ひ 其南に流るる川を飯野川と云ふを證とす 棟札の書體疑なきにあらす飯野川といふも 田畝に曳く堰水にて井の川なるを飯野に牽合するなり
三日市村にては 産神 牟山明神に配す社地の邊を飯野と云ひ 社の辰巳に飯野宿禰塚と云あるを證とす 併孟浪の口傳にて 徴とすへきものなし
神戸石橋町にては 神館大明神と稱する河曲神戸の神明社 市中に在て 産社とするに飯野神社を合併すといへり 其來由を捜宗するに 其社の氏子 西條村玉田彌十郎所蔵 系譜云 飯野権之進〔正中二乙丑五月十三日逝去〕八代飯野十兵衛〔天文九庚子九月朔日死去〕男玉田権右衛門〔永禄十二巳巳四月十九日〕當所 飯野郷と称し我先祖代々 此所に住居 故姓を飯野何某と名乗 當村根元たり云々 永禄之頃 神戸蔵人友盛一圓に守護し 飯野郷卯ノ方に城廊築 當村民家 城西に相成 在名西條村と相改 飯野社 今之所に社境相移し 其節 飯野某へ住地拜領 此時姓を玉田と改むと載たるを見れは 古來本社は今の四條村に在たる事著し 永祿年中 神館社域に遷轉したる後も 神祭の日は 西條村人來て供奉する事今に絶えず 其舊地は神戸城内乾隅なる鈴木勇記の宅地是なり 仍て西條村の内高六百九石五斗ニ升八合之處三十石二斗七升社地溝等城内になりたる故 引免となる由 元文元年十月二十七日 寬保元年十一月十五日等の證文を西條村に藏す 此等の證據を以來 社は神明宮合併と判定すへきか
【原文参照】