五十君神社(上越市三和区所山田)

五十君神社(いぎみじんじゃ)は 社伝には祭神 五十日帶日子命(いかたらしひこのみこと)は大賀・不盡の二臣を従へて越後国に下り 池溝開発にあた 頸城郡高志八岐村(所山田)で崩御された 大賀・不盡の二臣はこの地に留まり 命の神霊を奉祀 第12代景行天皇の御勅により五十王神社として奉り 神亀三年(726)五十君神社と改めた 式内社 越後國 頸城郡 五十君神社(いそきみかみのやしろ)とされます

Please do not reproduce without prior permission.

目次

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

1.ご紹介(Introduction)

 この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します

【神社名(Shrine name

五十君神社(Igimi shrine

通称名(Common name)

【鎮座地 (Location) 

新潟県上越市三和区所山田550

  (Google Map)

【御祭神 (God's name to pray)】

《主》五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)
〈第
11 垂仁天皇の御子 五十日滞日子命(いかたらしひこのみこと)〉

》劔大明神日本武尊 白鳥大明神
   飯縄大明神倉稻魂命

【御神徳 (God's great power)】(ご利益)

【格  (Rules of dignity) 

・『延喜式神名帳engishiki jimmeicho 927 AD.所載社

【創  (Beginning of history)】

五十君神社の由来

 当社は延喜式内社にして越後国頸城郡式内社十三座の一なり、祭神 高志池君祖 五十日帯日子命(いかたらしひこのみこと)(大日本史神祇志蓋記)は十一代垂仁(すいにん)天皇の第五皇子にして、御家臣大賀、不尽の二臣を供丈し、池溝開領のため、御巡国あらせられた越後国頸城郡高志八岐村に於いて崩御あらせられた、依って大賀不尽の二座と五十日帯日子命の神霊を奉寿せり。

 十二代景行天皇御宇御勅ありて五十日帯日子命を五十王神社と奉仕し、又その後 元正天皇四十四代奈良時代の御代、神亀三年(726)五十君神社と改めたり。

 高志八岐(こしゃやまた)村を慶長年度(1596)に諸山田村と改め、後 天和年度(1681)江戸時代に至りて所山田と改む。

 五十二代嵯峨天皇の御代 弘仁四年(813)正三位の神階あり、五十五代 文徳天皇の御代 仁寿元年(851)正六位の神階あり、五十六代 清和天皇の御代 貞観年度(863)及び八十三代 土御門天皇の御代にも神階を授けられたることあり。越後国主 上杉輝虎(謙信)の世 関白 近衛前嗣(このえさきつぐ)か西洞院時秀を従え、越後輝虎の居城、春日山城へ下向した。時に永禄三(1560)九月十九日であった。輝虎は悦んで仝郡下の郷里徳村(当時の村名)を宿舎に当てて大切にした。翌年残雪の候 関白近衛殿 五十君神社に社参あらせられ、社境の梅花上覧ありて、その絵を描き、自ら讃をして社殿に捧げたという。後世 神職 松縄善右衛門重永 上京して近衛家へ持参御覧いただいた処 秘蔵の御書を下賜された。

 上杉輝虎 五十君神社を祈願所と定められ、依って永禄七甲子年六月三日附を以って貫高五十七貫五百四丈(約四十町五反歩)寄附相成りたる。将又(はたまた)永禄六年(1563)十一月附を以って社用人馬通行の御印証を右神社に掟附置在等、春日山城主 上杉景虎の世 天正八年(1580)卯月三日 五十君神社の社境の制札被附ヶ置在等。

 慶長十五年(1611)徳川幕府の命により大久保硯守巡検の砌、属官連署を以って先年の如く社地御寄附相成候事。天和三戌年御検地の節、高四石六斗三升一合社地九町六反歩也。 五十君神社の除地として仝社被附置候、将又(はたまた)年毎 御代官所へ御祈祷神符相納め奉り候。

 明治六年九月 旧第十大区小七区の村社に御定め相成候事。
(県知事 楠木正隆)
五十君神社氏子中

社殿掲示板より

Please do not reproduce without prior permission.

五十君神社

祭神の五十日帶日子命は大賀・不盡の二臣を従へて越後国に下り、池溝開発にあたつたが、頸城郡高志八岐村(今日の所山田)で崩御された。そこで大賀・不盡の二臣はこの地にとどまり、命の神霊を奉祀した。十二代景行天皇の御宇に一社を建立し、五十王神社と称した。神亀三年(七二六)、勅命により五十君神社と改めたといふ。『越後頸 城郡誌稿』には大宝三年(七〇三)三月三日勧請とある。『神社明細帳』によると、弘仁四年(八一三)七月に神位を授かり、建仁二年(一二〇二)二月に正三位を賜はつてゐる。

 永録三年(一五六〇)九月十九日、関白近衛前嗣が西洞院時房等を従へて越後へ下向した際、五十君神社の神主が故あつて奉仕者に選ばれた。神主が関白に従つて上洛したので、その跡を郡司が社務を預かつた。翌年、再度下向した前嗣は五十君神社に参拝し、社前に咲く梅花を畫き、自ら讃をして神前に奉納したといふ。上杉謙信は五十君神社を祈願所とし、永録六年十一月、社用人馬通行の朱印状を与へ、翌七年六月三日、祈願料として五七貫五〇四文を寄進した。天正八年(一五八〇)四月三日、上杉景勝は社境の制札を掲げた。春日山城主堀秀治が福島築城にあたつて神社の大木を伐採したと伝へてゐる。慶長十五年(一六一〇)、松平忠輝は社地を安堵した。慶長年間、高志八岐村を諸山田村に改め、天和年間に所山田に改めたといふ。天和三年(一六八三)の検地で、徳川幕府から除地高四石六斗三升一合、社地九町六反歩が付与された。明治六年、第十大区小七区の村社に列す。
『式内社調査報告 第17巻 (北陸道 3)』P758より抜粋

【由  (History)】

新潟県指定文化財

「金銅虚空蔵菩薩懸仏」

五十君神社蔵昭和四十三月指定

五十君神社は平安時代初頭延喜式に載っている頸城で最も古い十三社の一つである。この神社に神仏褶合時代の遺品「金銅虚空蔵菩薩」鎌倉時代が残されていた。これが五十君神社本地仏懸仏である。懸仏は蓮華座の上に座し本体と座が一鋳をなしている。

全面に鍍金が施され鏡板に取り付けられガラス玉の瓔珞(ようらく)や蓮華がよく保存されている。鎌倉時代の美しい典型的な懸仏として県下でも代表的なものとされている。

社頭の案内板より

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境内 (Precincts of the shrine)】

〈本殿向かって左 御神木の奥の石祠群〉

明治四十年(1907)村内の神社を合併とあります

安部社《主》市入命
十二社《主》天神七代地神五代
諏訪社《主》健御名方命
征年方社《主》高志姫命
大賀社《主》大彦命
八幡社《主》譽田別尊
美女池社《主》今子命,河沼姫命
不尽臣社《主》武位起命,御才命,白石命

Please do not reproduce without prior permission.

神社の境外 (Outside the shrine grounds)】

スポンサーリンク

この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)

この神社は 由緒(格式ある歴史)を持っています

『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)(927年12月編纂)に所載
(Engishiki JimmeichoThis record was completed in December 927 AD.

延喜式Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂
その中でも910を『延喜式神名帳Engishiki Jimmeicho)といい 当時927年12月編纂「官社」に指定された全国の神社式内社の一覧となっています

「官社(式内社)」名称「2861
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」

[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)北陸道 352座…大14(うち預月次新嘗1)・小338

[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)越後国 56座(大1座・小55座)

[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)頸城郡 13座(並小)

[名神大 大 小] 式内小社

[旧 神社 名称 ] 五十君神社
[ふ り が な ]いそきみかみのやしろ)
[Old Shrine name]Isokimi kamino yashiro)

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス  延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用

スポンサーリンク

【オタッキーポイント】Points selected by Japanese Otaku)

あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します

富山県神社祭神御事歴』〈大正13年(1924)〉に記される゛御祭神 五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)゛の伝承について

御祭神 五十日足彦命〈第11 垂仁天皇の御子〉について 詳細に記され 布施爪村社 布施神社に奉祀す と記されています

【抜粋意訳】

卷七 富山縣神社祭神御事歴 第十篇 皇親の神靈

五十日足彦命

名號
(日本書紀 六)五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)
(古事記  中)五十日帯日子王(イカタラシヒコノキミ)
新選姓氏録 摂津 皇別)垂仁天皇皇子 五十日足彦命

御系統
日本書紀 巻六に、垂仁天皇三十四年、先是、娶山背苅幡戸邊、生三男、第一曰祖別命、第二曰五十日足彦命、第三曰膽武別命。五十日足彦命、是子石田君之始祖也とあり、垂仁天皇の皇子にまします。
〈これより先に山背苅幡戸邊(ヤマシロノカリハタトベ)を娶り 三人の男の子を生み 第一は祖別命(オオジワケノミコト)といい 第二は五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)といい 第三は膽武別命(イタケルワケノミコト)といい 五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)は この子は石田君の始祖です〉

御事蹟
此の命は、春日山君、春日部君、石田君等の祖にまします、古事記、日本書紀

奉仕の神社
此の命は、下新川郡西布施村 布施爪村社 布施神社に奉祀す、

【原文参照】

書誌情報 国立国会図書館デジタルコレクション『富山県神社祭神御事歴』著者 佐伯有義 編 出版者 富山県神職会 出版年月日 大正13年(1924)https://dl.ndl.go.jp/pid/971097/1/276

五十日帶彦命が 越の国に下向にあたり 駐留されたとの伝承を持つ式内社

社伝に「垂仁天皇の皇子五十日帶彦命が越の国に下向あり、越前を圣て当地に幾星霜駐留あらせられ」とあり 越國への赴任の際の駐留先が祀られています

式内社 加賀國 能美郡 滓上神社(かすかみの かみのやしろ)

・滓上神社(小松市中海町)

式内社 布勢神社(魚津市布施爪)由緒に記される五十日足彦命゛の伝承について

祭神・五十日足彦命(イカタラシヒコノミコト)

 五十日は 厳の義なるべし 十一代 垂仁天皇の皇子なり 越の國の君となり給ひ 匠を従へて穀物農具を持たしめ給ひ 民を率ひて開墾に従事し 民に業を授け後 今の魚沼郡に移りて開拓の業を与へ また漁網を教へ國造りの大功を奉し給ふ

と社伝にあり

・布勢神社(魚津市布施爪)

由緒書きには 越後國に移ったと記されます 五十日足彦命を祀る越後國の式内社について

式内社 越後國 頸城郡 五十君神社(いそきみ かみのやしろ)

・五十君神社(上越市三和区所山田)

式内社 越後國 蒲原郡 伊加良志神社(いからしのかみのやしろ)

・五十嵐館跡(三条市飯田)
〈五十嵐神社 旧鎮座地〉

・五十嵐神社(三条市飯田)

スポンサーリンク

【神社にお詣り】(For your reference when visiting this shrine)

この神社にご参拝した時の様子をご紹介します

JR直江津駅からR253号経由 東南方向へ約17.3km 車30分程度

田植え前の頃 水田に水が張られ始めてトラクターが耕す長閑な風景が広がる上越市三和区所山田地区

Please do not reproduce without prior permission.

水田となっていない東側に向かいます

Please do not reproduce without prior permission.

社頭には石燈籠と 白木の両部鳥居が建ち 古社の趣があります

五十君神社(上越市三和区所山田)に参着

Please do not reproduce without prior permission.

参道の脇から農耕車や軽トラが通れる道があり 鳥居の先で参道と合流した狭い農道になっています こちらで車を止めて歩きます
一礼をして 白木の両部鳥居をくぐります

Please do not reproduce without prior permission.

100m程で 南西向きに建つ 白木鳥居があります

Please do not reproduce without prior permission.

鳥居の先は 鬱蒼とした木立の中に参道があり全く見えません
一礼をして 白木鳥居をくぐると 参道が見えてきます

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

石灯籠が立つ参道に沿って 祭用の柱などを保管する細長い柱置きが続いた先に石段があります

Please do not reproduce without prior permission.

かなりの古社を感じさせる石段をあがります

Please do not reproduce without prior permission.

石段を上がると 石畳みの先に社殿が建ちます

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿にすすみます
この石畳みは 正中に当たる部分には石が置かれていませんので 参拝者は正中を進まない工夫がされています

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の扁額は思無邪゛とありますが わかりません
帰宅後 調べてみると
論語の一節で ゛思無邪゛〈おもい 邪(よこしま)無(な)し

孔子が約三〇〇〇の古詩から選んだ 中国最古の詩集『詩経‐魯頌・駉』にみえるらしく 

孔子が「論語‐為政」で言った詩三百、一言以てこれを蔽う、曰く、思い邪なし私心なく〉「詩経の三百篇、ただ一言で包みこめば、『心の思いに邪なし』」

奥深すぎて よくわからないのが論語ですので・・・

Please do not reproduce without prior permission.

賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

Please do not reproduce without prior permission.

拝殿の奥には 幣殿 本殿が鎮座します

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

境内には 注連縄の廻された御神木があります

Please do not reproduce without prior permission.

境内社にお参りをして 社殿に一礼 参道を戻ります

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

すっかり陽が落ちてきました

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

スポンサーリンク

神社の伝承】(A shrine where the legend is inherited)

この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します

『神名帳考証土代(Jimmyocho kosho dodai)』〈文化10年(1813年)成稿〉に記される伝承

式内社 五十君神社について 所在は山五十君〈現 五十君神社(上越市三和区所山田)〉で 祭神は 相殿に坐します 飯縄大明神 劔権現社と記しています

【抜粋意訳】

五十君(イソキミ)神社

「旧事記」十市根命子 物部印岐美連公
「和 抄」五公 以木美
〇今 山五十君(ヤマイキミ)里五十君と云処あり イソキミとは不読 今在 山五十君

「書記」欣明記 印岐弥注在 任郡日本臣名也

「案内」髙志八岐戌亥の方二里斗里 五十君々所山田村 相殿に坐 飯縄大明神 劔権現社 頭南向云々 飯縄古社辰巳の山上にあり 劔社卯辰の方 山の中段にあり云々
古五十七貫五十四丈の御墨付あり 社司 池松縄氏 村上氏にて讃州杢縄より落来り池氏を相続す これ迄七十二代血脈相続くと之先祖夢により讃州に至り御垂を頂戴奉り 当所帰劔権現と崇め奉る 社地を道林と号る事 社司 老後剃髪し林道と云ひ 此所隠居す 本社は往古の鎮座 飯縄ノ社は山里枩の山三々二分れさる以前 山上にまつり奉る

【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブ『神名帳考証土代』(文化10年(1813年)成稿)選者:伴信友/補訂者:黒川春村 写本 [旧蔵者]元老院https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000039328&ID=M2018051416303534854&TYPE=&NO=画像利用

『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承

式内社 五十君神社について 所在は里五十公郷山田村〈現 五十君神社(上越市三和区所山田)〉で 祭神の詳細はわからないが・五十猛命・五十足彦命との説を記している

【抜粋意訳】

五十君神社

五十君は 以木美と訓べし、和名鈔、郷名部 五公、假字上の如し

〇祭神 詳ならず、
節解云、五十猛命、謂ニ木種明神、
案内云、五十足彦命
〇今按るに 物部印岐美連祖神歟

〇里五十公郷山田村に在す 案内
〇日本紀、欽明天皇五年條、六月逃去、於印支彌後、
〇舊事記、天孫本紀 宇麻志麻治命八世孫 物部印岐美連公、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神社覈録』著者 鈴鹿連胤 撰[他] 出版年月日 1902 出版者 皇典研究所https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991015

『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容

式内社 五十君神社について 所在は山五十公里五十公郷の中央、所山田村、五十王山〈現 五十君神社(上越市三和区所山田)〉と記しています

【抜粋意訳】

五十君(イキミノ)神社

今 山五十公里五十公郷の中央、所山田村、五十王山にあり、越後名寄、式社考証、

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『神祇志料』https://dl.ndl.go.jp/pid/815490著者 栗田寛 著 出版者 温故堂 出版年月日 明治9[1876]

『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承

式内社 五十君神社について 所在は五十公郷所山田村 五十王山〈現 五十君神社(上越市三和区所山田)〉 祭神は物部印岐美連公ではないだろうかと記しています

【抜粋意訳】

五十君神社

祭神

今按〈今考えるに〉
越後風土記節解に祭神 五十猛命 木種大明神とも云ふと云り 五十公郷の五十に因て附會せし歟 越後野志に五十日足彦命は春日山君 髙志池君 春日部君の祖なるを以て國府春日山城地に由ありと云るも 五十の字に因ての考なれば信じがたし 舊事紀 物部印岐美連公あり 本郡に物部神社あり 和名抄 物部郷あるも由ありて聞ゆれば物部印岐美連を祭れるならん

祭日 正月六七日 五月十六七日 九月十八九日
社格 村社

所在 五十公郷所山田村 五十王山(中頸城郡 上杉村大字所山田

【原文参照】

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

国立公文書館デジタルコレクション『特選神名牒』大正14年(1925)出版 磯部甲陽堂https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/971155

五十君神社(上越市三和区所山田) (hai)」(90度のお辞儀)

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

Please do not reproduce without prior permission.

おすすめ記事

1

世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」のクライテリア(iii)として「古代から今日に至るまで山岳信仰の伝統を鼓舞し続けてきた 頂上への登拝と山麓の霊地への巡礼を通じて 巡礼者はそこを居処とする神仏の霊能を我が身に吹き込むことを願った」と記されます

2

出雲國(izumo no kuni)は「神の國」であり 『出雲國風土記〈733年編纂〉』の各郡の条には「〇〇郡 神社」として 神祇官の所在する社〈官社〉と神祇官の不在の社を合計399社について 神社名の記載があります 『出雲國風土記 神名帳』の役割を果たしていて 当時の出雲國の神社の所在を伝えています

3

大国主神(おほくにぬしのかみ)が 坐(ましま)す 古代出雲の神代の舞台へ行ってみたい 降積った時を振り払うように 神話をリアルに感じたい そんな私たちの願いは ”時の架け橋” があれば 叶うでしょう 『古事記(こじき)』〈和銅5年(712)編纂〉に登場する神話の舞台は 現在の神社などに埋もれています それでは ご一緒に 神話を掘り起こしましょう

4

出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと)は 律令体制下での大和朝廷に於いて 出雲国造が 新たにその任に就いた時や 遷都など国家の慶事にあたって 朝廷で 奏上する寿詞(ほぎごと・よごと)とされ 天皇(すめらみこと)も行幸されたと伝わっています

5

出雲国造(いつものくにのみやつこ)は その始祖を 天照大御神の御子神〈天穂日命(あめのほひのみこと)〉として 同じく 天照大御神の御子神〈天忍穂耳命(あめのほひのみこと)〉を始祖とする天皇家と同様の始祖ルーツを持ってる神代より続く家柄です 出雲の地で 大国主命(おほくにぬしのみこと)の御魂を代々に渡り 守り続けています

6

宇佐八幡宮五所別宮(usa hachimangu gosho betsugu)は 朝廷からも厚く崇敬を受けていました 九州の大分宮(福岡県)・千栗宮(佐賀県)・藤崎宮(熊本県)・新田宮(鹿児島県)・正八幡(鹿児島県)の五つの八幡宮を云います

7

行幸会は 宇佐八幡とかかわりが深い八ケ社の霊場を巡幸する行事です 天平神護元年(765)の神託(shintaku)で 4年に一度 その後6年(卯と酉の年)に一度 斎行することを宣っています 鎌倉時代まで継続した後 1616年 中津藩主 細川忠興公により再興されましたが その後 中断しています 

8

對馬嶋(つしまのしま)の式内社とは 平安時代中期〈927年12月〉に朝廷により編纂された『延喜式神名帳』に所載されている 対馬〈対島〉の29座(大6座・小23座)の神社のことです 九州の式内社では最多の所載数になります 對馬嶋29座の式内社の論社として 現在 67神社が候補として挙げられています

-延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)
-,

Copyright© Shrine-heritager , 2024 All Rights Reserved.