肥田神社(ひたじんじゃ)は 明治44年(1911)村社 若宮神社に村社 皇后神社を合祀して 肥田神社と改称 本来の祭神については 皇后神社〈三島大神の妃 阿波咩命〉若宮神社〈阿波咩命の御子神 肥田王子〉と伝わり この肥田王子は 延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)とされます

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目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
肥田神社(Hita shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
静岡県田方郡函南町肥田709
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主祭神》ひた王子〈若宮神社の祭神〉
《合祀神》氣長足姫命〈皇后神社の祭神〉
《配祀神》仁徳天皇・土祖神・武内大臣〈皇后神社の配祀神〉
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
肥田神社
御祭押 ひた王子 氣長足姫命
相 殿 仁徳天皇 土祖神・武内大臣鎮座地 函南町肥田字御屋敷八三一番地
例祭日 十月十五日創建 不祥
北屋敷に 若宮神社(祭神 ひた王子 明治六年村社)
下屋敷に 皇后神社(祭神 氣長足姫命・相殿 仁徳天皇・土祖神・武内大臣 明治六年村社)が鎮座していたが、明治四十四年合祀し現在地に肥田神社と改めた
境内社 八社
山神社・天神社・稲荷社・粟島社
大己貴神・後藤示現明神・八坂神社・厳島神社境内坪数 三一六坪
境内掲示板より

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【由 緒 (History)】
『函南町誌 中巻』に記される内容
【抜粋意訳】
21 肥田神社
函南町肥田字北屋敷七〇九番地に鎮座。
北屋敷七〇九番地には元村社、若宮神社(ひた王子)に鎭座している。
下屋敷九四四番地には元村社、皇后神社((祭神 氣長足姫命・相殿に仁徳天皇・土祖神・武内大臣)が鎮座していた。
明治四十四年一月二十四日に皇后神社を若宮神社に合祀し、神社名を肥田神杜と改称した。現在の肥田神社である。
例祭日は十月十五日である。肥田神社は合併社であるので、合併前のそれぞれの神社はどのような神社であったかを述べる。
22 若宮神社
肥田村字北屋敷七〇九番地に鎮座。祭神は肥田王子。元村社である。明治六年九月に村社に列せられている。
創建年月は未詳。例祭日は十月十五日。もと若宮八幡宮といっていたが、明治六年九月若宮神社と改祢した。元字蛇ケ橋上に鎮座していたが、後 明応中(一四九二~一五〇〇)に北屋敷七〇九番地に移転した。
社伝として「本社神階帳ニ 所謂 正五位下ひた王子ヲ祀レリ旧クハ字蛇ケ橋ノ上東境ニ 所謂 肥田原ニ座セリ 明應度今の地(北屋敷七〇九番地)へ移スト云ヘリ。安永二巳年(一七七三)十二月二十九日□録ノ災ニ カカリ社殿 及 諸記録トモ悉ク焼亡セリ」と記されている。
境内社として、山神社(祭神 大山祇命、天保十年六月再建)、天神社(祭神 菅原道真公、天保十年六月再建)、稲荷社(祭神 倉稲魂命、天保十年六月再建)、粟島社(祭神 少彦名命、慶應元年再建)、大己貴神(延享度勧請、石体)、後藤示現明神(祭神 不祥、安永十年再建)、以上六社は若宮神社両覆内に祀る。八坂神社(祭神 須佐之男命、天明三年六月勧請)が祀られている。棟札の写
・・・
・・・(中略)現今 神官の考察
本社の祭神は 三島大社の御子に座して 神階帳に所謂 一品きさき宮 即ち阿波咩神の産み玉ふ御子なるべし。故に王子 又は若宮とも称せり。本村に祀る皇后神社は 即ち阿波咩命にまして王子の御生母ならん。如此深き御所縁ある故に母子ともに此地に勧請せることと思へり。然るを中世 彼の若宮の称により八幡神社とも称せるならん。
古老の口碑
口碑に曰く 當 若宮は旧くは八字蛇ケ橋の上りに鎮座す。明應中 今の所に移す。故に其跡地を神無杜と云ふ。
今は伐木し税畠となり 神階帳に載する正五位ひこ王子は 此神なるべしと言伝へたり。安永二癸巳年十二月二十九日 出火 社殿書記悉く焼亡と伝へあり。境内の広さは三一六坪である。
神官 肥田村 村社旧祠掌 石和佐源太23 皇后神社
肥田町字下屋敷九四四番地に鎮座。祭神は氣長足姫命。相般に仁徳天皇、土祖神、武内大臣が祀られている。元村社である。明治六年九月に村社に列せられている。創建年月は未詳。例祭は一月十五日。もと皇后宮といっていたが、明治六年九月皇后神社と改称した。
境内社として、厳島社(祭神 市杵島姫命 大宮比賣命、創建年月不祥)、山神社(祭神 大山祇命、創建年月不祥)が祀られていた。
この皇后神社は、相殿の三神、境内社四社は明治四十四年十一月二十四日に肥田若宮神社に合祀された。棟札の写
・・・
・・・(中略)現今 神官の考察
本社の祭神を皇后神と称せるは神集島〈※神津島〉又は 本州長濱に祀れる なかすま后にまして 三島大神の本宮 阿波咩命なるべし。其は 神階帳に 二品きさき宮とあるを以て証とすべし。
今これを大別するに 本つ御社は神名式に所載 神集島鎮座 阿波咩命神社なるを 後に長濱に移して長濱神社と祀り(式内) 當社に移しては 單に皇后宮と称へしことなるべし。之によりて 之を観るに當村 若宮神社は即ち三島大神 御子 則ち河波咩命の御産子なるが故に 母子ともに勧請せるならん。
又 享保の棟札に皇后明神を神功皇后と称し相殿に仁徳天皇 土祖神 武内大臣を祀るとあるは皇后と云へる御名より起りて 神功皇后と称へ右に就て仁徳帝又 武内宿祢を合祀せとことなるべし。又 土祖神とああるは埴安姫命にあるまじ。此は土神 則 産土神なること著明ならんと思へり。古老の口碑
口碑に曰く 皇后宮は正五位ノ下 ひこ王子ノ大神の后を祀る故に皇后宮なりと云伝へあれしを 享保度の頃 神功皇后を祭れるなる可しと神官板屋主の考よりして 相殿に仁德天皇 土祖神 武内大臣の三座を合祀すと伝へあり。旧くは正月七日を祭り柳ノ木にて鍬鎌の形を造り神前に備へ奉るの祭式あり。
◎皇后宮は享保十三年度に火災に罹り諸記録は焼失せりと言う。
◎この社は安産の守護神として婦人は厚く信仰せり。依って本村に離産と言うことなしと伝えられている。
境内の広さは四四一坪であった。神官 肥田村 村社 旧祠掌 石和佐源太
これまでに述べたように、肥田村には若宮神社と皇后神社が祀られていたが、明治四十四年に皇后神社が若宮神社に合併され、神社名を肥田神社と改称して今日に至っている。
神職 石和佐源太 一 石和牧五郎 一 杉崎賢三郎 一 杉崎近之助 一 杉崎一雄
『函南町誌 中巻』発行 函南町 編集 函南町誌編集委員会
昭和五十九年三月十日印刷
【原文参照】
函南町誌編集委員会 ほか『函南町誌』中巻,函南町立図書館. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12895177
【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
・〈※現在地より東へ350m程〉に若宮神社の社号標あり
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
〇『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
〇『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
〇『風土記(ふどき)』
『続日本紀』和銅6年(713)5月甲子の条が 風土記編纂の官命であると見られ 記すべき内容として下記の五つが挙げられています
1.国郡郷の名(好字を用いて)
2.産物
3.土地の肥沃の状態
4.地名の起源
5.古老の伝え〈伝えられている旧聞異事〉
現存するものは全て写本
『出雲国風土記』がほぼ完本
『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』が一部欠損した状態
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊豆國 92座(大5座・小87座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)田方郡 24座(大1座・小23座)
[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 引手力命神社
[ふ り が な ](ひきたちからのみことの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hikitachikara no mikoto no kaminoyashiro)
【原文参照】

国立公文書館デジタルアーカイブス 延喜式 刊本(跋刊)[旧蔵者]紅葉山文庫https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000004146&ID=M2014101719562090086&TYPE=&NO=画像利用
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
延喜式内社 伊豆國 田方郡 引手力命神社(ひきたちからのみことの かみのやしろ)の論社
・引手力男神社(伊東市十足)
・大瀬神社(沼津市西浦江梨)
・肥田神社(函南町肥田)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
伊豆箱根鉄道 駿豆線 伊豆仁田駅から県道138号経由で南西方向へ約1.7km 車で5分程度
狩野川に架かる日の出橋の袂から北に130m程で 南を向いて社頭があります
肥田神社(田方郡函南町肥田)に参着

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一礼をして鳥居をくぐり境内へ進むと すぐ左手に手水舎があります
境内の向かって右手は玉垣が廻されていて その外は道路になっています

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正面拝殿の向かって左手前にある祠は境内社〈菅原道真公・稲荷大神・他2柱〉の合祀殿です

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拝殿にすすみます

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狩野川に近いせいでしょうか 洪水から社殿への浸水を防ぐために 高く積まれた石積みの上に社殿が建てられています
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります

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一礼をして 境内参道を戻ります
鳥居の先に見えるのは狩野川の堤防です

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【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 引手力命神社について 所在は゛十足村手力雄山に在す、゛〈現 引手力男神社(伊東市十足)〉と記しています
【抜粋意訳】
引手力命神社
引手力は 比岐多知加良と訓べし
○祭神 手力雄命歟
〇十足村 手力雄山に在す、〔志〕 例祭
伊豆志に、社ナシ、ヲドリ場ト云フ處アリ、今ハ ハナシ坂ト云フ、ヲトリヲ為テ祭リシ處カ、と云り、
【原文参照】

鈴鹿連胤 撰 ほか『神社覈録』下編 ,皇典研究所,1902. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/991015
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 引手力命神社について 所在は゛賀茂郡十足村 手力雄山に在り、社 今絶えたり、゛〈現 引手力男神社(伊東市十足)〉と記しています
【抜粋意訳】
引手力命(ヒキテチカラノミコトノ)神社
舊 賀茂郡十足村 手力雄山に在り、社 今絶えたり、〔豆州志、神名帳打聞〕
盖 天手力雄神を祭る、〔日本書紀、古語拾遺、延喜式〕
【原文参照】

栗田寛 著『神祇志料』第1巻,温故堂,明9-20. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815490
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 引手力命神社について 所在は゛江梨村〔今属 君澤郡〕゛〈現 大瀬神社(沼津市西浦江梨)〉と記しています
他の説として
豆志に引手力命神社〔十足村〕手力雄は山名也 祠宇無しと云ひ゛〈現 引手力男神社(伊東市十足)〉とするが 手力雄山の名から来ているもので確証はない
゛一説に塚本村 萬後明神ならん 豆志に昔 肥田塚本一村なり 神名記の肥田王子は塚木萬後明神王子社に坐せし時の稱也 云々゛〈現 肥田神社(函南町肥田)〉の説は゛肥田村名によりて引手の約とせる説なれば信難し゛と記しています
【抜粋意訳】
引手力命(ヒキタチカラノミコトノ)神社
祭神 引手力命
祭日
社格 郷社所在 江梨村〔今属 君澤郡〕
今按 豆志に引手力命神社〔十足村〕手力雄は山名也 祠宇無しと云ひて 此村と定めたるは手力雄山の名によりたるにて 他に證あるに非す
一説に塚本村 萬後明神ならん 豆志に昔 肥田塚本一村なり 神名記の肥田王子は塚木萬後明神王子社に坐せし時の稱也 云々とあり
引手力命は手力雄神には非ず 三島大社の御子神にして塚本の社 本社なるべし云々と云り こは肥田村名によりて引手の約とせる説なれば信難し
又 一説に江梨村大瀬明神なるべし 神階帳に正四位上 潮の明神とみゆ 三津村 氣多明神の舊記に 七浦の總鎭守の神 御潮大明神云々と記せろ等を以て所囚ある神なることを知べし 斯て引手力命なるべしと云 故は天武天皇紀十三年十月壬辰逮ニ于人定 大地震云々時 伊豫ノ溫泉没シテ 而不出 土佐ノ國 田苑五十餘頃没シテ海ト 古老ノ曰 若是地動未ニ會テ有ヲ也 是ノ夕有ニ雷馨如 鼓聞ユニ于束ニ 有人曰 伊豆ノ島ノ西北二面ニ自然增益 三百餘丈 更ニ爲ニー島 則如キニ鼓音ノ者 神造ル 是ノ島ヲ響ナリ也と 有事迹を孜るに此 大瀬崎 則 全國の西北隅に當りて 疑ひ無く此ノ時 神造に成し所と聞え 增益三百餘丈更ニ為ニ一島と有るに 能くも適當せる所なるに既く先輩も云る如く 土佐の國地を引來て縫ひ付給へる事と聞ゆれば 其御事實に因りて 引手力と云 御稱を負せ奉れる事と思はるれば也 然れば古くより弓引業をはじめ手力を用ふる事に幸給ふ 神驗の著明なるも 神名に協へる事也と云るによりて 縣の註進にも此地と定めたれば 姑く之に從ふ されど天武紀の地震の事を引きて 此神の引來て縫付玉へるならんと云ひ 引手力命と云に 弓引業手力を祈るに驗ありと云を證としたるは附會に近し 猶よく考べき也
【原文参照】

教部省 編『特選神名牒』,磯部甲陽堂,1925. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1919019
肥田神社(田方郡函南町肥田)に「拝 (hai)」(90度のお辞儀)

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