比佐豆知神社(ひさずちじんじゃ)は 社伝によると創祀並に由緒は゛聖武天皇天平勝宝年間(749~757年)旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位し 往昔は萱葦の神祀六宇に鎮り座し東面した゛と伝えます 延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社です
目次
1.ご紹介(Introduction)
この神社の正式名称や呼ばれ方 現在の住所と地図 祀られている神様や神社の歴史について ご紹介します
【神社名(Shrine name)】
比佐豆知神社(hisazuchi shrine)
【通称名(Common name)】
【鎮座地 (Location) 】
三重県鈴鹿市寺家 3-2-20
【地 図 (Google Map)】
【御祭神 (God's name to pray)】
《主》五十猛命(いたけるのみこと)
《配》大屋津姫命(おほやつひめのみこと)
《合》抓津姫命,少彦名命,天照大神,伊弉冉尊,誉田別尊,天児屋命,速玉男命,事解男命,
【御神徳 (God's great power)】(ご利益)
【格 式 (Rules of dignity) 】
・『延喜式神名帳(engishiki jimmeicho )927 AD.』所載社
【創 建 (Beginning of history)】
由緒
当社の創祀並に由緒は、社伝によると、聖武天皇天平勝宝年間旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にし観音寺南側に位し、往昔は萱葦の神祀六宇に鎮り座し東面し北より秋葉金毘羅宮、富士権現、天神宮、熊野権現、神明宮、木立明神或いは富士権現と称し遠近の崇敬者多く特に両部神道の思想が強くうかがわれる、と伝える。
又白子山子安観音寺は、聖武天皇の御願所、藤原不比等の建立ともいわれ、また此所に咲く不断桜のことが稱徳天皇の叡聞に達し、勅に応じて大内の南庭に植ゑられたが、一夜のうちに枯木となったこと等が伝えられている。
さらに宗祗の句に、この桜の「冬咲くはかみよもきかぬ桜かな」の句もあり、子安観音寺の古さを物語っており、同時に当社の由緒の古さをもうかがうことができる。江戸時代に於ける当社の呼称は『伊勢式社案内記』や『伊勢国式内社宮地記』には木立明神と、又『布留屋艸祇』『神風徴古録』『背書国誌』などは富士(不盡)権現とあり、或いは子安観音寺の地主神として 崇敬されてきたのではなかろうか。
明治四一年(一九〇八)同地の村社熊野神社他一社を合祀している。
宝物等 棟札 二枚(延享二年〈一七四五〉二月一五日在銘・亨保一五年 〈一七三〇〉三月五日在銘)
皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会・三重県神社庁HP
https://www.jinja-net.jp/jinjacho-mie/jsearch3mie.php?jinjya=63753
【由 緒 (History)】
比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)の北側に「子安観音寺(真言宗)」があり 聖武天皇天平勝宝年間旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にした と社伝にあります
比佐豆知神社の由緒については 不明ですが 子安観音寺について
1300年つづく深い信仰 観音妙智力 能救世間苦 御本尊は白衣観世音
高野山真言宗の名刹で、御本尊は白衣観世音菩薩です。安産、子育ての霊験あらたかな霊場として全国に知られており、多くの方に御参拝頂いております。
寺伝には「御本尊は殊に大悲深く、難産のうれひを救い、子孫長久を守らせ給う、ゆへに子安観音とあがむ」とあります。御本尊、白衣観世音菩薩様の御真言は、おん しべいてい しべいてい はんだらばしに そわかと、唱えます。
天平年間開山の勅願寺
人皇第四十五代聖武天皇の天平勝宝年間に創建され、道證上人の開山による1300年余の歴史を秘めた由緒深い寺院です。その後、正親町天皇の勅願の綸旨も受けています。
付近には伊勢湾海岸が広がり、寺伝には「この浦に時々鼓の音あり怪しきまま網を下ろしけるに、鼓に乗り、観世音の尊像上がらせ給ふ。このよし帝きこしめし伽藍建立ありて勅願寺となりぬ」とあり、この浦は今も鼓ヶ浦と呼ばれております。
子安観音寺公式HPより
https://koyasukannon.net/whatiskoyasukannonji/
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【神社の境内 (Precincts of the shrine)】
・社殿
・境内社
・古い鬼瓦
【神社の境外 (Outside the shrine grounds)】
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この神社の予備知識(Preliminary knowledge of this shrine)
この神社は 大和朝廷による編纂書〈六国史・延喜式など〉に記載があり 由緒(格式ある歴史)を持っています
『六国史(りっこくし)』
奈良・平安時代に編纂された官撰(かんせん)の6種の国史〈『日本書紀』『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代實録』〉の総称
『延喜式(えんぎしき)』
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)
『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』(927年12月編纂)に所載〈This record was completed in December 927 AD.〉
『延喜式(Engishiki)律令の施行細則 全50巻』〈平安時代中期 朝廷編纂〉
その中でも巻9・10を『延喜式神名帳(Engishiki Jimmeicho)』といい 当時〈927年12月編纂〉「官社」に指定された全国の神社(式内社)の一覧となっています
・「官社(式内社)」名称「2861社」
・「鎮座する天神地祇」数「3132座」
[旧 行政区分](Old administrative district)
(神様の鎮座数)東海道 731座…大52(うち預月次新嘗19)・小679[旧 国 名 ](old county name)
(神様の鎮座数)伊勢國 253座(大18座・小235座)
[旧 郡 名 ](old region name)
(神様の鎮座数)奄藝郡 13座(並小)[名神大 大 小] 式内小社
[旧 神社 名称 ] 比佐豆知神社
[ふ り が な ](ひさつちの かみのやしろ)
[Old Shrine name](Hisatsuchi no kaminoyashiro)
【原文参照】
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【オタッキーポイント】(This is the point that Otaku conveys.)
あなたが この神社に興味が湧くような予備知識をオタク視点でご紹介します
『大神宮叢書』第3 後篇に記される゛『伊勢式内神社檢錄』比佐豆知(ヒサツチノ)神社゛内容
『伊勢式内神社檢錄』鈴鹿郡の条〈江戸時代末期の国学者 御巫 清直(みかなぎ きよなお)1812年~1894年(明治27年)の著書〉には 式内社 比佐豆知神社の論社について記しています
【抜粋意訳】
伊勢式内神社檢錄 奄藝郡 比佐豆知(ヒサツチノ)神社
此社は 安濃郡にも同名の祠ありて、上件に注する如く神號を以て社名に唱る故に其所在を詳にすること能はす。
延經ノ神名帳考證に、平野村産神此乎、と云ふは浮妄のことなり。
然るを案内記、宮地記等には、寺家村に坐す、木立大明神と云ふ、と載せ、
徵古錄、俚諺等には、寺家観音寺境内に在る富士権現とす、其 木立明神 ,富士権現 共に寺家観音寺の境内にあり、本堂の南に神祠六宇東面す、北よりーを秋葉 ,金毘羅 合祭の祠とす、二を富士権現と云ひ、三を天神、四を熊野権現、五を神明宮とし、六を木立明神と云ふ、然るに遺響には二社を謬混して云く、寺家観音境内に坐、萱葺ノ祠なり、方俗富士権現 或は 木立明神と稱す、と記せり。
富士権現、木立明神何れも本社たる證蹟あるにあらず。全く案内記の臆説に依て寺家に在りと云のみ。上件 加和良神社ノ條に注せし如く、寺家村ノ地は舊昔 大和國大安寺ノ所領にて寺家管下の地なり。其内に千古の官社は在るへからねば此地に舊祠を竟るは無稽のことなり。仍て當否は措て論せす。
然て白塚村舊庄屋西口彦右衞門か家に舊藏する書記に云く、白塚者元白土といふ、抑當所に鎭坐久土神事者、每年三月三日ノ夜火祭にて、赤餅を備へ奉禮拜人皆疫病且雷災を除といふ、此御神德を恐れしるへき處なり、然るに年月何比彌、比佐豆知神社幷に相殿 御太刀社大破に及ひ、御神體を暫く千王宮へ假に遷し奉るよし、然る處後世ノ者久土ノ御地へ中古山ノ神を祭る、
其傳説を是に荒增書記置者也、正保二酉歳青陽、大河内政一、右之緣起 津藩大河内長左衛門殿より申請候、就而は大河内長左衞殿先祖之義者 ,白塚村の住人に而、餘程家柄之人にて候處、故有て津方へ引越に相成、今御用鞘師職ヲ致居候事、明和六年午九月十日西口、といふ古書記ありて、今も白塚村の産神千王宮と稱する祠に本社の神霊を合祭し火雷命と云ふ鬼形ノ木像あり。
其壹に比佐豆知神社と彫せる旨を云傳ふ。其正保明和ノ書記質朴にして僞作とも見えねど、神像ノ臺に社號を彫れるは書記に符合せむとて後人の狡點に所爲するにあらざるか。其舊跡の山神といふ地實に路傍狹隘ノ地にて舊祠の廃蹟とは見えすなむ。其合祀すと云ふ千王宮は本名 千王名宮といふ。されば給人引付に載たる康安元年十月七日権禰宜文通、貞松等の解狀に云く、右於ニ伊勢國安藝郡栗眞庄黑田郷千王ノ名内福久ニ者、代々地頭被ルニ、奉寄セ二宮御油析ナリ云々、とある千王名は古昔千王と云ふ人に賜へる名田の稱にて、白塚ノ邊卽ち其名なりけらし。依て其地に在る祠を千王名宮と唱へしなり。
然るに東福寺義雲ノ千王名大念佛記に、中古斯地孟秋之月有ニテ洪水之害、人皆化ス魚ニ矣、幸ニ解ニ脱水難ヲ者止り於海濱ニ聚ニメ白沙ヲ爲リ佛塔ヲ唱ヘ般舟ヲ弔フニ亡民を、故ニ白土を改ムニ白塚ト、踊ヲ曰フニ念仏ト、と記す。奮と千王名の内にて 白土と字せる地を白塚と改むと云へど、恐くは訛傳にて白塚卽ち白洲加ノ轉音ならむ。依て白洲加に白土の字を假借したるを久土として本社を牽強せるにやと疑はる。是を以て推考するに楠原驛の産神 村北の山際に在りて千古を經たる舊祠なり。
〔 但 今の南方ノ参道は後世の開治にて新社地の如く見ゆれど、禰宜坂より北に入り新池の西南隅に至り北面に入て社前に至る舊路を經る時は古社地たる事疑なし。〕從古天神宮と稱す。
〔然るを諸書に鈴鹿郡の式社 志婆加支神社に配して扁額石灯籠等にも其名を記載するは傍注以後の誤認に據れる謁なり。郡の異なるをたに解せぬ麁妄なるをや。〕其社の東北に楠、平生と唱ふる林村の支邑あり。安濃郡なる比佐豆知神社天神と稱して草生村の平生に在り。當社も平生の近きにありて天神と稱すること同しきを見れば、若し是れ本社の遺せるにあらずや。猶明證を搜索して判定すへし。
【原文参照】
延喜式内社 伊勢國 奄藝郡 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社について
・比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)
・明神社(津市芸濃町楠原)
伊勢國 安濃郡にある 同名の式内社 比佐豆知神社(ひさつちの かみのやしろ)の論社について
・比佐豆知菅原神社〈草生天神〉(津市安濃町草生)
・比佐豆知神社〈雨土御前〉(津市鳥居町)
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【神社にお詣り】(Here's a look at the shrine visit from now on)
この神社にご参拝した時の様子をご紹介します
近鉄名古屋線 鼓ヶ浦駅から南西に約300m 徒歩5分程度で着きます
社殿 境内は東南方向を向いています しかし 境内入り口は南側にあります
社号標には゛式内 比佐豆知神社゛
比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)に参着
境内の中央部に鳥居が建ちます
比佐豆知神社の境内の北側に見えている三重塔は ゛聖武天皇天平勝宝年間旧刹たる白子山子安観音寺と神域を共にした゛と社伝にある 現在の子安観音寺(真言宗)のものです
一礼をして鳥居をくぐり 拝殿にすすみます
賽銭をおさめ お祈りをします
ご神威に添い給うよう願いながら礼 鎮まる御祭神に届かんと かん高い柏手を打ち 両手を合わせ祈ります
社殿の向かって右手には 境内社と石神が祀られています
【神社の伝承】(I will explain the lore of this shrine.)
この神社にかかわる故事や記載されている文献などをご紹介します
『神社覈録(Jinja Kakuroku)〈明治3年(1870年)〉』に記される伝承
式内社 比佐豆知神社について 所在は゛寺家村に在す゛〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉と記しています
【抜粋意訳】
比佐豆知神社
比佐豆知は假字也
○祭神詳ならず、〔俚諺云、木花開耶姫〕
〇寺家村に在す、〔俚諺〕
類社
当国 安濃郡 比佐豆知神社の條見合すべし
【原文参照】
『神祇志料(Jingishiryo)』〈明治9年(1876)出版〉に記される内容
式内社 比佐豆知神社について 社号のみが記されています
【抜粋意訳】
比佐豆知(ヒサヅチノ)神社
【原文参照】
『特選神名牒(Tokusen Shimmyo cho)〈明治9年(1876)完成〉』に記される伝承
式内社 比佐豆知神社について 祭神 所在など未記入です
ただし 考証が指している三つの論社を挙げているが いずれも確証がないので 他に求めるべきである と記しています
①寺家村観音寺内の木立明神〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉
②寺内の富士祠〈現 比佐豆知神社(鈴鹿市寺家)〉
③町屋村千王神社〈現 千王神社(津市栗真町屋町)〉
【抜粋意訳】
比佐豆知神社
祭神
祭日
社格所在
今按るに考證は 平野村産神案内記には寺家村観音寺内の木立明神 徴古錄には同寺内の富士祠 津藩明細帳には町屋村千王神社と謂ふ 各社を檢索するに何れにも確証とすべきものなし 猶他に覓(もと)むべきなり
【原文参照】